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NEW!! 建国大学教授森信三のこと―「建国大学閉学宣言文」起草者のひとり (1)
建国大学教授森信三のこと―「建国大学閉学宣言文」起草者のひとり (1)
はじめに
森信三は教育学者、戦前期満洲国で建国大学教授を務めた人物である。そして終戦により閉学となった建国大学の「閉学宣言文」の草稿を書いた三人の教員のうちの一人であった。
森が建国大学に奉職中の康徳9(1942、昭和17)年、建大の中国人学生が思想上の問題で検挙される事件が起こった。その結果建国大学副総長の作田荘一が引責辞任に追い込まれる。
この作田の後任に就いたのが陸軍中将の尾高(すえたか)亀蔵であった。森は研究者としての作田荘一を尊敬しており、研究者の出身ではなく、あまつさえ陸軍中将出身の尾高が副総長として就任したことを快しとしなかった。戦後からの回想であるが、森は尾高のことを「われ嘗て閣下と呼ばるるを好めりし人の許にありしことあり 今となりては過ぎ去りし夢の一齣なり」と書き、尾高のことを歌にまで詠んでその情を歌っている(『国あらたまる 歌集 (叢書国革まる)』(開顕社 昭和24年)。
そんな森信三は、終戦前に朝鮮へ出張し、終戦時に新京にはおらず、8月18日ごろ新京に戻ってきた。そして8月23日に開催された建国大学卒業証書・在学証明書授与式に出席した。この時尾高副総長は吉林方面へゲリラ戦に出ていたことから千葉胤成(たねなり)が副総長代理として訓示を述べている。そしてこの日に建国大学の閉学が宣言されたわけだが、宣言文の起草者には三人が名前を連ねていてそのひとりが森信三であった。このとき森は49歳、他の二名は、小糸夏次郎助教授(東洋史)が明治41年生まれの37歳、江頭恒治教授(経済史)は明治33年生まれで45歳であった。
本稿では森信三の渡満、建国大学時期の活動、尾高副総長とのこと、建国大学の閉学宣言、そしてその後引き揚げまでについて主に述べていくこととしたい。
森信三の略歴
森信三は明治29(1896)年愛知県知多郡武豊町の生まれ。岩滑(やなべ)小学校・半田小学校高等科を卒業したが家庭の事情で中学受験がかなわず母校の給仕となる。16歳ごろに岡田虎二郎の静坐法と出会い生涯続けた。準教員講習会を受講して半田小学校で代用教員。明治45年愛知県第一師範学校に入学し大正5(1916)年10月に卒業。愛知県幡豆郡(はずぐん)横須賀尋常高等小学校(現在の西尾市立横須賀小学校)教員。大正7年4月広島高等師範学校英語科に進学。ここで西晋一郎の講義を受けた。さらに大正12年京都帝国大学哲学科に入学する。京都帝大の哲学科には西田幾太郎がいたが、森は当時の哲学界の両雄の西と西田に学ぶという得難い体験をしたわけである。大学を卒業後大学院に進むがあわせて大阪天王寺師範・女子師範専攻科の講師を勤めた。ここでは広島高等師範の西晋一郎と京都帝大の西田幾多郎のテキストを使って教えた。昭和6(1931)年大学院を修了し天王寺師範の専任教諭。昭和7年10月から6か月間国民精神文化研究所第一回研究生となった。ちなみに西の門下で建国大学助教授となった小糸夏次郎は昭和8年3月に広島文理科大学を卒業し国民精神文化研究所哲学科の助手に就任している。森は昭和14(1939)年4月に渡満し建国大学に就任し教授。終戦を満洲で迎え昭和21年に引き揚げた。昭和26年10月兵庫県立篠山農大(兵庫県立兵庫農科大学)の英語教師、昭和28年には神戸大学教育学部教授に就任している。森が亡くなったのは平成4(1992)年11月21日。翌年半田市岩滑の常福院に納骨された。
森信三の伝記事項およびそれぞれの時期の懊悩や思索・執筆活動の詳細は、「自伝」『森信三全集 第25巻)』実践社 1967年、寺田一清 編著『森信三小伝』致知出版社 2011年などに詳しく述べられてあり、ここでは主に満洲時期の森信三について述べていく。
渡満して建国大学教授
天王寺師範学校在職中の昭和13(1938)年夏、広島高等師範学校で師事した西晋一郎から建国大学への赴任を打診される。西が大阪で女医宿にしている道頓堀北詰の河内屋でのことであった。この打診に対し森は、日本で「国民教育」に尽くそうと考えていたことからその旨を伝えて断った。ところが西は了解せず半時間ぐらい端座のまま向かいあっていたという。西の意向が変わらないとみてとった森はついに折れて渡満を決意する。その後作田荘一副総長が大阪の田辺西町の森宅を訪問して正式に就任の要請をした。担当科目は「哲学概論」「精神講話」などであった。『建国大学要覧 康徳8年版』にはこれに加えて「塾訓育」と記される。なお西晋一郎は作田荘一・筧克彦とともに建国大学の創設準備委員を務めていて、そんなことから森に白羽の矢が立ったというわけである。
