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NEW!! 建国大学戦闘隊の中隊長に任命された西元宗助助教授のこと
建国大学戦闘隊の中隊長に任命された西元宗助助教授のこと
はじめに
終戦の年の昭和20年8月9日、ソ連軍が参戦し満洲国へ侵攻をはじめた。建国大学ではこのソ連軍侵入に備え、12日には日系教職員だけの「秘密緊急教授会」を開催している。ここで建国大学の尾高亀蔵副総長は教員に対しその対応についてそれぞれの意向を書かせた。そしてそれを別室で読んだうえで会議室に戻り、「建国大学戦闘隊」の結成を宣言し、ほかにいくつか決定事項を述べた。この建国大学戦闘隊の隊長は、統率が尾高亀蔵副総長、大隊長兼第一中隊長に安倍三郎教授(心理学)、第二中隊長は西元宗助助教授(仏教学者、担当は教育学)、第三中隊長は寺田剛助教授(東洋史)であった。この次第はすでに詳しく書いたのでここでは繰り返さない。
ここで述べようとする西元宗助は「秘密緊急教授会」において建国大学戦闘隊の第二中隊長に任命されている。この意向聴取については、大隊長兼第一中隊長に選任された安倍三郎の回想があり、安倍は、日系教職員および日系学生は「敢然ソ連戦軍部隊の進攻を阻止するよう戦闘体制」をとり、自分たちはその捨石となるべきだ」と書いたという(安倍三郎『大彦族の研究』雑木雑草庵 1963年)。
尾高副総長の「戦闘隊結成」についてはこの安倍三郎の意見が大きく影響したとみられることから、安倍三郎についてはかれが大隊長に選ばれたというのはよく納得できる。だとすれば西元はいかがであったのだろうか。信仰の人でもあった西元も、「戦闘隊」として戦うというのが建国大学教員の行くべき道であると考えたのであろうか。ここでは西元の満洲時代および戦後のソビエト抑留などを中心に事績・経歴を中心にメモを作り、この戦闘隊中隊長任命についても考えてみたいと思う。
西元宗助の履歴
西元は明治42(1909)年鹿児島の出身である。両親とも仏道に篤い家庭で育った。鹿児島の第七高等学校から昭和4(1929)年京都帝国大学文学部哲学科に入学し教育学を専攻し、昭和7年に卒業している。七高時代には『歎異抄』に出会い、また京都帝大文学部においては西田幾多郎・田邊元・波多野精一らのもとで哲学・宗教学を学んだ。大学時代から年長の西谷啓二とは親しく交友しそれは終生続いた。また京都帝大時代には昭和6年まで吉田神社で毎日開かれた京大静坐会に参加している。
註:西元は戦後のソビエト抑留を経て引き揚げ、すぐに抑留記を書き始めている。それは昭和28年に『ソヴェトの真実-ソヴェト俘虜記』と題して弘文堂から刊行された。この出版にあたって西元は友人の西谷に原稿を読んでもらったことが再刊された本の「あとがき」に記されている。初版が刊行されたこの時期は、昭和25年に勃発した朝鮮戦争の影響もあり、ソビエトの負の遺産ともいうべきこうした抑留体験を公刊することに対し危惧する向きもあり、友人や知友からはこの俘虜記の出版を見合わせた方がよいとのではないかといった意見があった。しかしながら西元は固い信念と覚悟をもって出版することとしたのであった。そんなことから、昭和28年初版の「あとがき」には、跋文はS博士に書いてもらったがあえて載せず、原稿に目を通してもらった西谷啓二についても「N先生」と記されてある。本書は昭和55年6月に教育新潮社から『ソビエトの真実 : 俘虜記1945-49』として再刊されたが、ここでは「恩師のS博士」の跋文は省略され、原稿に目を通したN先生は西谷啓二と名前が明かさされている。
さて西元は昭和7年に京都帝国大学を卒業するのだが、結核を病んでしまい鹿児島にもどることとなった。ここで西元は鹿児島師範学校の教員として勤務した。西元が建国大学助教授に就任したのは昭和15(1940)のことである。『建国大学年表』には5月2日着任とある。
