ブログ・エッセイ


『月刊撫順』『月刊満洲』執筆者(続き)、26 稲川朝二郎 、27 長島宣隆、 28 森田近 、29 庄司鄭吉(通惟、本名山名正二)、 30 山岸音

月刊満洲執筆者たち
26 稲川浅二郎
稲川は『月刊満洲』昭和12年3月号に「満人教育の先駆車(ママ) 熊田 小林両先生」を稲川朝二路の筆名で、また『月刊満洲』康德10(昭和18)年2月号には「民謡に見る支那の女」を書いている。
稲川は『南満教育』昭和3年2月号に「支那町看板のぞき記」を執筆するが、ここに出る勤務先は長春公学堂である。公学堂は満鉄附属地の中国人教育施設で、初等科・高等科などからなる。『満蒙』に連載した満洲の民謡の記事をまとめて『滿洲民謠曲譜』を昭和5年、中日文化協会から出版しているが、その書評が『書香 14』(昭和5年5月号)に載る。この著者紹介では、稲川のことを、四平街公学堂長で支那人教育に従事してきた人物、南満教育会教科書編集部唱歌科委員として満洲音楽教育に尽くしてきたとある。
城島舟禮は、満文(中国語文)総合雑誌『明明満洲』を昭和12年3月に創刊したとき、この稲川浅二郎を主幹兼編輯長として据えている(城島舟禮「身邊雜記」昭和12年2月)。

27 長島宣隆
『月刊満洲』昭和12年3月号に「鉄道愛護村一家一人動員演習」を書いている。
長島は『協和 満鐵社員會機關誌』(昭和14年3月)に「東辺道に拾う」を書いているがその勤務先は吉林鉄道局である。『新京図書館月報』にも康徳9(1942)年11月号に「清末の官員録」、康徳10年3月号に「二つの清末文献」を書いているが、肩書はともに満鉄鉄道総局弘報課である。

28 森田近
『月刊撫順』昭和7年8月号の「醫事白問黑答」に耳鼻科醫長醫學博士の肩書で書く。また『月刊満洲』昭和12年3月号に「病気の正體」も書いており、ほかにも記事をいくつか執筆している。
森田は『満洲医学雑誌 9(6)』(昭和3年12月)に「唾液分泌ニ關スル知見補遺凝集素ノ唾液內移行ニ就テ」を寄稿するが、そこには九州帝国大学医学部細菌学教室・耳鼻咽喉科教室、また『九大医報 4(4)』(昭和5年8月)の「御尋ネニ代ヘテ」には満鉄撫順病院とある。森田は九州帝大の出身で、城島舟禮とは撫順での知己ということになろう。

29 庄司鄭吉(通惟、本名山名正二)
山名は昭和11年1月に「本社懸賞當選歌 大國民の歌」を、昭和12年8月に「敵を前にして花を育てる」など多くの記事『月刊満洲』に寄稿する常連執筆者である。庄司鄭吉の名前で月刊満洲社から 『何とかスキーの娘』(昭和14年)、月刊満洲社東京出版部から『日露戦争秘史・満洲義軍』(一九四二年)を出版している。また城島舟禮追悼号となった康德11年6月には「人間城島さん」を書いている。
『研究要報 第6輯』(南満洲鉄道教育研究所編刊 昭和10年)には、奉天中學校教諭の肩書で「中學校數學教育論」を書いている。

30 山越音
昭和11年4月などに「川柳漫画」、昭和12年4月号の表紙絵などを描いている。
山越は画家で満洲郷土色研究会の会員。昭12年に『苦力素描』(満洲郷土色研究会編刊)が出るがここに「娯楽」と題して絵と簡単な解説を書いている。この本には、甲斐巳八郞・古川賢一郞・須知善一・福富菁生・中島荒登・內田俊治・國井眞・赤羽末吉も寄稿している。巻頭に満洲郷土色研究会の会員名が載るが、市丸久はここに原稿を寄せていない。編集発行人は須知善一である。居住地は赤羽が新京、古川が哈爾浜のほかはみな大連で山越は大連市駿河町19川江ビルとある。駿河町は大広場から逓信局と朝鮮銀行を西に入って南側の繁華な地域である。
戦後になるが、昭和23年刊行の土師清二『随筆 釣道楽』(自由出版)の装釘および挿絵を描いている。