就任を決めた森は、その赴任前の3月、建大に合格した日本の「新入学生訓練」の「伊勢神宮参拝」に参加している。引率は塾訓育の石中廣次教授で、3月31日から4月3日まで伊勢神宮や柏原神宮の「参拝・訓練」が行なわれた。ここで森は満洲赴任前に、入学予定の建国大学学生とはじめて対面する。そして建国大学が旧帝大と同様に、前期三年・後期三年の満洲の国立大学であり、その学生の優秀さに驚いている。「大てい旧制中学で上から三位くらいの者が多かった」と書く。満洲へは数年前に大阪女子師範学校の鮮満修学旅行団の付き添いで哈爾浜まで出かけたことがあったが、教職として就くのはむろん初めてのことである。
森は昭和14(1939)年4月5日単身で大阪駅から列車で下関に向かう。ここから釜山を経由して7日正午ごろに新京に到着、鉄道会館で作田荘一副学長への挨拶もすませた。
建国大学での活動
森は、建国大学副総長の作田荘一や、ニイチェ研究者でドイツ語担当だった竹風登張信一郎教授を尊敬していた。また建大 の「名物教授」として名誉教授の称号を授けられている筧克彦・西晋一郎・平泉澄、それに君山稲葉岩吉・岩間徳間らを挙げている。森は「作田先生の格別のご信頼をうけていたので」日本から招聘する講師の相談を作田から受けていたといい、推挙した東洋美学の金原省吾、神道哲学の鈴木重雄、仏教学の伊藤証信はいずれも建大に赴任することになっている。たしかに作田の信頼は篤く森は建大で重職に就いている。
就任後間もない康徳6(1939、昭和14)年5月22日には建国大学研究院の全体研究報告会では「日本當来ノ哲学」と題して発表も行なった。6月30日付「建国大学研究院勤務ノ任命並ニ嘱託」では建国大学研究院教授として企画室常務に名前が挙がっている。同年7月1日から8日まで、国境建設奉仕隊として黒河近くの国境地帯に派遣された。これは作田副総長が陣頭指揮を執ったものだと書く。8月には帰国し家族と同道で新京に戻った。
康徳7(昭和15、1940)年5月17日の部会総会研究班の決定事項では「基礎研究部の1. 建国原理班の班員(班長は作田研究院長)」、「総合研究部1. 思想国防班の班員(班長は筒井清彦)」を担当した。
さらに康徳8(1941)年4月1日現在の常置研究班所属班員一覧によれば森は「第一基礎研究部 哲学研究班の班長」、「第四文教研究部 国民教育研究班の班員」であった。また作田副総長から塾頭への就任を打診され引き受けている。塾生と座談ができる塾頭という仕事は楽しく意義深いものだったようだ。いずれにしても作田副総長の信頼は篤かったようである。
また森は建国大学からの依頼で講演をした人物も挙げて短評を述べている。軍人でノモンハン事件の強硬派であった辻正信、少年義勇隊を派遣した国民高等学校校長加藤寛治、食養生・心土不二で知られる桜川如一、相撲協会を脱退した相撲取の天龍、神道の筧克彦、合気道の植芝盛平らである。このうち桜沢如一については講演後の座談会でもいささか「暴慢な態度」で砂糖類を好む教授に「長生きはできない」など発言し、その評価は低いものであった。
副総長作田荘一の辞任と陸軍中将尾高亀蔵の就任
康徳9(昭和17、1942)年早々に森は作田副総長からの要請で教務科長に就任している。ところがそれから半年余り後の6月、作田副総長が辞任するという事態とあいなった。建大学生の思想上の問題により多くの検挙者をだしたことから、その責任を負うかたちで6月6日、作田荘一副総長の引責辞任が発表されたのである。6月16日に作田荘一副総長は依願退職となり、後任に陸軍中将尾高亀蔵が任じられた。
この尾高の副総長就任は、「日満両国の当事者からの要望」、梅津司令官の要請、さらに陸軍省人事局からの推薦であったという。だがこの就任に対し批判的な教員も学内には数多く存在した。研究職ではなく、しかも陸軍中将の副総長就任であったが故である。その就任式は6月16日養正堂でおこなわれている。ここで尾高が述べた訓示は次の三点であった。
1.建国大学生としての強烈な自覚を持つこと、
2.慈愛親切であれ、
3.規律を尊び勇気と実行の力を養え、
こうした、いかにも一般的で通俗的な訓示を述べた尾高新副総長に対して、真覚正慶助教授らは、「やっぱりと一同顔を見合わせた」という。