この西元の建国大学助教授への就任は森信三の「推輓」によるものであったと森は自伝で書いている。このことについては「森信三」の項目ですでにふれたところだが、森の言では、「わたくしは、作田先生の格別のご信頼を受けていた」ことから、何人かの教員を建国大学に招聘したと述べ、「福島(政雄)先生の学風を引く西元宗助氏が、鹿児島師範から助教授として赴任」したのも、また西晋一郎の愛弟子の小糸夏次郎が助教授として就任したのも、森自身の「推輓」によるものであったと書いている。福島は教育学者で広島文理科大学教授、昭和16年に満州建国大教授として転任している。
森は、建国大学設立委員のひとりであった西晋一郎の強い要請で建国大学に移ってきており、大学では要職を歴任したことから、この「作田先生の格別のご信頼」というのは事実であったろう。戦後に書かれた自伝の中の記述であるが、満洲で終戦を迎えシベリア抑留のいう辛酸をなめることとなった西元宗助や、同じくシベリア送りとなり当地で非業の死を遂げた小糸夏次郎のことを憶うと、森の回想文のこうした「作田先生の格別のご信頼」、森の「推輓」といった記述には、何かどこか割り切れない気持ちを持ってしまう(なお西元宗助の履歴に関しては、東真行「旧ソ連領被抑留者における「収容所の親鸞」-西元宗助と石原吉郎をめぐって」『現代と親鸞』第42号 親鸞佛教センター 2020年6月 があり、西元の事績とともに、ソビエト抑留という極限状況における信仰について興味深い論述を展開している)。
西元はシベリアでの厳しい抑留体験を経て引き揚げたのだが、このことは後でまた述べる。そしてその後京都府立大学で教授を務め定年により名誉教授、また京都産業大学客員教授も務めた。亡くなったのは昭和65( 1990)年12月13日、夫人はじめ家族に見守られ、「ありがとう、ありがとう」と繰り返し、最期の言葉は「ナモアミダブツ」であったという( 川畑愛義「わが友、西元宗助さんを憶う」『大乗 : ブディストマガジン』490号 1991年3月)。
(註)この川畑の追憶の文章は、西元に対する敬慕の情に満ち満ちている。川畑と西元は京都帝国大学時代、仏教学の羽溪了諦教授の主宰する「知四明寮」にともども参加した。参加者たちは学道舎という自炊による共同生活を送った。この生活は「一種の共産主義で、お金があるものがお金を出し、ない者は出さなかった」。そして宗教や信仰に励んだのであった。川畑は西元のことを「彼は温厚篤実、柔和忍辱の人柄であった」と述べている。晩年には、こうした温厚で誠実な西元の周りには多くの信仰者やファンがとりまいていたといい、多忙と過労に追い込まれてしまったのではないかと川畑は書いている。このように若き時代の学生時代の体験は、その後の西元の生き方にも大きく影を落としたことであろうし、また「温厚篤実、柔和忍辱」のかれの人柄は、建国大学やその戦後の激動、さらには厳しい抑留生活のなかでも、貫かれてきたと思わざるを得ない。蛇足だが、わたしは川畑愛義の授業、たしか「保健体育」だったと思うが、その授業を受けた記憶がある。手洗いの手法を熱心に説いていた。川畑も「温厚篤実、柔和忍辱」な教員であった印象だ。
建国大学時期の西元宗助
康徳7(1940、昭和15)年5月2日に西元宗助は建国大学に着任した。6月3日に開催された第二回研究院定例集会に西元もさっそく出席している。この集会の議長は村井藤十郎で、作田をはじめ、森信三・安倍三郎・向井章ら重鎮も参加している。6月17日の第三回研究院定例集会にも参加している。ちなみにこの集会の議長は森信三であった。6月22日には基礎研究部哲学班第一回研究会に参加。この日は作田・森・前田・小糸・安倍の参加のもと、佐藤通次の身体論を中心に討議がなされた。8月1日付けで叙薦任三等(奏任官三等に叙せられる)。9月23日には研究院第7回定例集会に参加。12月15日には牡丹江以北の冬季開拓地教育状態視察研究のため23日まで牡丹江・千振・弥栄方面に出張した。
