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NEW!! 小糸夏次郎、建国大学閉学宣言、森信三、西元宗助、小谷部東吾、『安達太良』
建国大学助教授小糸夏次郎のこと―「建国大学閉学宣言文」起草者のひとり
はじめに
小糸夏次郎は建国大学助教授を務めた東洋学者である。建国大学に在職中の昭和20年8月9日、ソ連軍が参戦し南下してくる。建国大学では、ソ連軍に対して「建国大学決戦隊」を結成して防戦の態勢をとったが、15日の終戦の詔により満洲国は崩壊する。それに合わせて拠って立つ基盤を失った建国大学も瓦解した。大学では、父兄から預かった大事な学生を無事に日本に帰すことこそが責任との安倍三郎教授らの意見も取り入れそうした決定をみた。
その後建国大学では、8月20日に武装解除をしたうえで、23日には卒業証書・在学証明書の授与式が行われている。尾高亀蔵副総長が吉林方面にゲリラ戦で出発していたことから千葉胤成が副総長代理を務めて訓示を述べた。ここで「建国大学閉学宣言文」が発表されたのであった。この閉学宣言文を起草した教員のひとりとして小糸夏次郎助教授の名前が挙がっている。他の二名の起草者は、経済史の江頭恒治教授、教育学の森信三教授であった。小糸はこのなかでもっとも年少であった。
この宣言文は『建国大学年表』に載っている。それは、今後岐路にあって迷うことがあれば建国大学で学んだ「東亜興隆ノ大使命ヲ想起セヨ」、また今後は各自の職域で励むことになるがそれにあたっては「東方道義ヲ発揚シ民族協和シテ世界ノ進運ニ貢献スルアラン」と、建国大学の協和の精神をあらためて確認する内容のものであった。
ここではこの宣言文を起草した人物のひとりとして小糸夏次郎助教授を取り上げる。なおこの小糸については、関口順の貴重な研究があり、主としてこの論に拠りながらメモを作ってみる(「小糸夏次郎小伝」(『埼玉大学紀要(教養学部』 46巻1号 2010年)。
小糸夏次郎の事績
小糸は明治41(1908)年愛媛県西条市壬生川の生まれ。昭和4(1929)年に広島高等師範学校が改組されて広島文理科大学が設立されたのだが、小糸はこの広島文理科大学に昭和5年4月に入学している。なお母体となった広島高等師範学校はあらためて広島文理科大学の附置校となった。
広島文理科大学には高等師範学校から教授を務めていた西晋一郎がおり倫理学を担当していた。小糸は文理科大学で倫理学を専攻し西のもとで学ぶ。昭和8(1933)年3月に文理科大学を卒業した小糸は国民精神文化研究所哲学科の助手となった。この国民精神文化研究所は昭和7年8月、学生の左翼化の対策の一環として、国体・国民精神・国民文化の発揚さらにはマルクス主義など外来思想の批判のための研究機関として設置されたものである。研究部は歴史科・国文科・哲学科・教育科・法政科・経済科・自然科学科・思想科が設けられていたが小糸は哲学科の助手に就任したわけである。研究所創設早々の赴任であった。
昭和12(1937)年3月、小糸は研究所を辞して広島文理科大学講師に転身する。先の関口順の論考に拠れば、推薦人は西晋一郎で、西から空外山本幹夫宛の手紙には、小糸は経歴が浅く人事教授会においての助教授職での決定にはいささか不安もあるが、同僚の加藤常賢教授の意見にしたがって助教授での提案を、と書かれてあるという。だが結局小糸は講師での採用となった。
(註)ここに出る空外山本幹夫についてであるが、出家したのちに入山した島根県雲南市加茂町にある空外記念館のホームページに「山本空外上人略歴」が掲出されている。それによれば、空外は明治35(1902)年広島の生まれ。大正9(1920)年9月、広島一中から松山高校文化乙類に進んだ。この時期に光明会の山崎弁栄聖者の高弟藤本浄本師から教えを受けている。東京帝国大学文学部に入学し大正15年3月に哲学科を卒業した。山形高等学校講師を経て昭和4(1929)年4月に創設の広島文理科大学助教授に就任、昭和11年教授となった。戦後広島で被爆。昭和22年5月に島根県大原郡加茂町の隆法寺の住職に就任し10月広島文理科大学教授を辞任した。昭和27年1月には「懇請に抗し難く」愛媛大学文理学部教授を務めた。昭和28年3月には京都府相楽郡山城町上狛の法蓮寺第27世住職を兼務した。