またこの就任式では尾高の訓示に対する答辞を登張竹風が読んでいる。登張は、「われわれは言わば四十七士である。思想と団結は固く、如何なる風雪辛酸をも意としない。ただ私かに憂う、大石内蔵之助はしっかりしているのかと」と言い放って尾高をじっとにらみつけたのだと真覚は書いている。そのとき将軍は、「カッと赤くなり、胸の勲章が小きざみにふるえて音をたてた。勝負はあった」と続けて記している(真覚正慶「ツァラツストラ歓喜嶺にありしとき」『登張竹風遺稿追想集』郁文堂出版 1965)。
森信三の尾高副総長への評価
森信三もこの尾高副総長のことを快くは思っていなかった。先の真覚の尾高評と同様に戦後からの回想であるが、森は尾高のことを、「陸軍部内でも「赤鬼」という異名で通っていて、非常に癇癖がつよくて、何を仕出かすかしれないというので、この人が膝元の東京にいることを、最も忌み憚った東条英機が、満洲の地へ追っ払おうとしたところが作田先生の御引退、例の学生の思想事件のために、御予定よりも半年早められた真因のようである」と述べる。事の真偽はわからないが、いずれにしてもこのような憶測が建大の教職員の間に流れていたということは尾高に対する反感が広く流布していたということなのであろう。
森はよほど尾高のことを嫌っていたと見えて、引き揚げ後であるが、「閣下」と題して短歌にまで詠んでいる。そこでは、「われ嘗て閣下と呼ばるるを好めりし人の許にありしことあり 今となりては過ぎ去りし夢の一齣なり」と書いたうえで5首が掲げられる。そのうちの2首を書き抜いておく(『国あらたまる 歌集 (叢書国革まる)』(開顕社 昭和24年)。
閣下といふ言葉を吐くを死ぬほどに 思(も)ひてしことも夢となりしか
軍人官僚ら閣下となるを唯一の ねがひとせしをかへりみおもふ
尾高が実際に自分のことを「副総長閣下」と呼ばせていたかどうかはわからない。だが尾高は、勲章と肩書をこの上なく大事に考えていたことは間違いない。終戦時ソ連軍の南下にそなえ、尾高は建国大学で「決戦隊」を組織してその隊長に就き、胸に墨書で「功〇級勲〇等陸軍中将元軍事参議官」と大書した白布を縫い付け日本刀を帯びて馬に乗って駆け回っていたという光景については何人かが回想している。胸に縫い付けたという墨書は、尾高が受章した「功二級金鵄勲章」「勲一位景雲章」である。そして尾高は、終戦となり建国大学決戦隊が解散となったあと吉林方面へゲリラ戦に赴きこれが不発に終わり、挫折して新京に戻ってからの住まいに、軍刀や勲章を何よりも大切に飾って置いていたことからもそのことはよく知れる。
学究肌でドイツ文学の登張竹風を尊敬していた森信三であってみれば、軍人副総長の尾高亀蔵とはまったく肌合いが合わなかったわけである。森は、「学問などというものとは大よそ無縁の人間がやって来て…学問のことなど全然分からないのに、研究会での席上などで、相槌などを打ったりしているのを見ると、滑稽という他なかったのである」と手厳しい。学問の領域とは無関係の人物であっても、納得したり共鳴したりすれば相槌くらいは打つであろうと思うのだが、いずれにしても、この森の尾高憎しの書きぶりはすざましい。こうした評価は戦後すぐに書かれたものではあるが、なにか逆に学者を特別視しているような印象を抱かせ、そのまま共感できないところもある。
森は作田副総長のもとで引き受けた教務科長だったが、作田が尾高副総長と交替したことからその辞任を申し出た。しかしそれは受け入れられなかったという。森の回想では、「作田派」の森信三を悪く言うかそうでないかで、その教員の考えが試されて都合が良いことから、尾高は森の教務科長の辞意を認めなかったのだろうと書き、その結果、尾高副総長の顔色をうかがいながら、「全学百数十名の教職員の非難の矢を、一身に受けることになった」とまで述べている。実のところ多くの教員がどのような反応を示したかはうかがい知れない。建国大学の教員のなかには、建国大学の理念を固く信じ、尾高副総長の就任を承認していた教職員もいたであろうし、森のように、満洲国や建国大学の建学理念を固く信じながら軍人副総長の就任には反対の教職員もいたであろう。また作田派・反作田派に色分けされずとも、研究上では好待遇であった建国大学という場でもっぱら研究に励もうとした「学究肌」の教員も少なからずいた。この色分けの試金石というのはいかがであろうか。
建国大学での森信三
建国大学での森信三の業務を『建国大学年表』により書き出してみる。