康徳8(1941、昭和16)年4月1日常置研究班所属班員一覧が発表されたが、西元助教授は森信三が班長を務める基礎研究部の哲学班および経済部の開拓及農業研究班(班長天澤不二郎)の開拓分班に所属している。ここでも森信三と同班であった。また文教研究部の国民教育研究班および国民教化研究班に属している。4月28日には第一回開拓研究班の打ち合わせ会が「満洲開拓青年義勇隊制度の研究」との研究問題のもとに持たれ、西元は森信三とともに課題「満洲開拓青年義勇隊の教科内容に就て」を担当した。5月29日国民教育研究班の研究会が開催され、昭和16年広島文理科大学から転任してきた福島政雄教授の「伊藤仁斎の皇国的自覚」と題する研究報告会が開催された。ここには森・西元・小糸らがそろって参加している。6月25日第2回開拓研究班の研究会が持たれ天澤助教授の「満洲開拓青年義勇隊に就て」と題する報告がなされ西元は作田・森らとともに参加している。6月27日の第1回国民教育研究班の研究会では森信三による「教育的自覚」と題する報告がなされている。ここに西元も参加したが、ほかに作田副総長はじめ建大の講義のため来学していた美学者金原省吾や、研修道場「無我苑」で知られる伊藤證信も参加したという。12月12日には「現代科学研究の過程 新研究班創設への提唱」の会議が開かれ、作田荘一・森信三・江頭恒治らとともに西元も出席した。
康徳9(1942、昭和17)年2月28日には建国十年史編纂事務打合会が開かれて編纂会の役員が決定されている。会長は作田荘一、副会長は瀧川政次郎で、西元は各篇の執筆委員として「文教」のうちの「学校教育」の担当となった。3月25日先の国民教育研究班は、学外研究者との共同研究の体制に編成替えとなっている。班長は福島政雄、班員は西元をふくめ、森信三・小糸夏次郎・寺田剛らで、学外から民生部教育司長木田清・民生部編審官寺田喜治郎ら満洲国政府、協和会中央本部参事大森峯雄や師道大学教授一條林治らも参加する大掛かりなものとなっている。福島の転入に伴う措置であろうか。研究発表予定者および題目として西元は「教育方法の問題」「開拓青年義勇隊の教育」と二本も上がっている。5月中旬には一期生の卒業論文の論題が決まり、文教学科の西元は「教育方法論」で、「興国教育に就ての研究」「大東亜共栄圏に於ける教育教化上の諸問題に就ての研究」の二人の学生の卒論指導を行なった。7月29日には2週間の予定で広島にて開催される文部省主催の教育学会に出発、京都・東京にも寄る予定であった。8月には『研究院月報』21号が発行されたが西元は先に出張した日本教育学会の報告文を書いている。
康徳10(1943、昭和18)年1月には研究院の各種委員の発令があり西元は企画委員を免じられ、「文教研究部」の幹事となった。また新年度には「総力戦・興亜教育・固有工業」の新課題を加えて研究が開始された。西元は文教研究部の興亜教育研究班の班員となった。同じ班には森信三・大森志郎・天澤不二郎らがいた。6月13日から7月3日まで国民錬成の調査研究ならびに教育学資料収集のため東京・内原・京都に出張した。7月31日には公主嶺農学校視察のため出張。10月12日尾高副総長の学内巡視の後期3学年担当補佐官に命じられている。この学内巡視については森信三の項で書いた。なお西元は義勇隊および開拓地教育実施の研究のため23日まで拉法・舒蘭・東京城・一面坡方面に出張した。
康徳11(1944、昭和19)年3月11日、康徳11年卒業論文審査員を命じられる。4月22日南満における教育実態の調査のため、錦州・大連・蓋平・鞍山に出張、5月には『研究期報』7輯に「満洲国に於ける日本人教育」と題した論文を出稿した。7月10日から8月3日まで満系農村教育実態調査のため奉天省蓋平県に出張。している。
このように西元の建国大学時代の業務を書き出してみると、助教授ということもあってか、大きな役職に就くことはなかったようだが、研究活動や校務などは着実にこなしていっているという印象を持つ。また、作田副総長からの信任篤かったと回想する森信三が、この西元や小糸夏次郎の転任を進言し、さらには福島政雄までも建国大学に迎るに至ったこと、それゆえ研究会などにおいて同じ班で活動することも多かったこと、さらには大学での担当科目や学問領域も隣接していたということもり、かれらの関係は公私ともに近しい関係にあったようである。
終戦時に建国大学戦闘隊の中隊長
