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NEW!! 建国大学教授森信三のこと―「建国大学閉学宣言文」起草者のひとり (1)

建国大学教授森信三のこと―「建国大学閉学宣言文」起草者のひとり (1)

はじめに
森信三は教育学者、戦前期満洲国で建国大学教授を務めた人物である。そして終戦により閉学となった建国大学の「閉学宣言文」の草稿を書いた三人の教員のうちの一人であった。
森が建国大学に奉職中の康徳9(1942、昭和17)年、建大の中国人学生が思想上の問題で検挙される事件が起こった。その結果建国大学副総長の作田荘一が引責辞任に追い込まれる。
この作田の後任に就いたのが陸軍中将の尾高(すえたか)亀蔵であった。森は研究者としての作田荘一を尊敬していた。そして研究者の出身ではなく、あまつさえ陸軍中将出身の尾高が副総長として就任したことを快しとしなかった。戦後からの回想であるが、森は尾高のことを「われ嘗て閣下と呼ばるるを好めりし人の許にありしことあり 今となりては過ぎ去りし夢の一齣なり」と書き、尾高のことを歌にまで詠んでその情を歌っている(『国あらたまる 歌集 (叢書国革まる)』(開顕社 昭和24年)。
そんな森信三は、終戦直前に朝鮮へ出張し、終戦時に新京にはおらず、8月18日ごろ新京に戻ってきた。そして8月23日に開催された建国大学卒業証書・在学証明書授与式に出席している。この時尾高副総長は吉林方面へゲリラ戦に出ていたことから千葉胤成(たねなり)が副総長代理として訓示を述べている。そしてこの日に建国大学の閉学が宣言されたわけだが、宣言文の起草者には三人が名前を連ねていてそのひとりが森信三であった。このとき森は49歳、他の二名は、小糸夏次郎助教授(東洋史、明治41年生まれの37歳)、江頭恒治教授(経済史、明治33年生まれで45歳)であった。
本稿では森信三の渡満、建国大学時期の活動、尾高副総長とのこと、建国大学の閉学宣言、そしてその後引き揚げまでについて主に述べていくこととしたい。

森信三の略歴
森信三は明治29(1896)年愛知県知多郡武豊町の生まれ。岩滑(やなべ)小学校・半田小学校高等科を卒業したが家庭の事情で中学受験がかなわず母校の給仕となる。16歳ごろに岡田虎二郎の静坐法と出会い生涯続けた。準教員講習会を受講して半田小学校で代用教員。明治45年愛知県第一師範学校に入学し大正5(1916)年10月に卒業、愛知県幡豆郡(はずぐん)横須賀尋常高等小学校(現在の西尾市立横須賀小学校)の教員となった。大正7年4月になり広島高等師範学校英語科に進学。ここで西晋一郎の講義を受けた。また大正9年に高等師範に転任してきた福島政雄の薫陶も受けている。大正11年に広島高等師範を卒業して1年間の就業義務により大阪の阿倍野高等女学校英語教師として赴任する。なお師範学校卒業生は、小学校教育に従事すれば2年間の兵役を免れて六週間の入隊訓練で済むという「六週間現役兵」の制度があり、そんなことから森は九条第四小学校へ毎週土曜日に行って高等科の生徒に英語を教えた。
大正12年に京都帝国大学哲学科に入学する。当時哲学科には西田幾太郎がいた。これで森は、当時の哲学界の両雄の、西と西田に学ぶという得難い体験をしたわけである。こうして森は、福島政雄を通して親鸞に触れ、西晋一郎により儒学や禅を学び、西田からは哲学を学んだ。大正15年3月に大学を卒業し大学院に進むが、あわせて大阪天王寺師範・女子師範専攻科で哲学と倫理学を教えた。ここでは広島高等師範の西晋一郎『倫理哲学講話』、京都帝大の西田幾多郎『善の研究』をテキストとして使って教えた。昭和6(1931)年大学院を修了し天王寺師範の専任教諭、昭和7年10月から6か月間国民精神文化研究所第一回研究生となった。国民精神文化研究所の講義については、西晋一郎・金子大栄および作田荘一の講義が有意義であったという。ちなみに西晋一郎門下で建国大学助教授となった小糸夏次郎は、昭和8年3月に広島文理科大学を卒業後国民精神文化研究所哲学科の助手に就任している。その後森は西に請われて昭和14(1939)年4月、建国大学に就任し教授となった。終戦を満洲で迎え昭和21年に引き揚げている。昭和26年10月兵庫県立篠山農大(兵庫県立兵庫農科大学)の英語教師に就任。その後の昭和28年、京都府立大学に勤務していた建大同僚の西元宗助の尽力で、森の専門の教育学担当として同大学への赴任の話がまとまりかけていたのだが、神戸大学からの招聘の話が同時に持ち上がってきて、森は神戸大学を選び、昭和28年神戸大学教育学部教授に就任している。森が亡くなったのは平成4(1992)年11月21日。翌年半田市岩滑の常福院に納骨された。
森信三の伝記事項およびそれぞれの時期の懊悩や思索・執筆活動の詳細は、「自伝」(『森信三全集 第25巻)』実践社 1967年)、寺田一清 編著『森信三小伝』致知出版社 2011年などに詳しく述べられてあり、ここでは主に満洲時期の森信三について述べていく。

渡満して建国大学教授
天王寺師範学校在職中の昭和13(1938)年夏、広島高等師範学校で師事した西晋一郎から建国大学への赴任を打診される。西が大阪で定宿にしている道頓堀北詰の河内屋で森は西と対面した。この建大赴任の打診に対して森は、日本において「生涯を国民教育のために捧げよう」と決意を固めていたことからその旨を伝えて断った。ところが西は了解しない。そして半時間ぐらい端座のまま向かいあっていたという。西の意向が変わらないとみてとった森はついに折れて渡満を決意する。その後作田荘一副総長が大阪の田辺西町の森宅を訪問して正式に就任の要請をした。科目は「哲学概論」「東方哲学」などであった。森はその際に、「学問論」の講座を置く必要があると提案した。この提案は作田副総長の採用するところとなった。このことを森は「この一事を以ってしても、いかにわたしが先生の知遇を頂いたかが分かるわけである」といささか誇らしげに書いている。『建国大学要覧 康徳8年版』にはこれらに加えて「塾訓育」と記される。
なお西晋一郎は作田荘一・筧克彦とともに建国大学の創設準備委員を務めていて、そんなことから森に白羽の矢が立ったというわけである。なお森は「精神講話」も担当したが、これは作田副総長が担当していた科目であり「いわばその名代」として担当であった。森はことについて「自伝」で「(作田)先生が教えておられた「精神講話」を受け持つために着任した」と述べているのだが、この「精神講話」を受け持つために着任、というのはいかがであろうか。作田との面談でそんな話も出たのかもしれぬが、これは少し過大な表現のような印象を持つ。いずれにしても森は、この「精神講話」の講義については、天王寺師範・女子師範での「修身教授」に類したものでもあることから、少し程度を上げて「大陸を背景とする視野の拡大」を心掛けたという。
就任を決めた森は、その赴任前の3月、建大に合格した日本の「新入学生訓練」の「伊勢神宮参拝」に参加している。引率は塾訓育の石中廣次教授で、3月31日から4月3日まで伊勢神宮や柏原神宮の「参拝・訓練」が行なわれた。ここで森は、建国大学に赴任する前に、入学予定の建国大学学生とはじめて対面したことになる。そこで森は、建国大学が旧帝大と同様に、前期三年・後期三年の満洲の国立大学であり、その学生の優秀さに驚き、「大てい旧制中学で上から三位くらいの者が多かった」と書いている。満洲へは数年前に大阪女子師範学校の鮮満修学旅行団の付き添いで哈爾浜まで出かけたことがあったが、教職として赴くのはむろん初めてのことである。
森は昭和14(1939)年4月5日単身で大阪駅から列車で下関に向かった。ここから釜山を経由して7日正午ごろに新京に到着、鉄道会館では作田荘一副学長への着任の挨拶もすませた。

建国大学での活動
森は、建国大学副総長の作田荘一や、ニイチェ研究者でドイツ語担当だった竹風登張信一郎教授を尊敬していた。また建大の「名物教授」として、この登張竹風をはじめ、名誉教授の称号を授けられている筧克彦・西晋一郎・平泉澄、それに君山稲葉岩吉・岩間徳間らを挙げている。
森は「作田先生の格別のご信頼をうけていた」ことから日本から招聘する講師の相談を作田から受けていたといい、推輓した教員は「福島(政雄)先生の学風を引く」西元宗助、「西(晋一郎)先生の愛弟子」の小糸夏次郎、そして福島政雄も「ついに専任教授」として赴任することとなった。さらには、東洋美学の金原省吾(「芸術論)、神道哲学の鈴木重雄、仏教学の伊藤証信(「諸教概説」)らを推挙したところ、作田は「それぞれの人の著書をお読みになられた上で」いずれも兼務講師として建大に赴任することとなった。たしかに森は作田の信頼は篤く建大で重職に就いており、多くの教員を招聘し、一派をなしているという印象も受ける。