康徳8(1941)年2月に刊行された『研究院月報 第6号』で森は「現実と哲学」を書いている。先に少し述べたように同年12月27日の発令で教務科長に就任した。また翌康徳9(1942)8月16日の発令では「満洲百科事典編纂準備委員」に就いている。この百科事典編纂委員には森の尊敬する登張竹風名誉教授も名を連ねた。おなじく8月16日発行の『建国大学塾月報 2号』に「建大生としての学問」、康徳10(1943)年4月刊行の塾雑誌『建国 第3号』に「亜細亜的世界観」を寄稿。9月1日には一面坡および勃利訓練所の青少年義勇隊の実態調査のため10日間出張した。
この義勇隊調査を機としてであろうが森は義勇隊訓練本部の渡辺脩からの依頼で義勇隊少年のための「教本」の執筆を依頼されている。渡辺の熱意と真率さに打たれて腹案を作成し、義勇隊や開拓団に政策主任官房の関東軍四課将校も交えて編集会議が開かれた。この原案は修正なく承認されている。この印刷に取り掛かったのは康徳11(1944)年になってからのことであったが、見本の一部が新京の訓練本部に届いたものの戦火で焼けてしまったのだという。
康徳10年(1943)年10月12日には学内巡視補佐官の任命が行なわれている。ここでは前期1学年担当補佐官に森信三・佐藤匡玄ら、前期2学年に宮川善造・山本守ら、前期3学年には安倍三郎・大間知篤三ら、後期2年には江頭恒治・大森志朗ら、後期2年には向井章・高橋匡四郎らが任命された。そして16日には学内巡視補佐官を伴ない、尾高副総長による学内巡視が行なわれ、1 図書点検、2 校舎および塾舎外の整備整頓、3 ガラス窓その他の保管整備状況、の3点が点検された。このうち主眼は、学生の趣味思想などをその蔵書により調査する「図書点検」で、これには先に任命された巡視補佐官の教員があたったわけである。学生の「図書点検」というのも、この時代の国策遂行のための大学であれば、さほど抵抗感はなかったかもしれない。また任命は準送りの当番制で「業務」という認識であったであろう。そして森も他の教員と同じように、その任務を遂行している。
終戦後に森信三が副総長尾高亀蔵のことを詠った歌の前文に、「閣下と呼ぶこと堪へ難くしてわが椅子を擲(なげう)たんとせし幾そたびなりし」と書いているのだが、軍人辞表をたたきつけようかとまで考えた尾高副総長の率いる学内巡視であった。「仕事」とはいえ、尾高副総長の補佐官として学生の「図書点検」までも行うというのは如何な気持であったであろうか。
そんな森ではあるが、同じ時期の康徳10(1943、昭和18)年3月の精神講話で、「勅書を奉読し、塾歌を歌ったときの感激が建大の精神の中心たるものと思う」と講義をしている(山下光一「塾生日記」、参照は『建国大学年表』より)。またさらに『歓喜嶺遥か : 建国大学同窓会文集 下』に回想文「小糸先生のことなど」を寄せている小谷部東吾が、「私の建国大学は終戦とともに始まる」と書き出し、建国大学在学中のことで記憶していることと言えば、森信三教授が、「満州は神の申し子である」と体をやや斜めに構えて言ったことだけだと続けている。小谷部は昭和20年2月に建国大学に入学した歳若い学生で終戦後は小糸夏次郎助教授に引き取られたのだが、小谷部や山下の回想にあるように、森は満洲国の民族協和・八紘一宇といった建国精神に彩られた建国大学の建学精神に深く傾倒していたのは確かなことであった。そんなかれであるからこそ、建国大学の閉学宣言の起草者のひとりとなったのであろう。
森は康徳11(1944)年4月24日から27日まで、協和会合同訓練の出講義のため協和会の委嘱により一面坡に出張している。一面坡には青少年義勇隊の実態調査のため以前に出張しているのでその縁があっての講義であっただろう。この時期の協和会は、すでに完全に満洲国を一元的に統治するための教化機関となっていた。
森信三の終戦
さて終戦の年の康徳12(1945)年7月、森は学生募集のため朝鮮への出張を命じられる。戦局は悪化の一途をたどっており、「来年の入学」も危ぶまれる状況であったが、こんな状況にあっての学生募集の出張であった。森は安東から朝鮮に入り各地を回って8月14日最後の目的地の平壌に到着した。ここで鉱山を経営する朝鮮人実業家から、明日の15日に日本降伏の重大発表があると知らされる。そして彼から、南朝鮮に農園を持っているので引き揚げには少しでも日本に近いこの農園に来たらいかがかと誘われる。
森は新京に家族も残しており、その申し出を丁重に断り、平壌発新京行きの列車に乗った。終戦時の鉄道がみなそうであったように、動いては停車し、なかなか発車しない。覚悟を決めて列車に乗っていた。そしてようやく終戦の2日後の17日午前奉天駅に到着する。