終戦時の建国大学の対応についてはすでに述べた。8月9日のソ連軍南下を受けて12日には日系教職員だけでの「秘密緊急教授会」が開催されている。こうした事態を受けて教職員はどのような対策を講じるべきかについて尾高副総長から意向聴取がなされた。この意向聴取については安倍三郎教授が回想文を残している。安倍は、建国の精神に則り、日系学生と日系職員とはソ連戦軍部隊の進攻を阻止するべく戦闘体制をとり日本軍の反撃準備のための時をかせぐべき、と書いたという(安倍三郎『大彦族の研究』雑木雑草庵 1963年)。
尾高副総長はおそらく安倍の意見に力を得て、建国大学戦闘隊結成を決意したのであろう。そして安倍は戦闘隊の大隊長に任命されたのである。そしてこの日の午後4時には「満系学生」が軍需工場に向かうための壮行式が開催され、前田鷹衞教授の引率で出発し、日系学生は戦闘隊に編成された。
建国大学の家族は、いわば満洲国の官吏の家族でもあったから、一般の民衆よりも早くに新京から退出した。官舎街の最後の疎開者ではあったが大間知篤三教授の引率で関東軍の自動車隊に便乗して新京から列車で脱出したのである。このとき森信三の夫人は、ご近所で親しかった西元宗助夫人に、いっしょに疎開しようと誘ったのだという。ここで西元夫人は疎開することをいったんは決意して部隊兵舎まで行った。しかしながら西元夫人はここで思い直す。そして大学に引き返してきて、「あなたがここで死ぬ気ならわたしも」と言ったと回想文にある(西元宗助『ソヴェトの真実 : ソヴェト俘虜記』弘文堂 1953年)。疎開する人も満洲に残る人も厳しくつらい決断であった。
8月14日、中隊長の西元をふくめ建国大学戦闘隊は建国大学に立てこもった。武器と言えばわずかの小銃と銃剣をあるばかりであった。西元は数珠を握りしめ、傍らにいる西元夫人は青酸カリを手にしていた。
このとき、建国大学のある南嶺の丘に咲いていた萩の花を眺めて、詠んだ「辞世の歌」が載っている(「附(一)ゆきゆきて倒れ伏すとも」『ソビエトの真実 : 俘虜記1945-49』教育新潮社 1980年6月の再刊版)。
紅萩のさける庭にてわれらまた 花のごとくに散りてゆくべし
ところが翌15日に終戦となった。玉音放送を聞いた後、再び南嶺の丘にて西元はたたずむ。そこに咲く向日葵の花は心なしか首を垂れている。そして昨日眺めた萩の花も、シトシトと降る雨に打たれ、まことにあわれな様子であった。
生き死にの 境をこえて 萩の花
こうして建国大学は終戦を迎えた。建国大学戦闘隊は解散となる。そして建国大学は、8月20日武装解除、23日卒業証書・在学証明書の授与式が行われるのであった。
これら西元の回想文から推測できることは、西元は「ここで死ぬ気」でいた、ということであろう。それは、夫人が、疎開のため部隊兵舎まで出かけていながら、わざわざ引き返して、「あなたがここで死ぬ気ならわたしも」と、西元宗助と行動を共にする決断をしたことから明らかである。そしてその決断通り、夫妻は新京に残ったのである。
こうしたことを考え合わせてみると、西元は、先に述べた「秘密緊急教授会」での尾高副総長からの意向聴取に対し、建国大学の教職員はなんらかの方法でソ連軍に立ち向かうべきだと記載したのではないか、少なくとも「死ぬ気で」建国大学を守るべきだと書いたのではないかと思わせる。そして、だからこそ尾高副総長は西元を中隊長に任命したのであろう。
「秘密緊急教授会」を開催し意見の聴取をしたうえで、尾高副総長は自身の指揮のもとに戦闘隊の結成を宣言した。あわせてその場で、戦闘隊結成に賛同する賛同しないは各教職員の随意、とも述べている。つまり尾高は、大学内部にこうした方針に対し、反対の意見もあるだろうことをよく認識していたであろうし、尾高に反感を持っている教員が少なからず存在していたことも十分承知であった。それにもかかわらず、尾高に建国大学戦闘隊の結成に踏み切らせたのは、安倍の戦闘隊結成というつよい意見が表明されたことが大きいと思われる。そして中隊長に任命された西元もそうした決意を表明したとも想像させるのである。もうひとり第三中隊長に任命された寺田剛も、そうした意向を書いたのかもしれない。
ソ連兵に連行される