註:森は戦後に自身の雑誌を刊行するために起こした開顯社から、作田荘一『時代の人河上肇』を昭和25(1949)年に刊行している。この本の「はしがき」で作田は、「この一書が世に送り出されるについては、筆者の親友であり、雑誌『開顕』の主宰たる森さん並に開顕社の事業に當ってゐられた森夫人の一方ならぬ配慮によった」と記している。またこの出版について森はその自伝の中で、本書の印税が作田の京都への転居の費用の一助ともなったこと、「建大時代の御恩の一端にお報いできたかと喜んだ」と記している。

就任後間もない康徳6(1939、昭和14)年4月末には病気療養している蒙古学生を見舞うために驢馬に乗り孟家屯まで出かけた。また5月5日は全満挙げての植樹祭が行なわれる日であったが、建大もこの行事に参加、森も大学から4キロほど離れた農村地帯に向かい植林を行なっている。5月22日には建国大学研究院の全体研究報告会では「日本當来ノ哲学」と題して発表も行なった。6月30日付「建国大学研究院勤務ノ任命並ニ嘱託」では建国大学研究院教授として企画室常務に名を連ねている。同年7月1日から8日まで、国境建設奉仕隊として黒河近くの国境地帯に派遣された。これは作田副総長が陣頭指揮を執ったものであった。8月には帰国し家族と同道で新京に戻った。そしてその年の冬休みには再び帰国して斯道会や各地の国民教育者の会合で講演会などを行なっている。
康徳7(昭和15、1940)年に入り、森は作田副総長から塾頭の兼務を申し出られた。建大では塾教育を重視していたこともあり引き受けることとした。建大の塾は大むね20名以内の座談会などが開かれており、「お国自慢」などで学生と親しく過ごした。5月17日の部会総会研究班の決定事項によると「基礎研究部の1. 建国原理班の班員(班長は作田研究院長)」、「総合研究部1. 思想国防班の班員(班長は筒井清彦)」を担当している。7月上旬から8月上旬まで「神道及び皇道研究資料調査収集のため」東京へ出張した。
康徳8(1941)年4月1日現在の常置研究班所属班員一覧によれば、森は「第一基礎研究部 哲学研究班の班長」、「第四文教研究部 国民教育研究班の班員」であった。森は建国大学が委嘱して講演した人物を挙げて短評を述べている。軍人でノモンハン事件の強硬派であった辻正信、少年義勇隊を派遣した国民高等学校校長の加藤寛治、食養生・心土不二で知られる桜川如一、相撲協会を脱退した相撲取の天龍、神道の筧克彦、合気道の植芝盛平らである。このうち桜沢如一については講演後の座談会でもいささか「暴慢な態度」で砂糖類を好む教授に「長生きはできない」など発言し、その評価は低いものであった。

副総長作田荘一の辞任と陸軍中将尾高亀蔵の就任
康徳9(昭和17、1942)年早々に森は作田副総長からの要請で教務科長に就任している。
ところがそれから半年余り後の6月、作田副総長が辞任するという事態とあいなった。建大学生の思想上の問題により多くの検挙者をだしたことから、その責任を負うかたちで6月6日、作田荘一副総長の引責辞任が発表されたのである。建大の教官のなかには社会運動により検挙された経験を持つ人も幾人かおり、学生の研究もまた比較的自由であったが、今回の事件は学外の反日運動との関りであり、看過できないとされたのであろう。さらに一部で作田を快く思わなかった向きもないでもなかったようである。結局6月16日に作田荘一副総長は依願退職となり、後任に陸軍中将の尾高亀蔵が任じられた。
この尾高の副総長就任については、「日満両国の当事者からの要望」、梅津司令官の要請、さらに陸軍省人事局からの推薦があったという。だがこの就任に対し批判的な教員も学内には数多く存在した。研究職ではなく、しかも陸軍中将の副総長就任であったが故である。その就任式は6月16日、開場したばかりの武道場 養正堂でおこなわれている。ここで尾高が述べた訓示は次の三点であった。
1.建国大学生としての強烈な自覚を持つこと、
2.慈愛親切であれ、
3.規律を尊び勇気と実行の力を養え、
こうした、いかにも一般的で通俗的な訓示を述べた尾高新副総長に対して、真覚正慶助教授らは、「やっぱりと一同顔を見合わせた」という。またこの就任式では尾高の訓示に対する答辞を登張竹風が読んでいるのだが、登張は、「われわれは言わば四十七士である。思想と団結は固く、如何なる風雪辛酸をも意としない。ただ私かに憂う、大石内蔵之助はしっかりしているのかと」と言い放って尾高をじっとにらみつけたともされる。そのとき将軍は、「カッと赤くなり、胸の勲章が小きざみにふるえて音をたてた。勝負はあった」と続けて記している(真覚正慶(しんかく まさよし)「ツァラツストラ歓喜嶺にありしとき」『登張竹風遺稿追想集』郁文堂出版 1965)。

森信三の尾高副総長への評価
森信三もこの尾高副総長のことを快くは思っていなかった。先の真覚の尾高評と同様に戦後からの回想であるが、森は尾高のことを、「陸軍部内でも「赤鬼」という異名で通っていて、非常に癇癖がつよくて、何を仕出かすかしれないというので、この人が膝元の東京にいることを、最も忌み憚った東条英機が、満洲の地へ追っ払おうとしたところが作田先生の御引退、例の学生の思想事件のために、御予定よりも半年早められた真因のようである」と述べる。事の真偽はわからないが、いずれにしてもこのような憶測が建大の教職員の間に流れていたということは尾高に対する反感が広く流布していたということなのであろう。
森はよほど尾高のことを嫌っていたと見えて、引き揚げ後であるが、「閣下」と題して短歌にまで詠んでいる。そこでは、「われ嘗て閣下と呼ばるるを好めりし人の許にありしことあり 今となりては過ぎ去りし夢の一齣なり」と書いたうえで5首が掲げられる。そのうちの2首を書き抜いておく(『国あらたまる 歌集 (叢書国革まる)』(開顕社 昭和24年)。
閣下といふ言葉を吐くを死ぬほどに 思(も)ひてしことも夢となりしか
軍人官僚ら閣下となるを唯一の ねがひとせしをかへりみおもふ
尾高が実際に自分のことを「副総長閣下」と呼ばせていたかどうかはわからない。だが尾高は、勲章と肩書をこの上なく大事に考えていたことは間違いない。終戦時ソ連軍の南下にそなえ、尾高は建国大学で「決戦隊」を組織してその隊長に就き、胸に墨書で「功〇級勲〇等陸軍中将元軍事参議官」と大書した白布を縫い付け日本刀を帯びて馬に乗って駆け回っていたという光景については何人かが回想している。胸に縫い付けたという墨書は、尾高が受章した「功二級金鵄勲章」「勲一位景雲章」である。そして尾高は、終戦となり建国大学決戦隊が解散となったあと吉林方面へゲリラ戦に赴きこれが不発に終わり、挫折して新京に戻ってからの住まいに、軍刀や勲章を何よりも大切に飾っていたということからもそのことはよく知れる。
学究肌でドイツ文学者の登張竹風を尊敬していた森信三であってみれば、軍人副総長の尾高亀蔵とはまったく肌合いが合わなかったわけである。森は、「学問などというものとは大よそ無縁の人間がやって来て…学問のことなど全然分からないのに、研究会での席上などで、相槌などを打ったりしているのを見ると、滑稽という他なかったのである」と手厳しい。学問の領域とは無関係の人物であっても、納得したり共鳴したりすれば相槌くらいは打つであろうと思うのだが、いずれにしても、この森の尾高憎しの書きぶりはすさまじい。こうした評価は戦後すぐに書かれたものではあるが、なにか逆に学者を特別視しているような印象を抱かせ、そのまま共感できないところもある。
森は作田副総長のもとで引き受けた教務科長だったが、作田が尾高副総長と交替したことからその辞任を申し出た。しかしそれは受け入れられなかったという。森の回想では、「作田派」の森信三を悪く言うかそうでないかで、その教員の考えが試されて都合が良いことから、尾高は森の教務科長の辞意を認めなかったのだろうと書き、その結果、尾高副総長の顔色をうかがいながら、「全学百数十名の教職員の非難の矢を、一身に受けることになった」とまで述べている。実のところ多くの教員がどのような反応を示したかはうかがい知れない。建国大学の教員のなかには、建国大学の理念を固く信じ、尾高副総長の就任を承認していた教職員もいたであろうし、森のように、満洲国や建国大学の建学理念を固く信じながら軍人副総長の就任には反対の教職員もいたであろう。また作田派・反作田派に色分けされずとも、研究上では好待遇であった建国大学という場でもっぱら研究に励もうとした「学究肌」の教員も少なからずいた。この色分けの試金石というのはいかがであろうか。