奉天で気がかりだったのは旧制中学3年の長男のことである。長男は奉天の北陵近くの文官屯造幣廠に動員されていた。混乱のなか、駅でようやく馬車をひろうことができて文官屯に行ってみたところ首尾よく長男と会うことができた。教官からは、連れて帰ってもよいと言われたのだが、長男にその意思を聞いてみると、友人もいるので帰るわけにはいかないとの答えであった。森は後ろ髪をひかれる思いでひとり奉天に戻り、そして新京へ帰った。
森が家に着いたら家族は軍とともに新京を脱出していた。家族は、官舎街の最後の疎開者として関東軍自動車隊に便乗して新京を脱出していたのである。このとき森夫人はご近所の同僚西元宗助夫人に、いっしょに疎開しようと誘った。西元夫人は疎開することをいったん決意し部隊兵舎まで行った。しかしながら西元夫人は考え直して、「あなたがここで死ぬ気ならわたしも」と戻ってきたのだという(西元宗助『ソヴェトの真実 : ソヴェト俘虜記』弘文堂 1953年)。疎開する人も満洲に残る人も厳しくつらい決断であった。
他の建大の家族は終戦前の8月12日、大間知篤三教授の引率で軍属の列車に乗り、通化や北朝鮮に移動していた。よく言われるように、関東軍や満洲国官僚およびその家族は終戦前にいち早く新京をあとにし、何も知らされぬ一般大衆は満洲に残されて辛酸をなめることになるのであるが、建国大学の家族は満洲国の職員の家族として、終戦前の移動という満洲国官僚に準じた扱いであったこともわかる。森はこうした事情を知って、家にいるより大学の方が安全かと思い、南嶺の建国大学に向かった。
建国大学の対応
建国大学では、森が朝鮮へ学生募集の出張に出かけている間の8月9日、ソ連軍が南下したことを受け、11日に日系教職員だけでの「秘密緊急教授会」が開催された。ここで尾高副総長はかれの統率のもと「建国大学戦闘隊」の結成を指示した。その目的はソ連軍の進撃を少しでも押しとどめることにあり、ただ不同意の教職員についてはその行動は自由とする、というものであった。建国大学は五族協和を体現する国策の大学ではあったが、大学という教育機関の教職員や学生が、南下するソ連の軍隊を阻止するための戦闘隊員としてその一翼を担うという尾高の方針は、いかにも軍人副総長の考えるものではあった。
それにしても、戦闘隊に参加・不参加について、「不同意の教職員の行動は自由」と言われてはみても、これに対する教職員の判断は容易なものではなく、皆困惑したことではあったろう。教員の中には、ただ単に研究条件の良い就職先として建国大学の教職に就いた者もいたであろう。だがそれも「渡満」という大きなハードルを越えての就任であり、多少なりとも建国大学の建学精神に共感した教員も多かったと思われる。また森信三のように、満洲国や建国大学建学精神を信奉していた教員であっても、軍人副総長の尾高亀蔵副総長に反発していた者も多く存在していたに違いない。しかもソ連軍に対して即席の素人戦闘隊である。いずれにしてもそんなソ連の軍隊と戦うというのは命を賭してのことであり、戦闘隊への参加・不参加は極限の決断であったわけである。
そしてこの日の午後4時に「満系学生」が軍需工場に向かうための壮行式が開催され、前田鷹衞教授の引率で出発した。日系学生は戦闘隊に編成され、満系学生は軍需工場での勤労動員と相なった。ただ日系学生の戦闘隊とは言っても建大生は12日の「根こそぎ動員」「臨時防衛召集」により、大学には20歳未満の学生が70名ほど残っているだけであった。いずれにしても、これで「五族」「協和」の建国大学は事実上解体したと言ってよい。
「建国大学閉学宣言文」
11日に尾高副学長を隊長とした建国大学戦闘隊が結成されたものの、15日には終戦の詔が発せられ、満洲国は崩壊、建国大学は存立基盤を失い、教職員は解職となった。建国大学戦闘隊も母体がなくなり解散となる。尾高副総長はといえば、地理をよく見知った吉林に向かってゲリラ戦に出発した。しかしながらこの作戦は不首尾におわり、尾高は新京に舞い戻り、拘束を恐れて潜伏する。
森信三は11日の建国大学の「秘密緊急教授会」および戦闘隊を組織するとの尾高指令の折には未だ朝鮮出張から新京に戻ってはいなかった。このことは森にとって結果的には幸いであったかもしれない。戦闘隊への参加は随意とされたものの、森は建国大学で多くの役職も務めた中枢の教授であり、森自身もまた建国大学の理念を深く信奉していた。そんな森にとって、もしもこの戦闘隊への参加・不参加の決断を迫られたとしたらいかがであったであろうか。これは難しい選択となったに違いない。「わが椅子を擲たん」と辞職まで考えるほど嫌っていた尾高副総長のもとでの戦闘隊である。戦闘隊への参加また不参加の決断は、どちらを選んでも気持ちのよいものではなかったろう。