建国大学助教授に就任
さて小糸だが、昭和15(1940)年4月、広島文理科大学を退職し建国大学に助教授として赴任する。前年の昭和14年に、おなじく西晋一郎の推薦で建国大学教授に就任した森信三も、赴任前に建大に合格した日本人学生の「新入学生訓練」「伊勢神宮参拝」に日本から参加しているのだが、同じように建国大学への赴任が決まった小糸も昭和15年の建大生の「新入学生訓練」「伊勢神宮参拝」に参加している。前年に森信三が日本から参加した行事と同様の措置であった。ちなみにこの昭和15年の渡満新入学生団の「伊勢神宮参拝」には森信三教授が引率をしていた。
このときの小糸の様子が『建国大学年表』に楓元夫の文章として収載されている。関口も註で引用しているのだが、楓はこう言っている。「小糸が学生と同じようにミソギのため冷たい三月の五十鈴川の水に入ろうとして、その冷たさに当惑しモジモジしている姿」、この小糸の姿に楓元夫は何とも言えぬ親近感を抱いたというのである。建大生となった楓は友人の佃に連れられて小糸の家に出入りした。楓は、建国大学の講義や訓練・研修で「当時名声の高かった」筧克彦らの講義も聴いたわけなのだが、楓にとっては、小糸のそんな姿の方が鮮やかな印象として残っているというわけである。
こうした楓の抱いた感想は、その後の小糸の建国大学での「働きぶり」をよく言い当てている。「先生として“陣頭”に立たねばならぬという責任感、義務感と同時に、アバラ骨まで見えるような痩身で、ウロウロする姿に、いかにも人間らしさを感じたのである」と書いている。この楓の印象は、建国大学の終戦およびその後の小糸の行き方やふるまいをよく見通しているように思う。
建国大学での小糸夏次郎
小糸夏次郎は康徳7(1940、昭和15)年4月、建国大学助教授に就任した。ここでは小糸の建国大学での仕事や活動を『建国大学年表』から拾って書き出してみる。
康徳7年5月17日には各研究班が決められ作田荘一研究院院長から説明があった。小糸は基礎研究部の〈3 哲学班〉に所属する。班長は森信三教授で安倍三郎教授もいた。研究発表会も開催されている。また小糸助教授は文部省諸学振興会の哲学会にも参加したと出ている。8月には後期授業研究班の全体会議に出席、小糸は基礎学科(共通学科)のうちの「儒教」を担当した。この基礎学科には他に、作田荘一「建国精神」、筧克彦「神道」、大山彦一「民族学」、千葉胤成「国民心理学」ら重鎮が名を連ねている。10月上旬に「前期授業研究諸分班員」の決定がなされ、小糸は「塾分班」「学課分班」に振り分けられている。11月12日から後期授業科目「儒教」の講義案作成のため広島・東京・水戸に出張した。 この「儒教」の講義は予定通り昭和16年2月3日に開講となり、政治科・経済科・分教科の配当とされた。
康徳8(1941)年4月1日に年度の常置研究班の所属が発表された。小糸は第一部基礎研究部の〈1哲学研究班〉に所属、班長はかわらず森信三教授、班員に前田鷹衞・西元宗助・平下欣一もいた。また第四部文教研究部の〈支那文化分班〉にも属した。7月6日には第一期生を15班に分けて2週間の日程で地方実態調査に出ているが、小糸もその指導のため哈爾浜・葦河・牡丹江・寧安に向けて出発している。建国大学では、自身の研究のための出張も頻繁に出ることができたが、こうした実践的な授業も数多く行なわれて教員もその引率に忙しかったのである。