ふたたび建国大学での活動
建国大学での森信三の業務を『建国大学年表』によりさらに書き出してみる。
康徳8(1941)年2月に刊行された『研究院月報 第6号』で森は「現実と哲学」を書いている。先に少し述べたように同年12月27日の発令で教務科長に就任した。
また翌康徳9(1942)8月16日の発令では「満洲百科事典編纂準備委員」に就いている。この百科事典編纂委員には森の尊敬する登張竹風名誉教授も名を連ねた。おなじく8月16日発行の『建国大学塾月報 2号』に「建大生としての学問」、康徳10(1943)年4月刊行の塾雑誌『建国 第3号』に「亜細亜的世界観」を寄稿。9月1日には一面坡および勃利訓練所の青少年義勇隊の実態調査のため10日間出張した。この義勇隊調査を機としてであろうが森は義勇隊訓練本部の渡辺脩からの依頼で義勇隊少年のための「教本」の執筆を依頼されている。渡辺の熱意と真率さに打たれて腹案を作成し、義勇隊や開拓団に政策主任官房の関東軍四課将校も交えて編集会議が開かれた。この原案は修正なく承認されている。この印刷に取り掛かったのは康徳11(1944)年になってからのことであったが、見本の一部が新京の訓練本部に届いたものの戦火で焼けてしまった。これは「修身教授録の満州版」ともいうべきものであったとは森の言である。
康徳10年(1943、昭和18)年4月26日には国民精神研究班の研究会が開催され、森信三が「国本顕揚の大本」と題して発表、千葉胤成・福富・安倍三郎・小糸夏次郎が参加している。10月12日には学内巡視補佐官の任命が行なわれた。ここでは前期1学年担当補佐官に森信三・佐藤匡玄ら、前期2学年に宮川善造・山本守ら、前期3学年には安倍三郎・大間知篤三ら、後期2年には江頭恒治・大森志朗ら、後期2年には向井章・高橋匡四郎らが任命された。そして16日には学内巡視補佐官を伴ない、尾高副総長による学内巡視が行なわれている。その内容は、1 図書点検、2 校舎および塾舎外の整備整頓、3 ガラス窓その他の保管整備状況、の3点の点検であった。このうち主眼は、学生の趣味思想などをその蔵書により調査する「図書点検」で、これに先に任命された巡視補佐官の教員があたったというわけである。このような検閲まがいの「図書点検」という管理体制も、この時代の国策遂行のための大学であれば、さほど抵抗感はなかったかもしれない。また任命は準送りの当番制で「大学業務」という認識であったであろう。そして森も他の教員と同じように、その任務を遂行したのである。
終戦後に森信三が副総長尾高亀蔵のことを詠った歌の前文に、「閣下と呼ぶこと堪へ難くしてわが椅子を擲(なげう)たんとせし幾そたびなりし」と書いているのだが、軍人副総長に対して辞表をたたきつけようかとまで考えた尾高副総長の率いる学内巡視であった。「仕事」とはいえ、尾高副総長の補佐官として学生の「図書点検」までも行うというのは如何なる心持ちであったであろうか。
そんな森ではあるが、同じ時期の康徳10(1943、昭和18)年3月の「精神講話」で、「勅書を奉読し、塾歌を歌ったときの感激が建大の精神の中心たるものと思う」と講義で述べている。そしてこうした講義に対して学生からは、「これまで満洲建国の大本を論理的にあるいは抽象的にあれこれと言われるのは、しばしば伺ったことがあるが、…本日森教官の講話において、この点をごく結論的に言って下さった。すなわち「皇帝陛下に真の崇敬を致すことである」」と森の授業を高く評価するものもある(山下光一「塾生日記」、参照は『建国大学年表』より)。
さらに『歓喜嶺遥か : 建国大学同窓会文集 下』に回想文「小糸先生のことなど」を寄せている小谷部東吾が、「私の建国大学は終戦とともに始まる」と書き出し、建国大学在学中のことで記憶していることと言えば、森信三教授が、「満州は神の申し子である」と体をやや斜めに構えて言ったことだけだと続けている。森は満洲国建国の意義や建国大学の理念などを、このように簡潔にそして心底から信じて語っており、その講義などが学生の胸に響いたというわけである。この小谷部は、昭和20年2月に建国大学に入学した歳若い学生で、終戦後は小糸夏次郎助教授に引き取られている。いずれにしても、小谷部や山下の回想にあるように、森が、満洲国の民族協和・八紘一宇といった建国精神に彩られた建国大学の建学精神に深く傾倒していたのは確かなことであった。そんなかれであるからこそ、建国大学の閉学宣言の起草者のひとりとなったのであろう。
森は康徳11(1944)年4月24日から27日まで、協和会合同訓練の出講義のため協和会の委嘱により一面坡に出張している。一面坡には青少年義勇隊の実態調査のため以前に出張しているのでその縁があっての講義であっただろう。この時期の協和会は、すでに完全に満洲国を一元的に統治するための教化機関となっていた。

森信三の終戦
さて終戦の年の康徳12(1945)年7月、森は学生募集のため朝鮮への出張を命じられる。戦局は悪化の一途をたどっており、「来年の入学」も危ぶまれる状況であったが、こんな状況にあっての学生募集の出張であった。森は安東から朝鮮に入り各地を回って8月14日最後の目的地の平壌に到着した。ここで鉱山を経営する朝鮮人実業家から、明日の15日に日本降伏の重大発表があると知らされる。そして彼から、南朝鮮に農園を持っているので引き揚げには少しでも日本に近いこの農園に来たらいかがかと誘われる。
森は新京に家族も残しており、その申し出を丁重に断り、平壌発新京行きの列車に乗った。終戦時の鉄道がみなそうであったように、動いては停車し、なかなか発車しない。覚悟を決めて列車に乗っていた。そしてようやく終戦の2日後の17日午前奉天駅に到着する。
奉天で気がかりだったのは旧制中学3年の長男のことである。長男は奉天の北陵近くの文官屯造幣廠に動員されていた。混乱のなか、駅でようやく馬車をひろうことができて文官屯に行ってみたところ首尾よく長男と会うことができた。教官からは、「連れて帰ってもよい」と言われたのだが、長男にその意思を聞いてみると、「友人もいるので帰るわけにはいかない」との答えであった。森は後ろ髪をひかれる思いでひとり奉天に戻り、そして新京へ帰った。
森が新京の社宅に着いたら家族はすでに10日、軍とともに新京を脱出していた。家族は、官舎街の疎開者として、親戚の伝手で関東軍自動車隊に便乗し新京を脱出していたのである。このとき森夫人はご近所の同僚西元宗助夫人に、いっしょに疎開しようと誘った。西元夫人は疎開することをいったん決意し部隊兵舎まで行ったのだったが、西元夫人は考え直して、「あなた(西元)がここで死ぬ気ならわたしも」と戻ってきたのだという(西元宗助『ソヴェトの真実 ソヴェト俘虜記』弘文堂 1953年)。疎開する人も満洲に残る人も厳しくつらい決断であった。
他の建大の家族は終戦前の8月12日、大間知篤三教授の引率で軍属の列車に乗り、通化や北朝鮮に移動していた。よく言われるように、関東軍や満洲国官僚およびその家族は終戦前にいち早く新京を脱出し、何も知らされぬ一般大衆は満洲に残されて辛酸をなめることになるのであるが、建国大学の家族は満洲国の職員家族として、終戦前の移動という満洲国官僚に準じた扱いであったこともわかる。新京にもどった森はこうした事情を知って、宿舎にいるより大学の方が安全かと思い、南嶺の建国大学の塾に向かった。