森は8月18日には新京に戻っていたと思われるのだが、その後の建国大学はといえば、8月20日に武装解除、23日卒業証書・在学証明書の授与式が行われている。尾高副総長が吉林方面にゲリラ戦で出ていたことからこの授与式では副総長代理の千葉胤成が訓示を述べた。これで名実ともに建国大学は閉学となったのである。
参会者は教員数十名と日系学生約百名であった。建国大学の教職員数の三分の一ほどであったであろうか。欠席の教職員は、ソ連軍南下の情報を得て新京を去ったか、たまたまこの時に新京にいなかったか、また意図的に参会を見合わせたか、いずれかであろう。
ここで「建国大学閉学宣言文」が発表されている。起草したのは小糸夏次郎助教授(東洋史)・江頭恒治教授(経済史)そして森信三教授であった。小糸については別稿で述べる。
この宣言文では、卒業生および学生諸子は母校を喪うことになるが、「亡羊岐路ニ迷フカ如キコトアラハ顧テ往事学窓ニ学ヒシ東亜興隆ノ大使命ヲ想起セヨ、(中略、今後各自は職場を選び離散することになるが―著者)諸子ノ心裏ニ明刻セラレタル大道ニ則リテ戮力同心其ノ職域ニ精励シ以テ東方道義ヲ発揚シ民族協和シテ世界ノ進運ニ貢献スルアラン事ヲ切望シテ已マサルナリ」と述べるそして最後に、建国大学は形而上より解体したが「其ノ無形ノ本体ニ至リテハ不滅ノ存在ヲ継続セントス」と結んでいる。「閉学宣言文」でもあることから、何というか現在地点からの感想になってしまうが、満洲国や建国大学という「実体」を失い、「信念」だけを固く握りしめている、そんな理念至上の内容になっている。この宣言文を主として誰が書いたかは知れぬが、森の抱いていた建国大学の精神が色濃く反映されており、森が草案を書いたのかもしれない。
もしこの閉学宣言文が森信三の手になるものであったとしたら、そこには広島高等師範学校時代の恩師西晋一郎の姿勢が色濃く映し出されているように思われる。
西は日本の敗戦が色濃くなった昭和18年1月22日、「論語顔淵篇子貢問政章」をテキストとして昭和天皇に御進講を行なっている。子貢が孔子に政(まつりごと)について問うたのに対し、孔子は「食糧を豊かにし」「軍備を十全にし」「人々が信頼すること」と答えた。さらに子貢が、もし已む無く捨てるとしたらどういう順になるかと問うと、まず軍備を捨て、次には食糧を捨てよう、信頼がなければ国家は成り立ちゆかぬ、と孔子は答えたという内容であった(西晋一郎については山内廣隆『昭和天皇をポツダム宣言受諾に導いた哲学者-西晋一郎、昭和十八年の御進講とその周辺』ナカニシヤ出版 2017年 を参照した) 。
8月15日、天皇の終戦の詔は発せられる。こうなれば満洲国の崩壊、建国大学の閉学は避けることができない事実である。それは受け入れざるを得ない。そうした厳しい現実を前にして、閉学宣言は、満洲国および建国大学が崩壊したとしても、それでもなお建国大学に学んだ「東亜興隆ノ大使命」「東方道義の発揚」「民族協和への貢献」は不滅の理念であると述べている。
御進講は戦争前の昭和18年であり、閉学宣言は終戦直後のことである。時代と状況は異なるとはいえ、「信頼」は何としても捨て去るわけにいかないという御進講の西の理念と同じように、「信念」を握りしめて離すまいという閉学宣言起草者の姿が映し出されているようにも思われるのである。
終戦時新京での暮らし
さて、建国大学が瓦解したことから、日本から来てすぐに帰国できない建国大学の学生に対し、塾頭や教員には2人当てで身柄を引き受けることも定められた。森は家族が通化方面に去っていたことから、有馬・井上・金森の3人を引き受けることとなった。いずれも森の塾生である。勤労動員から帰ってきた長男ともども男5人暮らしとなった。
森は仕事もなくなり、食事以外の時間は「読書三昧」の生活となった。森の回想によれば読んだ本は、『カラマーゾクフの兄弟』などのドフトエフスキー、ヒトラーの『マイン・カンプ』(我が闘争)、そして毛沢東の著作であった。毛沢東の著作は、東亜同文書院を卒業して各地の領事館に勤めた遠藤秀造が届けてくれたものである。この遠藤秀造には『楠窓 : 随筆 第2集』(楠窓庵 1982年10月)があり、それによると遠藤は大正12年夏に外務省に就職し、岡部長景 が部長に就いた対支文化事業部の中国視察に入沢達吉ともども「カバン持ち」として同道したという。北京で終戦を迎え、昭和21年春に引き揚げた。家族はすでに昭和18年春に日本に帰っていた。遠藤は外務省を昭和21年暮に退官している。