建国大学では新京に残っていて行き場のない学生を2,3名ずつ教員が引き受けることも決定されていた。年長の学生は召集でとられていたから残っていた学生は歳の若い学生ばかりである。西元宗助の回想には、閉学宣言を書いた一人である小糸夏次郎助教授および小糸に引き取られた学生小谷部東吾の消息が記されてあり、そこから西元の戦後の事情も知れるので、それを手掛かりに以下記していきたい(西元 宗助『 ソヴェトの真実 ソヴェト俘虜記』弘文堂 1953年)。
12月14日、西元宗助はソ連兵の急襲をうけて他の日本人ら20名ほどとともに連行され、牡丹公園の神武殿裏の丁公館に押し込められた。その後ここに、論語の学習会をしていた小糸夏次郎および参加していた学生約10名も連れてこられたのである。この場で一人一人の取り調べが行なわれたのだが、そこに「一人の赤軍下士官が颯爽と」入ってきた。その下士官はなんと建国大学の学生で1年ほど前に突然大学から姿を消した「白系学生」スタブスキーであった。それに驚いた西元や小糸は、スタブスキーに対し、「教官はともかくとして、ここにいる君の同窓はなんの罪もないのだ」と強く訴えた。その甲斐もあり学生たちは釈放されることとなった。西元らの進言があったかどうかは知れぬが、森信三も高齢という理由で解放されたのであった。
一方の西元らはそのまま取り調べを受け、17日早朝小糸らとともにトラックで寛城子駅まで運ばれる。この寛城子駅頭でソ連将校が小糸の前まできて「コイト」と呼ぶ。そして将校は小糸に、「マダムを亡くしたそうだね」と通訳を介して話し、「帰宅させるから下車せよ」と言った。西元はこのときのことを次のように書いている。西元の、正直で誠実な性格がよく表れているので、繰り返しになるがもう一度引いておく。
「小糸さんの顔には一瞬、明るい光が射した。しかし慎み深い彼は、にこりともせず自分一人だけ許されて帰るのがしんから済まなさそうに「皆さんお大事に」と挨拶をする。われわれは限りなく羨しい感情のうちにも、「よかった、よかった」といいあいながら彼を送り出した」。小糸は終戦直後に夫人を亡くしており、子どもたち三人を宿舎に残していたのであった。この西元の回想からは、「羨ましい」という正直な気持ちと、夫人を亡くし失意のなかに在った小糸をいたわる「よかった」という気分とがない交ぜとなった感情を素直に表明したものであったと思う。
チタの収容所に送られる
小糸を新京に残し、西元たち一行は列車で西に送られる。送られたのはチタ市の監獄、到着は12月27日のことであった。ここで生ぬるいシャワーに入るのだがシャワーから出て服を着ようとしてポケットの金品や財布・時計など、盗み取られたことに気づく。満洲国に進駐してきた囚人のソ連兵と同様、収容先でも規律のない兵士が数多く控えていたのである。
チタの監獄で大晦日を迎え、30名ほどの仲間とともに俳句や短歌を詠みあった。西元の回想にしたがって書き出してみると、新京工業大学教授だった草野萬三郎は「とらはれし五百(いいほ)の友の妻子らは あてなき帰り恋いまちつらむ」と詠んだ。また憲兵将校だった森老人は「つながれてそゞろに浮ぶふるさとの かなしきさまを夢にみにけり」と詠った。ちなみに草野萬三郎はアナウンサー草野仁の父君で、東北帝国大学理学部数学科を卒業し旧制中学の教諭をへて渡満、奉天二中また昭和14年12月から新京工業大学教授を務めた。『新京工業大学学術報告』(1944年10月)に「Fibonacci‐級數に就いて」など寄稿している。
年が明けて開けて昭和21年1月2日のことである。考えてみると、正月も何もあったものではない。西元は送られてきた後続の部隊に解放されたはずの小糸夏次郎が含まれていることに気づく。小糸は寛城子駅で放免となったあと、ソ連兵に欺かれて再び丁公館に連れていかれ、その後西元と同じように、あらためてシベリア送りとなりチタに収容されることとなったのであった。西元が、「事情を言って抗議すれば」と言ったものの、抗議してもソ連兵は聞く耳を持たなかったという。
小糸夏次郎の最期を見届ける
西元・小糸ら一行は正月の4日、800名の大部隊となって西に向かう。ノボシベリスクで乗り換えて南下、カザフスタン共和国のアルマ・アタに到着、1月20日のことであった。ここで第40地区第三分所俘虜収容所に入れられた。