建国大学の対応
建国大学では、森が朝鮮へ学生募集の出張に出かけている間の8月9日ソ連軍が南下したことを受け、11日には日系教職員だけでの「秘密緊急教授会」が開催されている。ここで尾高副総長はかれの統率のもと「建国大学戦闘隊」の結成を指示した。その目的はソ連軍の進撃を少しでも押しとどめることにあり、ただ不同意の教職員についてはその行動を自由とする、というものであった。建国大学は五族協和を体現する国策の大学ではあったが、大学という教育機関でもあったから、その教職員や学生が、南下するソ連の軍隊を阻止するために戦闘部隊を組織して防御の一翼を担うという尾高の方針は、いかにも軍人副総長の考えるものではあった。
それにしても、戦闘隊に参加・不参加について「不同意の教職員の行動は自由」と言われてはみても、これに対する教職員の判断は容易なものではなく、一同は皆困惑したことではあったろう。教員の中には、ただ単に研究条件の良い就職先として建国大学の教職に就いた者もいたであろう。だがそれも「渡満」という大きなハードルを越えての就任であり、多少なりとも建国大学の建学精神に共感した教員も多かったと思われる。また森信三のように、満洲国や建国大学建学精神を心から信奉していた教員ではあっても、軍人副総長の尾高亀蔵副総長に反発していた者も多く存在していたに違いない。しかもソ連軍に対して即席の素人戦闘隊への参加である。いずれにしてもソ連の軍隊と戦うというのは命を賭してのことであり、戦闘隊への参加・不参加は極限の決断であったわけである。
そしてこの日の午後4時、「満系学生」が軍需工場に向かうための壮行式が開催され、前田鷹衞教授の引率で出発した。日系学生は戦闘隊に編成され、満系学生は軍需工場での勤労動員と別れ別れとなった。ただ日系学生の戦闘隊とは言っても建大生は12日の「根こそぎ動員」「臨時防衛召集」により、大学には20歳未満の学生が70名ほど残っているだけであった。いずれにしても、これで「五族」の「協和」を標榜する建国大学は事実上解体したと言ってよい。

「建国大学閉学宣言文」
11日に尾高副学長を隊長とした建国大学戦闘隊が結成されたものの、15日には終戦の詔が発せられ、満洲国は崩壊、建国大学は存立基盤を失い、教職員は解職となった。戦闘隊も母体がなくなり解散となる。尾高副総長はといえば、地理をよく見知った吉林に向かってゲリラ戦に出発した。しかしながらこの作戦は不首尾におわり、尾高は新京に舞い戻り、拘束を恐れて潜伏する。尾高については別稿がある。
森信三は11日の建国大学の「秘密緊急教授会」および「戦闘隊を組織する」との尾高指令の折には朝鮮出張から新京に戻ってはいなかった。このことは森にとって結果的には幸いであったかもしれない。戦闘隊への参加は随意とされたものの、森は建国大学で多くの役職も務めた中枢の教授であり、森は少なくない数の教員を招き入れており、もちろん自身もまた建国大学の理念を深く信奉していた。そんな森にとって、もしもこの戦闘隊への参加・不参加の決断を迫られたとしたらいかがであったであろうか。これは難しい選択となったに違いない。「わが椅子を擲たん」と辞職まで考えるほど嫌っていた尾高副総長のもとでの戦闘隊である。戦闘隊への参加また不参加の決断は、どちらを選んでも気持ちのよいものではなかったろう。
森は8月18日に新京に戻っていたと思われるのだが、その後の建国大学はといえば、8月20日に武装解除、23日卒業証書・在学証明書の授与式が行われている。尾高副総長が吉林方面にゲリラ戦で出ていたことからこの授与式では副総長代理の千葉胤成が訓示を述べた。これで名実ともに建国大学は閉学となったのである。
参会者は教員数十名と日系学生約百名であった。建国大学の教職員数の三分の一ほどであったであろうか。欠席の教職員は、ソ連軍南下の情報を得て新京を去ったか、たまたまこの時に新京にいなかったか、また意図的に参会を見合わせたか、いずれかであろう。
この場で「建国大学閉学宣言文」が発表されている。起草したのは小糸夏次郎助教授(東洋史)・江頭恒治教授(経済史)そして森信三教授であった。小糸については別に述べる。
この宣言文では、卒業生および学生諸子は母校を喪うことになるが、「亡羊岐路ニ迷フカ如キコトアラハ顧テ往事学窓ニ学ヒシ東亜興隆ノ大使命ヲ想起セヨ、(中略、今後各自は職場を選び離散することになるが―著者)諸子ノ心裏ニ明刻セラレタル大道ニ則リテ戮力同心其ノ職域ニ精励シ以テ東方道義ヲ発揚シ民族協和シテ世界ノ進運ニ貢献スルアラン事ヲ切望シテ已マサルナリ」と述べる。そして最後に、建国大学は形而上より解体したが「其ノ無形ノ本体ニ至リテハ不滅ノ存在ヲ継続セントス」と結んでいる。「閉学宣言文」でもあることから、何というか現在地点からの感想になってしまうが、満洲国や建国大学という「実体」を失い、「信念」だけを固く握りしめている、そんな理念至上の内容になっている。この宣言文を主として誰が書いたかは知れぬが、森の抱いていた建国大学の精神が色濃く反映されており、森が草案を書いたのかもしれない。
もしこの閉学宣言文が森信三の手になるものであったとしたら、そこには広島高等師範学校時代の恩師西晋一郎の姿勢が色濃く映し出されているように思われる。西は日本の敗戦が色濃くなった昭和18年1月22日、「論語顔淵篇子貢問政章」をテキストとして昭和天皇に御進講を行なっている。子貢が孔子に政(まつりごと)について問うたのに対し、孔子は「食糧を豊かにし」「軍備を十全にし」「人々が信頼すること」と答えた。さらに子貢が、もし已む無く捨てるとしたらどういう順になるかと問うと、まず軍備を捨て、次には食糧を捨てよう、信頼がなければ国家は成り立ちゆかぬ、と孔子は答えたという内容であった(西晋一郎については山内廣隆『昭和天皇をポツダム宣言受諾に導いた哲学者-西晋一郎、昭和十八年の御進講とその周辺』ナカニシヤ出版 2017年 を参照した)。
すでに8月15日には天皇の終戦の詔が発せられている。こうなれば満洲国の崩壊、建国大学の閉学は避けることができない事実である。それは受け入れざるを得ない。そうした厳しい現実を前にして、閉学宣言は、満洲国および建国大学が崩壊したとしても、それでもなお建国大学に学んだ「東亜興隆ノ大使命」「東方道義の発揚」「民族協和への貢献」は不滅の理念であると述べているのである。
西の御進講は戦争前の昭和18年であり、閉学宣言は終戦直後のことである。時代と状況は異なるとはいえ、「信頼」は何としても捨て去るわけにいかないという御進講の西の理念と同じように、「信念」を握りしめて離すまいという閉学宣言起草者の姿が映し出されているようにも思われるのである。

終戦時新京での森の暮らし
さて、建国大学が瓦解したことから、日本から渡満してすぐには帰国できない建国大学の学生に対し、塾頭や教員には2人当てで身柄を引き受けることも定められた。森は家族が通化方面に去っていたことから、有馬・井上・金森の3人を引き受けることとなった。いずれも森の塾生である。勤労動員から帰ってきた長男ともども男5人暮らしとなった。
森は仕事もなくなり、食事以外の時間は「読書三昧」の生活となった。森の回想によれば読んだ本は、『カラマーゾフの兄弟』などのドフトエフスキー、ヒトラーの『マイン・カンプ』(我が闘争)、そして毛沢東の著作であった。毛沢東の著作は、東亜同文書院を卒業して各地の領事館に勤めた遠藤秀造が届けてくれたものである。この遠藤秀造には『楠窓 : 随筆 第2集』(楠窓庵 1982年10月)があり、それによると遠藤は大正12年夏に外務省に就職し、岡部長景が部長に就いた対支文化事業部の中国視察の折には入沢達吉ともども「カバン持ち」として同道したという。北京で終戦を迎え、昭和21年春に引き揚げた。家族はすでに昭和18年春に日本に帰っていた。遠藤は外務省を昭和21年暮に退官している。
ところで森の蔵書であるが、建大で同僚だった李某に欺かれて持っていかれたという。この李は大学では「満洲語」の講師をしており広島高等師範で福島政雄に師事したということで、一時は西元宗助や小糸夏次郎らとともに「満洲語」を教わったりするほどの仲であった。その李が戦後のある日、森の所にやって来て、「貴重な書物など散逸して紙反古になってしまうといけないから自分たちが安全に保管する」と申し出た。それをすっかり信じ込んだ森は承知すると、翌日になり李はその蔵書をすっかり馬車でどこかへ運び込んだという次第であった。
森の家族の行方はわからないままであったが、疎開した家族の幾人かは新京に戻ってきた。建国大学で同僚の経済思想史の筒井清彦一家も北朝鮮から新京にもどって来て、森の家に移り住んだ。