そして新京の森である。森は、12月14日ソ連軍に連行されてしまった。おなじように建国大学教授の西元宗助もソ連兵の急襲をうけて他の日本人ら20名ほどとともに連行され、神武殿裏の丁公館に押し込められている。さらには学生と共に論語学習会をしていた建国大学助教授の小糸夏次郎も踏み込まれてしまい、学生約10名ともども連れてこられたのである。
ここで一人一人取り調べが行なわれた。そこに「一人の赤軍下士官が颯爽と入ってきたという。その顔をみて一同はアッと驚いた」。建国大学の学生で1年ほど前に突然大学から姿を消した「白系学生」のスタブスキーであった。西元や小糸はスタブスキーに対し、「教官はともかくとして、ここにいる君の同窓はなんの罪もないのだ」と訴えて釈放を要請した。その甲斐もあり学生たちは釈放された(西元宗助『ソヴェトの真実-ソヴエト俘虜記』弘文堂 1953年)。
森信三は小糸夏次郎や西元宗助と同様に連行され、シベリア送りとなるべく寛城子駅まで送りこまれた。ただ森はここで、老齢であることを理由に釈放されてシベリア送りを免れている。森はこの時50歳ほどであった。ちなみに西元は36歳、小糸は37歳であった。この次第は西元の回想に拠り小糸夏次郎の項目で詳述する。
さて連行を免れた森にとっての心配事は新京から脱出した家族の行方であった。森は塾生の金森を連れて新京を発ち奉天に向かう。昭和20年12月27日のことである。奉天に行けば展望が開けると思ったわけではない。二人はそんな奉天に着いたのだが、当てにしていた知人の古物商はいない。同道の金森が、建国大学学生の「源田君」の家を訪ねてみようと意見を述べた。「源田君」は総務庁次長を務めた源田松三の長男で、森は松三とも面識があった。海軍大佐の源田実は松三の兄である。(源田松三には『来てくれと頼んだ覚えはない:温井ダム建設34年の軌跡』どんぐり舎 がある。未見)。
ようやく源田宅を探し出し、ここで「食客」となる。ところがしばらくして、繋がりの糸だった建国大学学生「源田君」が発疹チフスにかかって亡くなってしまった。森らはこれ以上源田宅に滞留するわけにもいかず源田宅を出たのである。以後森は奉天で苦しい生活を強いられる。大道易者の商売もした。
森は奉天の街で吉田東州とも会っている。吉田は、森が広島高等師範で師事した西晋一郎のことを、西田幾太郎よりも偉い学者だと語ったという。森はその時吉田のことを、見識ある人物との印象を持ったのだがよく見知らず、帰国してから吉田と一度会う機会があり、それがかの吉田東州であるとわかったのだという。
吉田東洲については『仏国及欧洲史論 : 人物・文明 時に会はず』(吉田東洲著作刊行会 1983年4月)などに「著者略歴がある。それによると、小学卒、大日本国民中学会正則中学講義録独学、東京国民中学会附属高等予備校在学、大阪土佐堀YMCA理科学院在学等々と続く。満洲国時代の略歴を書き出すと、協和会中央本部思想班長、協和思想研究会主宰、東辺道西辺道宣撫工作従事。満蒙毛織社長椎名義雄秘書嘱託。王道書院大学講師、敗戦奉天で奉仕学園講師。引き揚げ後は福岡心霊協会顧問九州農士学校講師など。なおここに出る王道書院は、元国務総理鄭孝胥が儒学教育を行なう目的で昭和12年5月2日開設した学校で、田辺治通が理事長、後に日高丙子郎が副院長を務めた。日高については以前に書いた。
引き揚げ
そんな森信三に引き揚げの時がきた。森はソ連兵に連行されながらも高齢を理由に、すんでのところでシベリア送りを免れて釈放された。同様に連行された小糸夏次郎や西元宗助はシベリアの収容所へと送られている。小糸はここでチフスにかかり無念のうちに亡くなっている。西元は何とか生きながらえ、『ソヴェトの真実-ソヴエト俘虜記』(弘文堂 1953年)という、自他をよく対象化した詳細な回想記を残した。
森信三は奉天から貨車で錦州へ、ここで半月ほど滞留し、所持金千円を許されて葫蘆島から6月7日バイカル号に乗って舞鶴港に入港した。船中に一昼夜とどめ置かれて6月8日ようやく上陸することができたのであった。同道してきた金森もいっしょに引き揚げている。そのときに森が詠んだ歌。
戦に敗れし国か山河は旧のごとくに美はしけれど
同道の金森は伊丹に両親がいて上陸後に電報を打った。ふたりでとりあえず大阪行きの切符を購入して乗車する。大阪駅に着いたものの誰も迎えは来ておらず、やむなく金森は伊丹に、森は夫人の実家のある甲子園に向かうこととした。甲子園に着き、森はようやく夫人の家を探しあてた。