しばらくして収容所内で発疹チフスが流行り始める。西元の部屋収容所の隣にはバラックが設置され、患者はここに運び込まれた。ところがここで小糸夏次郎は発疹チフスに罹患してしまい、3月上旬にあえなく亡くなってしまった。そして臨時衛生兵として看護の手伝いをしていた西元自身も同じ頃チブスに罹患してしまう。西元の場合は、運よくジューコフという女性の大尉軍医が手厚く治療をしてくれて3月15日には熱が下がり回復に向かった。ソ連兵のなかにはこのような人物もいたのである。西元はそうした「事実」を包み隠すことなく、またなにか「イデオロギー」を持ち出すことなく、粛々と書いている。
建国大学の同僚小糸夏次郎と西元宗助との明暗はこうして分かれた。なんとも言いようのない、運命と言うか偶然と言うか、いずれにしても極限での「分水嶺」であった。生き残った西元は、シベリアで倒れた小糸のことを、「学生から尊敬を一身にあつめ、建国大学の良心ともいってよい人物であった」と書いている。
西元は戦争直後に病で亡くなった小糸夫人の弔いもしている。戦争直後の混乱のなか、葬儀も開けず僧侶も招くことができない。そんなことから、そこで西元が替わって読経を唱え、学生らとともに南湖のほとりに西元夫人を埋葬したのであった。西元は、小糸夫人と小糸夏次郎と、二人をともに見送ったことになる。
収容所の西元宗助
西元はこのあと収容所で総勢18名の第21小隊に編成されて作業を行なうのだが、この小隊には満洲図書配給理事長の田中聰一郎や満洲新聞協会理事N氏も含まれていた。また収容所にはパリ留学からドイツ経由で新京に入って捕らえられシベリアに送られてきた淡(だん)徳三郎や、プロレタリア作家で転向し満洲新聞に勤め戦後にシベリア抑留となった山田清三郎らもいて、この二人を中心に「友の会」(のち民主グループ)が結成され壁新聞も張り出されたという。さらには図書部も設けられて、『万葉集』『漱石全集』(一部)『百万人の数学』『長塚節歌集』などが架蔵されよく読まれた。
収容所では演劇活動も盛んで 、暁明座など三劇団ができた。内容は国定忠治もの・清水次郎長もの・ダモイ劇(故国帰還劇)のほか、河上肇をモデルにした淡徳三郎の「ある博士と門弟」や、田中聡一郎「星空」などが演じられた。西元の回想によれば、淡はできるだけ民主劇に引き寄せようとするのだが、俘虜大衆は次郎長ものや漫才劇をもとめていて、まるで「片田舎の屋台劇をここで再演している形であった」という。
現在のアフガニスタンのカラガンダに移送された西元ら41名は昭和24年8月30日思いがけなくも帰還の内示を受ける。そして10月3日正式に帰還命令がでたのである。「帰還式」をすませてカラガンダの町を行進して駅に向かった。ここから列車でウラジオストックの東に位置するナホトカに向かうのである。日本人俘虜が連行されて収容所のあるというクラスノヤルスクやタイシエットなどを過ぎ、そろそろイルクーツクに到着するという11月13日の夜、体調が悪くなり吐き始めた。イルクーツクで医者に診てもらったところ急性盲腸炎との診断であった。せっかくの帰還を目前に、ここで手術を受けるか、このままナホトカに向かうかの決断を迫られる。ソ連側の医者は、西元に完治したら必ず帰還列車に乗せて日本に帰してやると約束をした。どのような選択をするか、運命の急展開、決断の時である。つい1時間ほど前までは、日本に帰ることができると胸を躍らせていたのに、「人生というもののもつ如何ともなし難い運命の厳粛さを身一杯に感じては、その深淵さに戦いた」のであった。
西元は盲腸炎の手術を受けることとし、回復もしたのだが、軍医が約束した帰還列車はなかなかやってこない。帰還列車が来るまで第五収容所に入ることとなった。11月8日になり収容所所長から1週間以内に帰還命令がでるだろうと報告される。一同喜びに沸いたが12月にはいっても帰還列車の報告はない。12月3日にはチェレンホボ炭田に移ることとなった。