ソ連軍に連行される
そうこうしているうちに森は12月14日、ソ連軍に連行される。森が隣組の打ち合せ会のために向かいの家に出かけていた時のことであった。2,3人のソ連兵が来襲し、土足のまま入室して○○氏はいるかと訊ねた。その場にはいなかったのでソ連兵はすぐに引き上げた。森はそのまま帰宅したが、そこに西元宗助夫人が息せき切ってやって来て、西元が連行されたこと、その時に森の家のことも尋ねたからすぐにやって来るにちがいない、すぐに逃げた方がよい、と忠言に及んだ。森は、同僚の西元が連行されてその夫人の情報により自分一人が逃げるわけにはいかないと考えて書斎で坐っていると、数分後にソ連兵がやって来て、森は連行されたのである。まず隣組の家に連れていかれたが、そこにはすでに十数名が留め置かれていた。ソ連兵は「聞きたいことがある、すぐに帰れる」と告げてソ連軍の「臨時検察庁」の建物、これが神武殿裏のタイ公館であろうが、ここに連行した。
同じように建国大学教授の西元宗助もソ連兵の急襲をうけて他の日本人ら20名ほどとともに連行され、タイ公館に押し込められていた。さらには学生と共に論語学習会をしていたという建大助教授の小糸夏次郎も踏み込まれて、学生約10名ともども連れてこられたのである。
一人一人取り調べが行なわれ。森は「あなたはモールス暗号が分かるであろう」「あなたは日本政府から派遣されたのであろう」などと詰問された。スパイの容疑を確認したのであろう。拘留六日目になり、防寒具を着用して庭に出るようにと言われ、順次名前が呼ばれてトラックに乗せられていく。そこにはヨーロッパからロシアに入ったところを、国際スパイの疑いをかけられて連行された社会運動家の淡徳三郎もいた。森の名前は呼ばれることなく拘置室に入れられた。
翌日の12月21日朝、呼び出されてソ連軍将校と通訳の前に出る。そこで、おまえ(森)は満洲に来てロシアに対しよくないことをしたが歳を取っていることからシベリアへ送ることはしないで釈放する、とロシア語で宣告された。そのあと通訳が声を落として「先生‼この動乱のなかではありますが、どうぞ躰を大事にして、研究だけは続けてください」と言った。その顔をよくみて驚いた。それは建国大学の学生で1年ほど前に突然大学から姿を消した「白系学生」のスタブスキーであった。森はそんなスタブスキーから、「仇を恩で返された」と書いている。
ただ西元宗助の回想では、森信三は小糸夏次郎や西元宗助と同様にシベリア送りとなるべく寛城子駅まで送りこまれたが、ここで森は老齢であることを理由に釈放されてシベリア送りを免れた述べられてある(西元宗助『ソヴェトの真実-ソヴエト俘虜記』弘文堂 1953年)。それぞれの記憶による回想であり、幾分齟齬があるのであろう。いずれにしても森は、老齢を理由に、またスタブスキーの配慮により、シベリア送りを免れたのである。老齢と言われた森はこの時50歳ほどであった。ちなみに西元は36歳、小糸は37歳である。釈放となった森は、自分の持っていた白の分厚な毛布を小糸夏次郎に進呈したという。
釈放された森であるがそこにはひとつ条件が付いていた。「週に二度ほど来て隠れている日本人の軍人や警官を密告せよ」というものだった。この「密告」ということに関しては、シベリア抑留となった西元宗助が引き揚げた後に聞いて分かったことであるが、某という「満洲語」の教師の密告であったという。先に連行されたのは、この某の住んでいた棟とその南の二棟に居住していたものだけであった。大学で要職に就いていた教員でも、少し離れたところに住んでいた教員は捕まらなかったと森は書いている。かれらの行方を某は知らなかったということなのであろう。
そんなこともあり、新京にいても密告を強いられる心配もあることから、森は新京を去ることにした。新京から脱出した家族の行方も心配であった。森は同行を願い出た塾生の金森を連れて新京を発ち奉天に向かう。昭和20年12月27日のことである。二人は奉天に着いたのだったが、当てにしていた奉天駅前の知人の古物商はすでにいない。
やむなく同道の金森が、建国大学学生の「源田君(一夫、昭和3年生まれ)」の家を訪ねてみようと意見を述べた。「源田君」は総務庁次長を務めた源田松三の長男で、森は源田松三とも面識があった。松三は広島県出身で明治32年生まれ。東京帝大法学部政治学科を卒業し大蔵省に入省、理財局国庫課、札幌税務署長などを経て昭和2年1月関東庁事務官に転じ財務局財務課長に就任した。昭和6年9月の満洲事変後には関東軍嘱託となり建国工作に従事、翌年3月満洲国が建国されると財政部税務司長、満洲国の各省分立財政の中央集権的な改組に尽力した。新京での住所は、北安南胡同911であった(『新日本人物体系』東方経済学会出版部 昭和11年5月)。なお海軍大佐の源田実は松三の兄である。(源田松三には『来てくれと頼んだ覚えはない:温井ダム建設34年の軌跡』どんぐり舎 がある。未見)。
ようやくのこと源田宅を探し出し、ここで「食客」となる。ところがしばらくして、繋がりの糸だった建国大学学生「源田君」が発疹チフスにかかって亡くなってしまった。森らはこれ以上源田宅に滞留するわけにもいかず源田宅を出たのである。以後森は奉天で苦しい生活を強いられる。大道易者の商売もした。
森が奉天の街で手相を見ていたら、客としてやってきた吉田東州と会った。吉田は、森が広島高等師範で師事した西晋一郎のことを、西田幾太郎よりも偉い学者だと語ったという。森はその時吉田のことを、見識ある人物との印象を持ったのだがよく見知らず、帰国してから吉田と一度会う機会があり、それがかの吉田東州であるとわかったのだという。

註:吉田東洲については『仏国及欧洲史論 : 人物・文明 時に会はず』(吉田東洲著作刊行会 1983年4月)などに「著者略歴」がある。それによると、小学卒、大日本国民中学会正則中学講義録独学、東京国民中学会附属高等予備校在学、大阪土佐堀YMCA理科学院在学等々と履歴が続くが、満洲国時代の略歴を書き出すと、協和会中央本部思想班長、協和思想研究会主宰、東辺道西辺道宣撫工作従事。満蒙毛織社長椎名義雄秘書嘱託。王道書院大学講師、敗戦奉天で奉仕学園講師。引き揚げ後は福岡心霊協会顧問九州農士学校講師など。なおここに出る王道書院は、元国務総理鄭孝胥が儒学教育を行なう目的で昭和12年5月2日開設した学校で、田辺治通が理事長、後に日高丙子郎が副院長を務めた。日高については以前に書いた。

引き揚げ
そんな森信三に引き揚げの時がきた。昭和21年4月ごろに引き揚げを知らされた。森はソ連兵に連行されながらも高齢を理由に、すんでのところでシベリア送りを免れて釈放され、その後新京から奉天にやって来て生き延びることができ、ようやく引き揚げの日を迎えたのである。
同じように新京でソ連兵に連行された建国大学同僚の小糸夏次郎や西元宗助はシベリアの収容所へと送られ、小糸はシベリアの地でチフスにかかり非業の死を遂げている。西元はシベリア抑留を耐えて何とか生きながらえ、『ソヴェトの真実-ソヴエト俘虜記』(弘文堂 1953年)という、自他をよく対象化した詳細な回想記を残した。
森信三は奉天から無蓋の貨車で錦州へ、ここで半月ほど滞留し、所持金千円を許されて葫蘆島から6月7日バイカル号に乗って舞鶴港に入港した。乗船に当たって最後の手荷物検査で、目覚まし付きの懐中時計を没収された。これは郷里の友人から贈られた記念の時計でありこの没収はつらかったという。森らは船中に一昼夜とどめ置かれて6月8日ようやく上陸することができたのであった。同道してきた金森もいっしょに引き揚げている。そのときに森が詠んだ歌。
戦に敗れし国か山河は旧のごとくに美はしけれど
敗戦となった故国に引き揚げ、その風景は以前と変わらず美しいのだが…という、安堵といささかの反省と将来の不安とがない交ぜになった、森の心境を表した歌である。
舞鶴港の埠頭に隣接する引き揚げ者援護局で手続きをし、軍の廃品である菜っ葉服や外套の支給を受けた。その後同道の金森は伊丹に両親がいて上陸後に電報を打った。ふたりでとりあえず大阪行きの切符を購入して乗車する。大阪駅に着いたものの誰も迎えは来ておらず、やむなく金森は伊丹に、森は夫人の実家のある甲子園に向かうこととして分かれた。甲子園に着いた森は夫人の家を探し歩いた。そしてようやく見つけて玄関のベルを押す。するとドアから出てきたのはなんと夫人であった。夫人は新京から軍属の列車に乗って通化に向かったが、乗っていたのが軍の特設工業学校の生徒たちだったことから、釜山まで直行して下関で解散すべしとの軍の命令で唐津に上陸したのだという。夫人らの引き揚げは終戦後一か月の昭和20年9月15日であった。建国大学教職員の家族ということに加えて同乗者が工業学校の生徒であったことも幸いして、きわめて早期に引き揚げることができたのであった。稀有なそして幸運な引き揚げであったと言える。