玄関のベルを押すと、ドアから出てきたのはなんと夫人であった。夫人は新京から軍属の列車に乗って通化に向かったが、乗っていたのが軍の特設工業学校の生徒たちだったことから、釜山まで直行して下関で解散すべしとの軍の命令で唐津に上陸したのだという。夫人らの引き揚げは終戦後一か月の昭和20年9月15日であった。建国大学教職員の家族ということに加えて同乗者が工業学校の生徒であったことも幸いして、きわめて早期に引き揚げることができたのであった。稀有なそして幸運な引き揚げであったと言える。
まとめ
ここまで森信三について、主として、渡満および建国大学在職中の仕事、さらには終戦時の体験から引き揚げまでをみてきた。こうした事象を見ていつも考えることだが、それぞれの局面での決断が一生の分水嶺になっていることである。そしてまた、そんな事態に至ったことの偶然性というものにも思いを致さないわけにはいかない。
森信三にとって広島高等師範学校での西晋一郎との出会いは森の「行き方」にとって大きな意味を持った。森は恩師の西から建国大学への転身を勧められた。建国大学への就任を強く求める西と対座した森は、いったんは固辞する。日本で国民教育に尽くそうと考えていたからである。しかしながら西の決意は固く、森はついに建国大学の教授就任を承諾した。西晋一郎は建国大学創設委員のひとりであった。西は森を建大に送り、建国大学の理念に沿って教育活動に邁進してほしいと心から考えていたのである。この建国大学就任は森の大きな分水嶺となった。
そしてまた、建大学生の抗日運動による拘束を理由に引責辞任した副総長作田荘一の後任に、陸軍中将の尾高亀蔵が就いた折にも森はその去るか残るかの判断をしたことであろう。軍人副総長の就任を快く思っていなかった森は、作田の要請で康徳9(1942)年に就任した教務科長の辞任を申し出たが、副総長は聞き入れようとしない。森はここで大学を辞めてしまおうかと考えたかもしれない。だが森は踏みとどまった。満洲国建国の理念や建国大学創設の思想に深く思いを寄せていたからである。
さらには、終戦で満洲国が崩壊し建国大学が閉校となったときに発表された閉学宣言の起草者のひとりとなったこと、これも森の決断であった。ソ連軍の新京侵入を前にして開催された秘密職員会議の時に森は朝鮮出張により不在であった。この会議で尾高副総長は、ソ連軍侵入に対する教職員の対応や意向の聴取を行なった。それは、この状況を前にして、建大教職員のひとりひとりにその決意のほどを問うたということでもあった。意向聴取を受けて尾高は建国大学戦闘隊の結成を指示したのだが、森はこの会議の時には不在で、その意向や対応に意見を書く機会を持たなかった。このことは、本文でも述べたように、「結果的には」森にとって幸運であったとも思うのだが、当の森にしてみれば、このことが胸の奥に引っ掛かって、なにかどこか割り切れない思いや心情を抱え込んだのではないか。そんなことから森は、建国大学の閉学宣言を、小糸夏次郎、江頭恒治とともに起草者となったのではないかと考えてみたい。
森は三人ののうち一番の年長で、また五族協和という建国大学の理念を固く信じていた。そんなことから建国大学閉学にあたって起草者になることを決断したのである。森が先の教職員会議に出席していたとしたら、果たして森は、尾高総指揮のもとの戦闘隊に参加したであろうか。それは難しい判断になったことと想像する。しかしながら運命というか偶然というべきか、実際には森は朝鮮出張により不在であってその「決断」は迫られなかった。そのことも遠因となって建国大学閉学に当たっての宣言文の起草を申し出たのではないか。
そして最後に思いつくことは、満洲へと侵入してきたソ連軍に連行され、あやうくシベリヤ抑留にならんとしていたときのことである。建国大学の学生だった白系ロシア人のスタブスキーがたまたまシベリヤ抑留の兵士として任に当たっていた。西元宗助や小糸夏次郎も連行されていたのであったが、スタブフスキーは、高齢を理由として森を釈放したのである。同じように連行された西元や小糸は寛城子の駅からシベリヤに送られ、シベリヤで強制労働に従事し、小糸は現地で命を落としている。
分水嶺をなすもののうち、めぐりめぐってくる偶然というものはいかんともしがたいものだが、その時どきに下した決断がいかに重大なものかということを思い知る。これら大きな分水嶺以外にも、日々日常の偶然や選択、判断や決意の積み重ねにより、人は誰しもそれぞれの人生を歩みや将来道筋が定まっていく。わたしたちには、さほど大きな分水嶺ではないとしても、その積み重ねによりその人生が定まっていくということがよくわかっている。であるからこそ、森のその時どきの決断や、如何ともしがたい偶然性による大きな分水嶺に、わたしたちの生きてきた道筋を重ね合わせ、共鳴とまた時に反発の感情を持つというわけである。
2026年1月23日 記