康徳9(1942)年1月26日附で発表された康徳9年度後期の第1学年1学期の講義科目でも「儒教」を担当している。5月には第一期生卒業論文の題目が決定したが、小糸助教授(儒教)が担当した学生の論題は、「東洋教学特質と其の構造(儒教を中心として)」「支那民族の世界観」「国家経綸に於ける祭祀の意義(儒教を中心として)」というものであった。どの教員も2名から4名の学生を受け持っており、小糸の3名というのもまず平均的な人数であった。9月7日には開学5周年の創立記念講演会が西広場満鉄厚生会館で開催され小糸助教授は「危機の思想」と題して講演を行っている。
康徳10(1943)年1月4日付けの「総力戦・興亜教育・固有工業、新課題を加えて年度研究開始」において、小糸は「基礎研究部 国民精神研究班」に属し千葉胤成班長のもとで研究を行なった。9月12日には第一次入学試験の監督のため20日まで安東に出張する。11月22日『研究院期報 5輯』が発行され小糸は「儒教の世界―儒教的存在論」を寄稿している。12月22日付けで研究院企画部員に任命。
康徳11(1944)年1月3日から19日まで「満洲建国精神学的体系樹立のため王道思想に関する資料収集のため」広島に出張。「建国精神の徹底を企図」の目標を掲げて7月22日から31日まで開催された夏期大学では、小糸助教授も「詔書謹解」を受け持った。
康徳12(1945)年、建国大学は終戦を迎える。終戦時の建国大学については、尾高亀蔵・森信三・安倍三郎の項でも書いたのでここでは繰り返さない。終戦時建国大学では昭和20年8月23日尾高副総長不在のなか、千葉胤成副総長代理のもとで解散式が開催され卒業証書・修了証書・在学証明書が授与された。この場で建国大学の閉学宣言文が発表されている。その起草にあたったのは、江頭恒治教授・森信三教授、それに小糸夏次郎助教授を加えた三名である。この宣言文は『建国大学年表』に掲出されている。このこともすでに書いた。敗戦を迎えて崩壊した建国大学が、掲げてきた理念を前面にだした内容であった。
小糸夏次郎の戦後
小糸の建国大学での活動をざっと見てきた。助教授ということもあってか、建国大学で大きな役職に就いたわけでもなくまた活動も目覚ましいというものでもない。どちらかというと学究的で大学の仕事なども粛々とこなしてきたという印象である。そんな小糸が閉学宣言文の起草者の三人のうちの一人に入ったというのは意外なことのように感じる。この解散式に参加した教職員は半数ぐらいであったようだったし、他の二人の起草者に誘われたのかもしれない。とりわけ森信三とは部会を同じくしていたし、広島文理科大学での西晋一郎門下でもあり、そんなつながりがあったのかもしれない。
閉学した建国大学では、満洲に残っていて行き場のない学生を教員が分担して引き取ることとなった。小糸は小谷部東吾という17歳の建大生を引き取った。この小谷部が小糸について書いている回想文が『歓喜嶺遥か : 建国大学同窓会文集 下』に載っている(「小糸先生のことなど」1991年)。
小谷部は昭和20年2月の入学というから、8月に閉学した建国大学に在学したのは6か月ほどであった。そんなことから小谷部の回想は、「私の建国大学は終戦とともに始まる」と書き出されている。そして建国大学在学中のことで記憶していることと言えば、森信三教授が、「満州は神の申し子である」と体をやや斜めに構えて語ったことだけだと続けている。
森は戦後の回想の中で、作田荘一副総長の後任の元陸軍中将尾高亀蔵副総長をひどく嫌っていたことを書いているが、そんな森は一方で建国大学の五族協和の理念を深く信奉してきたということもこの回想から知れる。森も閉学宣言の起草をした一人であった。
建大に残っていた日系学生は、ソ連兵の侵入に備えて建国廟の土塁に穴を掘り、ソ連軍がきたら爆弾を背負ってとびこむといったそんな準備をしていた。小谷部は土塁に穴を掘りながら、自分で自分の墓穴を掘っていると自嘲気味に友人と話をした。
農務主任の藤田松二教授は、農業班でもあった小谷部たちが入学してはじめての農業実習のとき、「日本は負けるよ。今のうちに百姓仕事を覚えておけ」と告げたという。また閉校式の後にあいさつにやって来た8期の農業班の学生たちに、「戦争は終わったな。長いつまらん戦争ぢゃった。これからが本当の民族協和の時代だぞ」と語りかけたとも回想文にある(越智通世「藤田先生と農業訓練のこと」『遥かなる歓喜嶺』)。小谷部もそんな藤田の指導で閉学後も「自然に、その態勢のままに」、ジャガイモを栽培し牛馬の世話もした。