昭和24(1949)年の新年を迎える。収容所では政治教育がいっそう活発に展開されるようになり、7月中旬には帰還も現実のものとなった。8月4日早朝に広場に集められ、ABC順に名前が読み上げられる。読み上げられた者が引き揚げることができるのか、そうでないのかわからない。読み上げが進むうちに、どうも名前を呼ばれたメンバーはどこかにまた送り込まれ、読み上げられなかったメンバーが帰還者らしいとわかってきた。Nのところにきて、西元は読み上げられなかったのであった。そして8月6日には西元らは全員帰還を告げられる。
引き揚げ
帰還列車は紅白のテープや花環で飾られ、さながら花電車の様相で出発した。しかしながら車内では息つくひまもなく歌唱指導や討論会がもたれる。さらにいっそうの政治学校化した列車となった。そして8月15日を迎える。そうしているうちに、車中のひとりひとりに、「わが偉大なるソヴェト軍による日本人民解放記念日」、自分はいかに人間変革をなしとげ共産主義者になりえたかといった、「いわば入党決意の信仰告白」までさせ始めた。西元は逡巡し「沈黙戦術」をとっていると車両長が立ち上がり、西元を反動分子と呼ばわり、このような敵に内通するおそれのある反動は一緒に連れて帰るわけにはいかないと食って掛かる。「他の委員連」もこれに呼応してわめきたてたという。反動のレッテルを張られた西元は、ハバロスクで下車させられるかもしれないと心配した。
そしてともあれ8月20日にはナホトカに到着する。ここで西元に「呼出し」がかかる。「万事休すか」と覚悟を決めて出向いてみると、それはソ連側の取り調べではなく、「日本俘虜民主委員会の最高執行機関」で、帰還停止の発言権も持っている日本人の「アクチブ集団本部」つまり左翼の活動家分子であった。ここで身分や履歴、さらに帰国後の行動などを問われる。思想調査が行なわれたわけである。西元は慎重に、時には心にもないことを言わざるを得なかったが、なんとかこの場を逃れることができた。
ナホトカ港には帰還船が停泊している。ここで引き揚げとなる第三分所へ移動するメンバーの振り分けがなされる。西元は先のように「反動分子」と糾弾を受けている身であり、この振り分けで帰還組に入れるかどうか不安であった。果たして西元の名前は呼ばれない。残留組は収容所で「反動」とされた者、また前職が障害となっている者らであった。西元は第四分所に配属となった。ここにはすでにアルマ・アタを出発して帰還したはずの日本人も残留している。朝鮮から入学した建国大学二期学生ともここで再会した。
9月20日になり呼名点呼がある。整列して名前が呼ばれるのを期待して待つ。西元はここでついに名前を呼ばれたのである。第三分所に移動して帰還の準備にかかる。そしてただちに関税検査。貨幣や印刷物・文字の書かれたものなどの携行は禁じられた。引き揚げ後には日本で「ソ同盟の真実」を伝えるべく具体的な説明があり診察を受ける。21日に乗船であった。
ソ連での最後の歓送大会、日本人の分所管理部長の「共産党振りの挨拶」、ソ連将校の日本語による挨拶、ソ連側に任命された梯団長の答辞と続く。ソ連側の狙いは、ソ連の社会主義的真実を伝えること、帰還後は共産党に入党して活動することなどであった。「梯団約千九百」は隊列を組み闘争歌を歌い行進していく。この行進が、四年間「お世話になったソ連領土とも一歩一歩がお別れ」というわけである。港には八千トンの明優丸が横付けして待っている。西元らは「平和擁護の歌」を高らかに歌って乗船した。西元は、「タラップから明優丸の甲板に第一歩を踏み入れた瞬間ほど感激に満ちた瞬間が、私の生涯に今後もまたとあることであろうか」とその時の感動のほどを語っている。
西元宗助は船上で両手を固い握りこぶしに固めて次のように心に念じたという。本書を書いた西元のの真情をよく言い表していると思うので少し長いが次にそのまま掲げておく。
スターリンよ、さらば。ソ連市民よ、さようなら。四年間まことにお世話になりました。そうしてこの苦しい四年間は決して無駄ではありませんでした。顧みますと、色んなよいことを数限りなく教えていただきました。それに、ソ連の良いところと悪いところを十分見せていただきました。私どもはソ連の良いところを手本とし、その悪いところを反省の資料として、民主日本の再建に協力したいと思っています。そうして、かかる意味において、“ソヴェトの真実”を、良心を以ってお伝えいたしたいと思います。/ 大スターリンよ、まことに有難うございました。しかし、シベリアの奥地に、永久にねむる私たちの同胞十数万と、いまだに生残されている何万かの同胞のことを思いますと、私たちは胸がはりさけそうであります。