まとめ
ここまで森信三について、主として、渡満および建国大学在職中の仕事、さらには終戦時の体験から引き揚げまでをみてきた。こうした事象を見ていつも考えることだが、それぞれの局面での決断が一生の分水嶺になっていることである。そしてまた、そんな事態に至ったことの偶然性というものにも思いを致さないわけにはいかない。
森信三にとって広島高等師範学校での西晋一郎との出会いは森の「行き方」にとって大きな意味を持った。森は恩師の西から建国大学への転身を勧められる。建国大学への就任を強く求める西と対座した森は、いったんは固辞する。日本で「国民教育」に尽くそうと決意していたからである。しかしながら西の決意は固く、森はついに建国大学の教授就任を承諾した。
西晋一郎は建国大学創設委員のひとりであった。西は森を建大に送り、建国大学の理念に沿って教育活動に邁進してほしいと心から考えていたのである。この建国大学就任は森の大きな分水嶺となった。
そしてまた、建大学生の抗日運動による拘束を理由に引責辞任した副総長作田荘一の後任に、陸軍中将の尾高亀蔵が就いた折にも森はその去るか残るかの判断をしたかもしれない。軍人副総長の就任を快く思っていなかった森は、作田の要請で就任した教務科長の辞任を申し出たが、副総長は聞き入れようとしなかったという。森はここで大学を辞めてしまおうかと考えたかもしれない。だが森は踏みとどまった。満洲国建国の理念や建国大学創設の思想に深く思いを寄せていたからである。
さらには、終戦で満洲国が崩壊し建国大学が閉校となったときに発表された閉学宣言の起草者のひとりとなったこと、これも森の決断であった。ソ連軍の新京侵入を前にして開催された秘密職員会議の時に森は朝鮮出張により不在であった。この会議で尾高副総長は、ソ連軍侵入に対する教職員の対応や意向の聴取を行なった。それは、この状況を前にして、建大教職員のひとりひとりにその決意のほどを問うたということでもあった。意向聴取を受けて尾高は建国大学戦闘隊の結成を指示したのだが、森はこの会議の時には不在で、その意向や対応に意見を書く機会を持たなかった。このことは、本文でも述べたように、「結果的には」森にとって幸運であったとも思うのだが、当の森にしてみれば、このことが胸の奥に引っ掛かって、なにかどこか割り切れない思いや心情を抱え込んだのではないか。そんなことから森は、建国大学の閉学宣言を、小糸夏次郎、江頭恒治とともに起草者となったのではないかと考えてみたい。
森は三人ののうち一番の年長で、また五族協和という建国大学の理念を固く信じていた。そんなことから建国大学閉学にあたって起草者になることを決断したのである。森が先の教職員会議に出席していたとしたら、果たして森は、尾高総指揮のもとの戦闘隊に参加したであろうか。それは難しい判断になったことと想像する。しかしながら運命というか偶然というべきか、実際には森は朝鮮出張により不在であってその「決断」は迫られなかった。そのことも遠因となって建国大学閉学に当たっての宣言文の起草を申し出たのではないか。
そして最後に思いつくことは、満洲へと侵入してきたソ連軍に連行され、あやうくシベリア抑留にならんとしていたときのことである。建国大学の学生だった白系ロシア人のスタブスキーがたまたまシベリア抑留の兵士として任に当たっていた。西元宗助や小糸夏次郎も連行されていたのであったが、スタブフスキーは、高齢を理由として森を釈放したのである。同じように連行された西元や小糸は寛城子の駅からシベリアに送られ、シベリアで強制労働に従事し、小糸は現地で命を落としている。
分水嶺をなすもののうち、めぐりめぐってくる偶然というものはいかんともしがたいものだが、その時どきに下した決断がいかに重大なものかということを思い知る。これら大きな分水嶺以外にも、日々日常の偶然や選択、判断や決意の積み重ねにより、人は誰しもそれぞれの人生を歩みや将来道筋が定まっていく。
わたしには、さほど大きな分水嶺ではないとしても、その積み重ねによりその人生が定まっていくということもよくわかっている。であるからこそ、森のその時どきの決断や、如何ともしがたい偶然性による大きな分水嶺に、わたしたちの生きてきた道筋を重ね合わせ、共鳴とまた時に反発の感情を持つというわけである。
2026年1月23日 記 2026年6月8日補記

附論1 『建国大学 研究期報 第二輯』(康徳8(1941)年12月)所載の森信三「神命世界史論」について
建国大学研究院は康徳5(1938)年9月発布の勅令233号「建国大学研究院令」により設置された。建国大学において高度な研究を行うことを目的として大学に併設された機関であり、『研究期報』その機関誌であった。創刊は康徳8(1941)年5月で、創刊号の巻頭には建国大学副総長で研究院長の作田荘一「発刊の辞 現代の学問に就て」が載る。森信三のこの論文は第二輯に掲載された。
その内容は、満洲国建国が、「真の全一的世界史観に立つ一個の邦国が-即ち真に神命の嚮導を内感し得る邦国が、その全生命力を傾けて世界史進行の方向を神意に叶はしむべく努力する處に成立する」というもので、満洲国自身がその建国の使命を内観し自覚し、この大いなるものの意思受けいれるべきものであると論じられた。つまるところ、満洲国建国を導くものは、日本国の「国祖」で「天祖」たる天照大神の神意によるものであり、それは宇宙を超越する絶対神であると述べる。「天照大神のご神霊が、神命として東亜永遠の和平を憶念する人々の至心に影現して、導いて此處に斯の國の創建あらしめ給へる」というわけである。満洲国の建国が、「天照大神-満洲国建国-天皇-皇帝」と一本につなげられるのである。そしてそこで欠かすことの出来ないものはは、それを実現しようとする「人間の自主的自覚的なる統一主体」であるとされる。
この論で森は建国大学については言及していないが、この「自主的自覚的主体」を確立することが、建国大学の使命であると考えたというわけであろう。森はこの満洲国の建国原理の淵源は、世界との連関に加わることとなった1854年の通商条約および明治維新を機とするという作田荘一の論を援用する。そしてこの作田の説を、「全く空前の創見といふべき」と激賞している。
森信三はこのように、天照大神から、満洲国-建国精神-建国大学-建学精神―作田荘一副総長(研究院長)という筋金を通したといってよいのではないかと思う。
2026年6月8日 記

附論2 :岡田虎二郎の静坐法と森信三の立腰運動
森信三は明治44(1911)年16歳の時に岡田虎二郎の静坐法と出会っている。家庭の事情で中学進学をあきらめざるを得なくなり、母校の給仕として働くこととなったその年のことであった。伯父が町の有志と語らって岡田虎二郎を招き静坐法の実習をしたことがあったが、森少年はこのときに虎二郎をみてその風格に圧倒され、静坐を独習することになったのである。この静坐法がのちの森の立腰運動に結びついていった。
ちなみに岡田式静坐法の要点は、1 腰をグッと立てること、2 みぞおちを落とすこと、3 下腹丹田に力を養うことの三点であるとされる(曾我了雲「岡田式静坐法」、佐保田鶴治 佐藤幸治編『静坐のすすめ』創元社 昭和42年)。森の「立腰運動」というのは、この第一の「腰をグッと立てること」である。岡田式静坐法を森信三は「腰骨を立てる」という言い方で表現しているわけである。
ところで森は、自身の思想的な「開眼」は昭和3(1928)年9月にふと目にした二宮尊徳の『二宮翁夜話』であったと書いている。そしてそのなかの「それわが教は書籍を尊まず。ゆえに天地をもって経文とす」という一語に出会い、胸にすとんと落ちたのであった。森はここで静座法について次のように書いている(「開眼への深因」『自伝』)。
生涯を学問の途に捧げたいと思いつつも、学問とはまったくゆかり(・・・)のない地方師範の一講師として、その学問生活をスタートしなければならぬという現世的重圧に対して、十五才のころからつらぬき通してきた「腰骨を立てる」という一事によって支えてきたのが、前掲の二宮尊徳の一語を契機として、ついに魂の「開眼」への点火が行われたわけである。
このように森は、少年期に出会った岡田式静坐法を「(それ以来)つらぬき通してきた」というわけであった。森のいう「背骨を立てる」ことに象徴される静坐法の「所作」、静かななれども芯の通った「生き方」「行き方」を貫き通し、尊徳の、書籍に頼らず天地自然を敬うことにより実践的に生きていくと一語により「開眼した」のである。
そしてまた伊藤証信と勉学に勤しみ、「無我愛」という平等思想についても「開眼」したという。一切の優劣観は相対的なものでしかなく、すべてみな絶対平等であるという証信の思想により「差別観の最後のかき金(・・・)」を外すことができたのだという。