まくわ瓜の収穫の季節というから8月末か9月ごろであろうか、毎朝付近の農民の馬車が建大農場を横切ってまくわ瓜の収穫に行く。建大農場は農民の畑への近道だったのである。そんなことを小谷部が詠んだ句が回想文に載る(これは同期誌『八旗』8号に載ったとある)。
瓜馬車の暁暗破る響きかな
小谷部たち残留学生は建大農場に植え込んだジャガイモなどの作物を守るため、三八銃を持って農場の夜警に立っていた。そんな早朝に馬車がやってくる。その音は緊迫した闇を切り裂くように聞こえてきて、一瞬緊迫した空気が流れたという情景である。このような状況をよく分かって目に浮かべ読むと、小谷部の句も、その時の張りつめた心持ちがよく理解できる。
小谷部東吾の小糸夏次郎像
終戦時建国大学に残っていた学生は歳もいかない学生ばかりで、そんな学生を教員たちは分担して引き取った。そして小谷部は小糸の家に引き取られたのであった。
小糸家には、病に臥せっていた夫人と長男晧一郎8歳・長女明子6歳・次男昱(いく)3歳とが住んでいた。そんな小糸宅には壁いっぱいに漢籍が並べられてあったが、終戦を迎え大学も閉学になったことから小糸は訪ねてきた中国人学生にこれらの蔵書を「こともなげに」分け与えた。どうせ日本には持ち帰れないものだし、散逸するより志ある人に利用してもらえればそのほうがよいと語った。
病に臥せっていた小糸夫人は8月末に亡くなってしまった。これに加えて蔵書も学生に分け与えしまい、小糸にとっては心さびしい戦後を過ごすこととなった。小糸は漱石全集などをよく読んでいた。今ごろ漱石を読んでいるのですかと失礼な問いを発すると、「漱石の小説は非常に味わいが深い。読むときの年齢によってまた違った感銘を受けるのだよ」というのが小糸の答えであった。生活も苦しく気兼ねでもあった学生たちが「働きに出たい」というと、学生の本分は学ぶことだ、閉学時に支給された金も少しながらあるし、そのうち帰国も話も出るだろうから働かなくてもいいと言った。
南湖の官舎は危ないということで東安街の官舎に移り住んだ。ここで小糸は学生を集めて論語の講義を始めた。ところがその何日目かに突然ソ連兵が踏み込んできて学生ともども連行され収容所に入れられてしまった。小糸は学生たちに、諸君まで巻き添えにしてすまないと詫びたのだが、講義を願い出たのは学生の方であった。終戦となり建大生を無事日本の親元に送り届けねばならぬとの義務感を負っていた建国大学教員の小糸夏次郎にとってみれば、ソ連軍の言いがかりとはいえ学生たちを巻き添えにしてしまい、連行という事態に至ってしまったという悔いの気分にさいなまれての発語であろう。
あとでまた述べるが、学生らはすぐに釈放となった。しかしながら小糸は釈放されない。家にかえった小谷部は、一緒に住んでくれた「合田先輩」(合田恭か)、それに三人の小糸の子どもたちとなんとか暮らしていった。小谷部らはふたたび南湖の官舎に移った。そこで吉川教官(塾訓育の吉川武徳助教授か)の誘いで建大農場を開墾することとなった。「嘉村君」もいっしょである。7月末にようやく引き揚げのめどが立つ。それでも小谷部らは内戦で破壊された公主嶺の鉄橋を修復する工事に動員され、その自分たちの直した橋を渡って錦州へ向かった。そしてそこから葫蘆島にたどり着き、ようやく引き揚げることができたのである。
小糸、シベリアの収容所に送られる
かくして小糸が身元を引き受けた建国大学学生だった小谷部東吾は日本に引き揚げることができた。だが小糸はついに故国の土を踏むことはなかった。ソ連軍の南下に備えて建国大学で組織された戦闘隊の第二中隊長となった西元宗助の回想に、その後の小糸の消息が記されてあるのでそれに拠りながら小糸夏次郎の最期を見ておきたい(西元宗助『 ソヴェトの真実 ソヴェト俘虜記』弘文堂 1953年)。