これこそが西元宗助の真情であり、収容所体験を書き記しておこうと考えた真意であった。この体験記はまことに詳細な記述であり、しかもその時期の西元の反省や考え、感情や気分などが客観化され対象化され、ていねいに書かれてある。そんなことから読み手はおのずとそれに引き込まれる。
この時代に詠んだ歌に、「吹雪路をいのちのはてとあえぎゆく」というのがある。まことに抑留時代の気持ちをよく言い表していると思う。
やがて船は舞鶴港に着岸、上陸して引揚援護局に落ち着く。すると、なんとそこには西元の妻子が出迎えていたのである。西元夫人は援護局相談員として勤務しているという。夫人の話によれば、昭和20年12月14日に西元がソ連兵に連行された後、学生の「岸田君」と家を守り、翌年には内戦が激しくなり宿舎付近が中共軍の陣地となったことから岸田は弾丸運び、妊娠中の夫人は炊事を隣組の人たちと手伝った。そして引き揚げが決まり、昭和21年7月26日に葫蘆島に到着する。ここで乗船待機中に産気づいて宿舎の馬小屋で出産したのだという。
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ここまで、「建国大学時代の西元宗助」、「終戦時の西元宗助」、そして「抑留時代の西元宗助」についてみてきた。ソビエト抑留時期については『ソヴェトの真実』に詳しく述べられてあるから、ここでは簡略に述べた。ともあれ、これが建国大学戦闘隊第二中隊長に任命された西元宗助の、「満洲」であり「建国大学」であり「抑留生活」であった。西元は同僚の小糸夏次郎助教授とともにシベリアに送り込まれ、小糸をその地でチフスにより亡くした。そして西元はといえば、同じようにチフスにかかりながらも九死に一生を得て日本に引き揚げることができた。
西元がなぜ建国大学戦闘隊中隊長に任命されたかを知りたく思い、ここまで満洲時代を中心に書いてきた。確たる証拠は見つけられなかったのだが、戦闘隊中隊長としての西元が、決死の覚悟で建国大学に残り、防衛線を張ろうとしていたこと、西元夫人が一度は疎開するつもりで部隊兵舎まで行きながら建国大学にとどまっている西元に対して、「あなたがここで死ぬ気ならわたしも」と建国大学に戻ってともに防衛線についたことなど、そんな回想文を読むと、西元は、8月12日の秘密職員会議における尾高副総長による意向聴取に、建国大学に立てこもって守り抜くべし、との旨の意見を書いたのではないかと想像する。それゆえの尾高副総長による中隊長任命であったであろう。
森信三の自伝にあるように、「作田荘一副総長の信任篤かった」森の進言で建国大学に招聘された西元宗助は小糸夏次郎をふくめ、建国大学ではともに研究会活動を行ない研鑽をつむなど、関係は深かった。そして西元は建国大学戦闘隊に参加し、小糸夏次郎も建国大学閉学宣言を書いた。こうした建国大学時代や終戦時の建国大学の動きを考えてみると、森の影響力は思いのほか大きかったのではないかと想像する。
そしてもうひとつ、調べていてわかったことだが、西元は京都帝国大学の学生時代、吉田神社で岡田虎二郎の静坐会に参加していた。西元がその後にまた戦後に静座法などを実践したかまた何か静坐に関して書き残しているかはわからない。ただ、教育者であった森信三はこの静座法を援用して、戦後に立腰運動を唱道した。それは森の死後、愛知県の半田市で公教育に取り入れられ、それに対して教職員組合などを中心に反対運動がおこったという一件は森信三の項目ですでに述べた。
一方の西元は宗教者であり、静坐法をふくめ、思想・思考はどちらかというと内省・内観へと向かっていたという印象を持つ。そのことが、森の自伝と西元の抑留体験の回想とのスタンスの異なりとして現れ出ているのではないか。だからこそ、『ソヴェトの真実』のなかで、抑留の間に非業の死を遂げた同僚小糸夏次郎のことを、心を込めて衷心から回想の文章を綴ったのだと思いいたるのである。 2026年2月10日 記