森は満洲の地で静坐法を実践したか
森はこの少年時代に出会った岡田虎二郎の静坐法をずっと胸底に持ち続けたというが、そんな森は満洲の国都新京で静坐法の実践をしたのであろうか、また講習会を開いたりしたのであろうか。森は建国大学において、「哲学概論」「精神講話」「塾訓育」の科目を担当した。そしてこうした科目、とりわけ「精神講話」や「塾訓育」の科目では、静坐や立腰について触れたり実習をしたりしてもおかしくないようにわたしには思われるのだが、管見の限りでは森が教授を務めた建国大学において、また国都新京においてプライベイトでも、静坐法の講習会を開催した記事は見あたらない。新京の地での静坐法の実践活動についてはまことに興味を惹かれるところなのだが、いまのところ不明である。後で述べるように森にとっては、「国民教育」としての静坐・立腰に意識が向いており、「大学教育」での静坐や立腰には思いが至らなかったということであろう。
なお満洲での静坐法については、大正9年に渡満し旅順工科学堂(のちの旅順工科大学)の教授を務めた橋本五作が大連・旅順で静坐法の講習会を開催していた。だがそれは森の渡満よりもずいぶん以前のことである。この橋本五作の満洲での岡田式静坐法の実践については「橋本五作」の項で書いたのでここでは繰り返さない。

半田市の立腰教育をめぐって
森信三は1992(平成4)年11月21日に亡くなった。96歳であった。神戸で行なわれた追悼集会に半田市長竹内弘が参加したが、竹内は森の事績を知り、半田市出身の童話作家新美南吉に続く郷土の名士として森信三を取り上げようと考えた。そして平成6(1994)年4月から、市立幼稚園や市立小学校に森の立腰教育を取り入れた。そして6月13日には森を半田市の名誉市民に選んだのであった。この森の立腰を公教育に導入しようとする動きに対して反対運動が沸き上がる。ここではそのことを取り上げ、森の立腰教育と反対運動、そして国民教育としての立腰運動について少し考えてみたい。
先述のように森の立腰教育は青年時代に出会った岡田虎二郎の静坐法を基本としている。ただ森の場合、腰を立てる正しい姿勢(立腰)に加えて、あいさつ・返事・履物をそろえるといった、いわばしつけの実践教育へと向かっていった。こうした森の立腰教育を半田市長および教育長が教育現場に導入しようとし推進したのである(『朝日新聞』1996年7月3日)。
ところが森の著作に、立腰教育を述べるにあたって、男女教育の弊害、亡国の兆しは女性に始まる、男性は個性を発揮するように作られ女性は個性を生みはぐくむのがその分担である、女子は両足をすき間なく合わせて坐るべきといった、男女両性が不平等で、なかには「女性蔑視」の文言があることを問題視した知多地方教職員労働組合は、こうした森の論述が教育現場では不都合であるとして、平成8(1996)年4月立腰教育と森信三顕彰会の中止を訴えた。市教育委員会は、森の論述は両性の分担を述べたにすぎず、森は戦後に自分の封建的な考えを反省している、この指摘は言葉尻をとらえたものであると取り合わなかった(「立腰教育は女性べっ視」『朝日新聞』 1996年4月5日)。
この経過を新聞記事でもう少し追ってみる。両者は4月26日に話し合った。組合側は、森の著作の趣旨が、民主主義や憲法や教育基本法の理念に違反すると主張した。一方の市側は、立腰教育を強制することはしない、森の論が女性蔑視というのは名誉の棄損であり、8月の半田市主催の森信三顕彰全国大会は予定通り開催すると反論し、話し合いは平行線に終わった(「立腰教育「強制せず」」『朝日新聞』 1996年4月27日)。
こうした市側の反論に対して知多地方教職員労働組合は、5月13日森の思想が女性差別でないと主張するのであればその論拠を示すべきであるとし、男性は個性を発揮するように作られ、女性はそれを生みはぐくむのがその分担であるといった『女人開眼抄』(森信三著 寺田清一編 2001年7月 不尽叢書)の文章など14項目を例示して公開質問状を突き付けた(「立腰教育説いた故森氏の思想「女性差別」と質問状」『朝日新聞』 1996年5月14日)。
6月1日、組合側は日本福祉大学垣内國光助教授を会長に戴いて「森信三の思想と立腰教育を考える会」を発足させ、市側が推進する立腰教育に反対する立場を明確にした(「半田市教委推進 立腰教育反対 考える会発足」『朝日新聞』 1996年6月1日)。
市教育委員会では6月4日、「森信三の立腰教育・男女観への批判に対する基本的な考え」と題した文書を配布して記者会見をおこなった。文書では、森の見解が女性べっ視であるという批判は「的外れで誤解である」とし、①腰を立てるというのは自然な姿勢を意味している、②教育委員会は各校に強制しているわけではない、③森氏の男女観は両性の役割を厳格に見つめたものだ、④顕彰事業は自信を持って進める、と反論した。18日にも両者の話し合いがもたれたが議論は平行線に終わっている(「立腰教育批判 的外れで誤解」「市長と教組 議論平行線」『朝日新聞』1996年6月5日、18日)。
8日になり「森信三の思想と立腰教育を考える会」は、氏の推進する立腰教育および8月の森信三顕彰記念大会を中止すべきであると改めて申し入れた。「考える会」の実勢は知多の教員を中心に、本山政雄元名古屋市長や安川寿之輔名古屋大学教授ら約110名であった。「考える会」の見解は、①森信三は戦争奨励と忠君愛国を説いたのに市教委側はこのことと無縁であるかの冊子を配布している、②森の「教育の荒廃の原因は民主主義にある」というような思想は問題である、③男子優先・女子従属の思想をもとにし、方法のみを取り出して立腰教育論じている、といったものであった(半田の森信三氏顕彰行事 「考える会」 市教委に中止を要請」『朝日新聞』1996年7月9日)。
7月27日には「考える会」は安川寿之助を招き講演会を開催した。安川は、「森氏が男女役割分担論を『宇宙の大法』などと主張するのは時代錯誤」と述べ「戦争に協力した教育学者たちが、戦後も反省しなかったことが、こういう考えを生んだ」と批判、そのうえで、会としては、森氏顕彰の集会を公費で開くことに反対するとのアピールを採択している(「森氏顕彰大会に公費の支出反対」『朝日新聞』1996年7月28日)。
こうした対立を受けて「考える会」と市側は7月29日話し合いを行なっている。市側は1993年に発行した森氏顕彰パンフレット「実践の道」に、森が「侵略戦争や天皇賛美と無縁の人のように書いている」ことに対し、戦争中に森が書いた『修身教授録』には明らかに戦争を賛美し皇民教育を推進する記述があることを指摘した。市側は「記述に誤りがあった。書き換える」と回答している(「森信三氏顕彰冊子 誤りを認め訂正へ 半田市教委市民団体に約束」『朝日新聞』1996年7月30日)。そして「考える会」はあらためて、教委が誤りを認めた以上は、①森が軍国主義教育を行なったことを市民に知らせるべきであること、②市が関与して作成した冊子やビデオを訂正すること、③森氏生誕記念大会の参加者に訂正の文書を配ること、と申し入れた(「森信三氏について「冊子など訂正を 考える会、半田市に」『朝日新聞』1996年8月3日)。
こうして紛糾した半田市の立腰教育および生誕100年の顕彰大会であったが、8月9日に第一日目、10日には二日目の行事として、立腰教育・読書会など5つの分科会が持たれ開催された。立腰教育の分科会では地元の冨家幼稚園や乙川小学校での「腰骨を立てるしつけ教育」の成果が報告された。こうした報告に対し会場から「子どもの全体性を無視した押し付けではないか」といった疑義が出されたが、これに対して、「子らの発展段階を考えれば基礎をしっかり教えることが必要だ」との応答がなされている「森氏生誕100年大会 五つの分科会開く 半田で質疑応答も」『朝日新聞』1996年8月11日)。
これらの、立腰教育には1920万円、顕彰大会には1551万円の半田市の公費が支出されたことに対して半田市の共産党議員団は、「封建的・男女差別的な森氏の思想を普及しようとするのは、民主主義に反する」として住民監査請求をおこなった(「立腰教育めぐり住民監査請求 半田市共産議員団」『朝日新聞』1996年8月16日 )。

あらためて森信三の立腰教育をめぐって
森は昭和12(1937)年に天王寺師範の教員の時代に専攻科で倫理・哲学の講義を担当し、あわせて本科一部生の修養科の講義も担当したのだが、『修身教授録』はその時に作成された講義録であった。この講義録の一端が芦田恵之助の目に触れて、『同志同行』誌に掲載、昭和15年に全5巻本として刊行されたものである。
これは平成元年に復刊されているが、基本的には戦前期の森の論述である。その13講「使命の道」のなかで、「国民一人びとりが、深く自分の属する国家民族の使命を自覚して、自分の個人的な使命を、常に国家民族の大使命に対して、独自の角度からこれを分担することができたならば、その時個人も十分に生き、国家もまた真に生きる大道は開かれるわけであります」と述べられてある。森が「明らかに戦争を賛美」したかどうかは別にして、「国家民族の大使命」たる時の国民教育を推進したというのは確かなことである。そしてそれが満洲国建国大学の五族協和の思想にもつながり、満洲国崩壊後の建国大学閉学宣言にみられ、閉学しても建国大学の建学精神を堅持すべきといった論につながったわけである(『修身教授録[正]』致知出版社1989)。森が満洲国の建国精神をどのように考えていたかということは、先に述べた、森信三が康徳8(1941)年12月に『建国大学 研究期報 第二輯』に書いた「神命世界史論」を読めば明確である。
ただこの「神命世界史論」も『修身教授録』も戦前期の論述である。『修身教授録』については、解題を附すことなくそのまま復刊しているようだが、それはその思想内容を戦後も踏襲しているとみられても仕方ないところではあるだろう。またそれに知らぬ振りして立腰教育を全市に導入しようとした教育委員会側は批判されてもいたしかたあるまい。