12月14日西元宗助はソ連兵の急襲をうけて他の日本人ら20名ほどとともに連行され、神武殿裏の丁公館に押し込められた。そしてここに小糸夏次郎と学生約10名も連れてこられたのである。これが先に述べた、学生に論語の講義をしていた時に踏み込まれて連行されたという一件なのであろう。ここで一人一人取り調べが行なわれたのだが、そこに「一人の赤軍下士官が颯爽と入ってきた」。「その顔をみて一同はアッと驚いた」。建国大学の学生で1年ほど前に突然大学から姿を消した「白系学生」のスタブスキーであった。西元や小糸はスタブスキーに対し、「教官はともかくとして、ここにいる君の同窓はなんの罪もないのだ」と訴えて釈放を訴えた。その甲斐もあり学生たちは釈放された。釈放された学生のなかに小谷部も含まれていたというわけである。
一方の西元らは取り調べを受け、17日早朝に集められてトラックで運ばれる。ここには、吉林省次長飯澤重一、長春県副県長大石義光、同盟通信塚本理事長ら弘報関係者、満鉄・満洲電電調査部関係者、さらには作家の山田清三郎や淡徳三郎もいたという。寛城子駅まで行くとそこには貨車が並んでいた。そしてこの連行された人たちの中には小糸夏次郎も含まれていた。
ところが寛城子駅頭でソ連将校が小糸の前まできて、「コイト」と呼ぶ。何ごとかと皆が息をひそめていると、将校は小糸に「マダムを亡くしたそうだね」と通訳を介して話しかけ、「帰宅させるから早速下車せよ」と言ったのだった。西元の回想のままを書き出すと、「小糸さんの顔には一瞬、明るい光が射した。しかし慎み深い彼は、にこりともせず自分一人だけ許されて帰るのがしんから済まなさそうに「皆さんお大事に」と挨拶をする。われわれは限りなく羨しい感情のうちにも、「よかった、よかった」といいあいながら彼を送り出した」。小糸は夫人を亡くし子ども三人を宿舎に残していたのである。この西元の回想も、その極限時の揺れ動く気分を正直に表明したものであった。誠実で生真面目であった小糸に対する心情をよく言い表した回想である。
小糸を新京に残し、西元たち一行は列車で西に向かい12月27日チタ市に到着し監獄に入る。ここで生ぬるいシャワーでの入浴を許された。しかしながらシャワーから出て服を着ようとすると、ポケットにいれてあった金品や財布・時計などがない。ソ連兵に盗み取られたのだ。
チタの監獄で大晦日を迎え、30名ほどの仲間とともに俳句や短歌を詠みあった。西元の回想にしたがって書き出してみると、新京工業大学教授だった草野萬三郎は「とらはれし五百(いいほ)の友の妻子らは あてなき帰り恋いまちつらむ」と詠んだ。また憲兵将校だった森老人は「つながれてそゞろに浮ぶふるさとの かなしきさまを夢にみにけり」と詠った。ちなみに草野萬三郎はアナウンサーの草野仁の父君である。萬三郎は東北帝国大学理学部数学科を卒業し旧制中学の教諭をへて渡満、奉天二中また昭和14年12月新京工業大学教授を務めた。『新京工業大学学術報告』(1944年10月)に「Fibonacci‐級數に就いて」を寄稿している。
開けて昭和21年2日、西元らは送られてきた後続の部隊と合流した。するとなんとそこには、先に寛城子駅で、「帰宅させるから早速下車せよ」と解放されたはずの小糸夏次郎がこの後続部隊に混じっているではないか。
小糸に事情を聞いてみたところ、寛城子駅で放免となった小糸は駅を歩いているとすぐさまソ連兵に呼び止められ、「家はどちらか」と訊ねられる。東安街だというと、「途中まで送ってやるから自動車に乗れ」と通訳を通じて親切に言う。ところが車は大同大街を左折し宮廷府に乗り付けられた。待っていてもソ連兵は戻ってこない。降りて歩いて帰ろうかどうしようかと迷ったのだが、宿舎はいささか遠方でもあり、兵士が戻ってくるのを待った。ところがこの判断が明暗を分けることとなる。ようやくソ連兵が戻って来て、車を走らせ到着したのは、なんと論語学習会で急襲されて連行された丁公館であった。つまり小糸は解放されるどころか、もとの収容所に入れられ、挙句の果てには西元らの後続部隊となって寛城子駅からチタに送られてきたというわけであった。
西元が「事情を述べて抗議すれば」というと、「いや、いくら述べようとしても、知らない、というだけでダメだった。馬鹿を見たよ」とさびしく笑ったのだという。何とも不運で理不尽な顛末であった。そしてその生死を決することになる分水嶺というのはまことに微妙で繊細なものであったのである。
小糸夏次郎の最期
1月4日、一行は800名の大部隊となって西に向かう。ノボシベリスクで乗り換えて南下、カザフスタン共和国のアルマ・アタに到着、1月20日のことであった。ここで第40地区第三分所俘虜収容所に入れられた。
しばらくして収容所内で発疹チフスが流行り始める。西元の部屋収容所の隣にはバラックが設置され患者はここに運び込まれた。
ところがここで小糸夏次郎も発信チブスに罹患してしまい、3月上旬に亡くなってしまった。そして臨時衛生兵として看護の手伝いをしていた西元自身も同じ頃チブスに罹患した。西元の場合は、運よくジューコフという女性の大尉軍医が手厚く治療をしてくれて3月15日には熱が下がり回復に向かった。
建国大学の同僚で同じように収容所に連行された小糸と西元の二人の明暗はここでこのように分かれることとなった。それにしても小糸にとっては不運で非業の死を迎えたと言わざるを得ない。いったんは寛城子駅で釈放された小糸だったが、宿舎まで送ると偽られて車に乗せられ、宮廷府に寄り道して待たされている間に、逃走するか車に残るかを考えたあげくに車に残り、結局そのまま先の収容所の神武殿裏の丁公館に放り込まれたのである。悔いても悔い足りない小糸であったであろう。夫人を亡くし、残してきた3人の子どものことも気がかりであったにち がいない。
『歓喜嶺遥か 下』に収載されている西元宗助「建国大学の終末」には、戦争直後に小糸夫人が亡くなったが、僧侶も招くことができず、西元がかわって読経を唱え、学生らとともに南湖のほとりに埋葬したと述べられる。そして「学生から尊敬を一身にあつめ、建国大学の良心ともいってよい人物であっただけに、かれを最後に病床に見舞ったとき、ここに建国大学の一応の終焉を感ぜざるを得なかったのである」と続けている。西元のこの「建国大学の良心」という言葉には、戦後に生きるわたしたちにとって複雑な思いが交錯するが、まちがいなく胸に残るものであると思う。
先に述べた関口順の「小糸夏次郎小伝」は、「西元の回想とは別に、戦後この学界にもし小糸夏次郎が存在していたら、如何なる道が切り開かれたことであろうか。筆者は、建大元教官の西元宗助とはまた違った感慨を持つのである」と小糸の「研究」に寄り添った「感慨」を述べている。この二人の小糸夏次郎への追慕の気持ちに付け加えるものをわたしは持たない。小糸夏次郎は建国大学教員の、ある一つの典型をなしているという思いを強くするのである。
附論:小谷部東吾『安達太良』から小糸夏次郎を憶う―
そのうえでわたしが思いを致すのは、戦後を小糸一家と共に過ごした建国大学学生の小谷部東吾のことである。小谷部には 『安達太良』(濵叢書240篇、濵発行所 平成6年4月)と題した句集がある。
奥付には、小谷部は1928年生れ、「濵」同人、俳人協会会員とあり、世田谷区奥沢の現住所が示される。ま
「後記」には、昭和58年3月に上梓した第一句集『夾竹桃』があるとも書かれてあるわたしは未見である。国会図書館にも所蔵がないようだ。国会図書館には日々多くの納本があり、いちいち未所蔵資料の点検や寄贈(納本)の依頼をすることはほぼ不可能であることを承知の上で申し上げたいが、やはり真の全国書誌作成責任機関としては国立国会図書館のその「怠慢」に不満を覚えるばかりだ。
さてこの『安達太良』という句集を刊行した「小谷部東吾」が、建国大学学生で終戦を新京で迎え小糸源次郎助教授のもとに引き取られた「小谷部東吾」と同一人物であるということはつぎのことで明らかである。 『歓喜嶺遥か』に掲げられてあった句の、