「国民教育」として
ただわたしが立腰教育に向かう森信三の姿勢に違和感を持つのは、こうした市民の会の立場からではない。それは森が生涯手放さなかった「国民教育」への強い志向のうちにある。
森は「腰骨を立てる教育」を収載した『森信三全集 第7巻』(実践社 昭和40年)の解説で、「民族がその危機に際会」すると、「叡智」が政治的に展開する場合は、「いわゆる権力とむすんで組織を介して、現実的行動を始めることとなる」とし、一方「教育として発動する場合は、何よりもまず幼若未成の魂にたいする「愛」の生命的包摂として、自らを示現するといってよい」と述べている。
半田市が、森信三を名誉市民に選んで半田市の活性化を図り、「背骨を立てる教育」を全市の小学校への導入に動くということは、この森が「解説」したうちの前者、つまり「組織を介して現実的行動を始める」運動にあたることになるのではないか。半田市の意図に悪意がないとしても、である。またこのの半田市の取り組みは森が亡くなった後のことだから、それは森の責ではない。半田市教育委員会が「政治的に展開」した行動であった。
わたしがここで考えてみたいと思うのは、森のいう「教育」への発動が、「幼若未成の魂にたいする「愛」の生命的包摂」と述べている点である。これは教育が先験的に美化されているのではないか。美化というのは言い過ぎにしても、教育への発動については何のうたがいもなく無前提的に肯定されているという点である。
わたしは以前に「弥吉光長」の項で、満洲国立奉天図書館長だった弥吉が、新京で終戦を迎えた時のことを書いた。弥吉は8月15日、奉天図書館の職員一同とともに天皇の「重大放送」を聞いたのだが、それを聴き終わったあと次のように館員へ話している。日本は敗れた、私は今から館長ではない。その図書館は諸君が自分たちの力で護らねばならない。日本人が清朝の文化財を護り続けたように、諸君はこの文化の至宝を、次の館長が来るまで完全に守らねばならない、と。
弥吉のこのまことに正しく見える見解に、わたしは何かどこか違和感を持ち、ずっとその違和について考えてきた。そして弥吉に対して、満洲国立奉天図書館長として活動したのは文化侵略ではないのかといった、いわば十把一絡げ(そうからげ)の批判ではなく、個々の属性に即した論を展開したいと願ってきた。そしてわたしは、弥吉の認識は、資料・文物について、その存在がニュートラルなものであり、それを保全・保存することを疑いなく先験的に正しいと認識している点にあるのではないかと考えてみた。つまり弥吉は、資料・文物の保存・保全について、ニュートラルないわば「凹凸のない寸胴の円筒形」のようなものと考えていたのではないか。そして日本が戦争に負けたとたんに、それを伝って裏側に回り込んでいるのではないかと考えてみたのであった。
わたしは森信三の「教育」また「国民教育」、そして「立腰教育」についても、この弥吉の資料文物に対する認識と類似のものを感じる。森が天王寺師範の教員だった時に物した『修身教授録』がそのまま戦後にも刊行されているということも、この「教育」「国民教育」に対し無前提に信頼を寄せる森の思想的立場所以のことであった気がする。戦前から戦後への大きな変動を、森は「凹凸のない寸胴の円筒形」伝って裏側に回り込んだのではないかと思うのである。

『女人開眼抄』の男女観
以下に記す点は半田市の市民の会も批判していることだが、森が『女人開眼抄』のなかで書いていることを改めて確認しておきたい。森はこのようなことを書いている。女性が乗り物などで腰を掛けるとき膝がしらから足のくるぶしにかけて両脚をぴたりとそろえて割りばしのように座るべきであること、また男性は世間に出て知と意志を十全に働かせ妻子を養うために物資を手に入れる任務があり、一方の女性は心情典型的属性であって、子どもを生み哺くみ育てて教育するのがその任務であること、さらに女性は自分の特徴や個性を発揮することよりも男性が後顧の憂いなく仕事に打ち込むように子女を健全に育成する任務を立派に果たすことが肝要と述べる。そして男性の頼もしさとは責任感を強く持ち優れた知性を働かせることであり、女性の特質はといえば素直さと優しさにある、とまで明言しているのである。
これは先の「教育」の「回り込み」以前の問題である。刊行された昭和53(1978)年といえばわが国でも女性解放運動が盛んに展開された時期でもあった。森が当時のいわゆるリブの運動に反発を感じていたのであろうとは想像できるところだが、それにしても、女性の権利や男女の機会均等といった、ある意味での戦後運動の到達点ともいうべき地点の認識は不可避であろうかと思う。本書の「あとがき」を書いている寺田一清によれば、これは昭和53(1978)年に「不尽叢書」の第三集『女人開眼抄』として刊行され、それを平成24(2012)年に再刊したものであるという。つまりこうした森の論を是として刊行しており、さらに本書をテキストとして「女性による女性のための読書会」が東京・大阪で開催されており他の地域でもこうした読書会の開講を期待するしていると書いている。
こうした森の考えを見てみると、そしてまたその再刊の事情などを考え合せてみると、森は、戦前に書かれた国民教育に対する姿勢や思想と、戦後のそれに対するそれとはあまり大きな変化はないように見えてしまう。

むすび―岡田虎二郎の静坐法と森信三の立腰教育
すでに述べたように森は少年時代に岡田虎二郎の静坐法と出会っている。この岡田静坐法はあくまでも個人に向かうものであった。各地で静坐会が開催されて岡田はその指導のために全国を飛び歩いたが、それはいずれにしても個人に向かうものであった。一方の森の立腰教育は、その実践はもちろん個々の児童にたいするのものではあるが、その向かうところは「国民教育」として、学校また学級つまり「公教育」として実践であったといえる。
ここでわたしは森の立腰運動自体を批判しようとしているわけではない。ただわたしは、岡田のこれら立腰教育が「ある正しさ」を持って公教育に適用されるというその構造について、いささか違和感を持つのである。そこには、教育が「幼若未成の魂にたいする「愛」の生命的包摂として、自らを示現」するという森の思想に裏打ちされている。
一方の岡田虎二郎は静坐について、「無為の国に静坐せよ」といい、また参集したひとたちには、「ともかく坐ってごらんなさい」と語りかけた。「静坐無為国」については、『岡田虎二郎語録』(静坐社 昭和12年)に、「あえて求むることなかれ。無為の国に静坐せよ。坐するに、方三尺のところあらば、天地の春はこの内にみなぎり、人生の力と悦楽とはこの中に生ずる。静坐は真に大安楽である」と書かれてある。知や欲に捉われずただただ作為なく自然な状態で坐るということなのであろう。
岡田の静坐はもちろん成人が対象であり、森の立腰教育とは同列には論じられないであろう。ただ岡田虎二郎の静坐に深くこころを打たれた森は、これを教育に応用しようと考えている。そして森の教育観をもって教育に適用しようとするのである。このことで何か森を批判しようというわけではないが、森が青年期に心打たれた岡田虎二郎静坐法の神髄は、「無為の国に静坐する」というものであったということを確認しておきたいのである。
建国大学の教員であった森信三は、高齢という理由もあって新京駅からシベリア送りになることを免れた。元建大生のロシア人通訳により救われたのである。一方、森が建国大学に呼び寄せ、戦後には職業上では不遇であった森を京都府立大学へ招聘しようとした建国大学同僚の西元宗助は終戦時シベリア抑留となり収容所での生活を体験した。
収容所で西元は、おなじくシベリア抑留に遭っていた詩人の石原吉郎から、収容所での「歎異抄」の講話を頼まれ、西元は記憶に頼りながら、石原ら数人を相手に「歎異抄」の講義をおこなった。俘虜の身であった西元の身には親鸞の教えは心に染みわたったという。西元はこの俘虜という過酷な体験のあいだに、しかと握りしめて離さぬものを手にしたと思う。西元個人の内省の結果であった。はたして森信三の場合はいかがであっただろうか。このことをもう少し考えてみたいと思っている。
2026年4月25日 記 2026年6月8日補記