瓜馬車の暁闇破るひびきかな
が『安達太良』に も収載されているのである。それは、
瓜馬車の暁暗破る響きかな
というもので、漢字の遣い方に異同はあるが、句集を刊行する際に小谷部がその方がよいだろうと考えたが故のことであろう。この句は先に述べたように、建国大学に残留の学生たちが大学農場に植え込んだジャガイモなどの作物を守るために三八銃を持って農場の夜警に立った、そんな早朝の緊迫した状況を詠んだものであった。
そして、この句の前後には、中国の現在の情景が詠まれてあり、おそらく小谷部が夫人とともに中国旅行に出かけた時の句ではないかとおもわれる。そしてそのなかにこの「瓜馬車」の句も並んで収載されてわけだが、小谷部にとってはこの終戦時建国大学での体験は忘れられるものではなく、中国への旅行にあっても、片時も手放すことなく胸の奥に沈殿させていた句であったのである。この中国旅行と思われる昭和61(1986)年の句をいくつか書き抜いてみる。
妻も酒に少し馴染めり夜の秋
太極拳の声なき気合朝ぐもり
朝涼や支那粥すくふ竹杓
夜涼みの槐一樹に一家族
夏雲や湧くや長城臥龍めく
高粱畑濡らし切れずに白雨過ぐ
西瓜売るキタイスカヤの石畳
哨兵の赤き襟章西日射す
ニイハオと笑めば裸子笑み返す
アカシヤの街曳売の声涼し
羊飼も虫を捕る子もゐて空港
鰯雲クルス昏れゆく旧租界
中国のいずこかはわからないが、キタイスカヤは哈爾浜、長城は華北、旧租界は上海、アカシヤは大連であろうか。夫婦でこうした地域を巡ったのであろう。ここには穏やかで平安な旅の日々がうかがえる。
ただ、「哨兵の赤き襟章西日射す」などを読んでみると、終戦時の昭和20年、建国大学崩壊後に校内で作っていたジャガイモが盗難に遭わぬようにと三八銃を構えて見張りに立っていた「瓜馬車の暁闇破るひびきかな」という句と、おもわず対比的に読んでしまう。ただここには千里の径庭があるのであった。
***
小谷部はこの句集を、
安達太良に二拍手一礼初旦
の句から始め、また、
夏大根ひりひり師の忌近きかな
父の忌の済めば師の忌よ花木槿
とも詠んでいる。「師の忌」とは、季節からして小糸夏次郎の年忌ではないのかもしれないが、こうして小糸や小谷部のことを考えながら書いてきて、小谷部の句集を読むとどうしてもそのように読み込みたくなってしまう。
蟷螂の我に踏まれむ覚悟かな
威し銃狙われしかと振り返る
極楽を地獄を過ぎて昼寝覚む
こうした句も、満洲体験を胸底に沈め秘めて戦後を生きてきた小谷部の、何というか、「覚悟」というか、そのことを受け入れたうえで平穏に日々を生きている姿が現れ出てくる。ただこれも、戦後満洲の混乱の時代を、現代の小谷部の句集に読み込もうとするわたしの我田引水なのかもしれない。
俳句詠みの小谷部は、こうした読者のことを見透かしたようにこうも書いている。
母の死を句と為す業や若葉寒
「母の死」を句作の題材にしている自分の姿に苦笑しまたそれを小谷部は否定することなくむしろいとおしいとすら感じているのだ。こうした俳人小谷部東吾のスタンスをわたしは心から好もしく思う。声高に過去を語らずまたその体験をそのまま露わには表現せず、穏やかに日常のなかから詠い出す小谷部の作風には心から共感する。
次のような小谷部の句を読むと、こうした小谷部の、あくまでも優しく穏やかで平穏な姿が浮かび上がってくる
妻よりもでかい貌して蟇
ねだられて妻にも猪口を夕蛙
茄子汁や妻との月日これからも
いささか深読みをしてしまい、小谷部ではないが、「句と為す業や」という仕儀にいたってしまった。ともあれ、建国大学崩壊のあと、小糸夏次郎に引き取られた17歳の小谷部東吾に句集があることを知り、どんな句を詠んでいるのかと、いささか心騒ぐ心持で国立国会図書館のデジタルライブラリーで読んでみた。そして、なんというか、勝手な言い分でいささか不遜な言い方になるが、心騒いでいた気分がおさまり、なにかほっと安心した、という気持ちでいっぱいになったのであった。 2026年1月28日 記