ブログ・エッセイ


23 名嘉地用明、24 村岡楽童、25 眞殿星麿(天野光太郎)『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち

23 名嘉地用明(なかち ようめい)
名嘉地用明は『月刊満洲』昭和6年7月に「ナンセンス一問一答」、昭和12年1月号に「航空五千粁の思ひ出」を書いている。
名嘉地は明治31(1898)年石垣市字石垣に父の用備、母ナヒマの長男として生まれた。下に弟と妹三人がいた。小学校高等科を首席で卒業し沖縄師範学校に進む。読谷村の渡慶次尋常高等小学校の教員となったが用明はここで猛勉強をして佐賀高等学校理科甲類の入学を果たした。下宿は佐賀市の本行寺であった。この用明の学資を賄うために名嘉地の家族は懸命に働く。そして大正14年佐賀高校を卒業して東京帝大工学部応用化学科に進んだ。在学中に、高校時代佐賀で下宿をしていた本行寺住職の子女松野鶴千代と結婚している。
昭和3年に東京帝大を卒業した用明は教授に勧められて満鉄に入社、撫順炭坑の製油工場の技術者として働き始めた。撫順炭坑に製油工場が建設され研究所が創設されると、研究所でオイルシェールの研究に励む。昭和7年の平頂山事件も撫順の地で体験している。用明は、はじめ弥生町、のちに南台町に住んだ。昭和8年には一年間アメリカに留学もしている。その後、炭鉱化学工業所長、製油工場副長、東製油工場建設事務所副長、昭和15年9月現在では撫順炭礦西製油工場副長、さらに昭和18年9月には満鉄参事、東製油工場建設事務所長となった。
『月刊撫順』『月刊満洲』の城島舟禮とは撫順炭坑での関係であろう。論文に「商品的見地からする頁岩分解揮發油の各種試験報告類」『炭の光,』第232號附録 1940年8月 などがある。頁岩(けつがん)は英語でシェール、化学処理をしてオイルシェールガスにする。
用明は野球やゴルフも楽しみ絵も描いた。また娘千鶴子の話では用明は作家をも志し、筆名は中路明であったという。大正15年に岩崎卓爾が結成した文学・美術関係のセブン社の同人でもあったというから、学芸・芸術関係にも造詣が深かったのであろう。
戦後は子ども3人が先に引き揚げ、妻
鶴千代と長女、まだ幼かった下の子と5人で撫順に留まった。撫順の家は接収されたが裁判官が住むことになり、ドイツ語や英語で会話もできて比較的平穏に過ごした。用明は、ソ連軍・国民軍・八路軍と目まぐるしく変遷していく進駐軍と折衝しまた工場の再建にも関与し、過労により肺炎となって昭和23年2月13日49歳でその生涯を終えた。墓所は佐賀の本行寺にある(大田静男「八重山人物伝 名嘉地用明」『月刊やいま 2018年3月号』の要を得た伝記を参考にして書いた)。

24 村岡楽童
村岡楽童は『月刊満洲』昭和12年1月号に「僕の遺言」を書いている。
村岡は榛葉英治の自伝的小説『満州国崩壊の日 上・下』(評伝社1982年、1984年)では「村野楽堂」の名前で登場する。村岡は榛葉の母の異母弟である。榛葉は大連で著名な音楽家であった叔父「村野楽堂」(村岡楽童)を頼って大連に渡ったと書いている。
村岡のことについては榛葉英治の項で書いた(2023年2月23日投稿)が、ここでも少し書いておく。
村岡は函館の出身、明治14年の生まれ。本名は祥太郎である。青山学院普通科2年から上野音楽学校に転じチェロ科を専修、中退。名古屋の鈴木バイオリン製造所・名古屋県立女学校・淑徳女学校・名古屋裁縫女学校などの音楽教師を経て、明治40年、エール大学出身の渡邊龍聖の推薦で天津の直隷省立音楽学校の総教習に就任。大正3年研究のためオデッサ―へ向かう途上第一次世界大戦が勃発したため断念して満洲に入いり関東庁学務課嘱託。大正4年12月大連ヤマトホテルに村岡管弦楽隊を組織、大正8年満鉄ヤマトホテルの専属となる。その後は大連高等音楽院・第一中学・羽衣女学院で教鞭をとり、山田耕筰主宰の日本交響楽協会大連支部長を務めた。童謡の作曲また満洲国国歌の制作にも関与した(『満洲芸術団の人々』)。
満洲国国歌は昭和7年に国務総理鄭孝胥の作詞で山田耕筰が作曲したがこれはあまり広まらず、もう一曲、昭和8年に高津敏・園山民平・村岡楽童の合作で作曲されたある。
村岡祥太郎の名前で西卷透三『劇場音樂に就て 洋樂熟語解説 (放送參考資料 卷6)』(滿洲電信電話 1936年)の第二部に「洋楽熟語解説」などの講述を行なう。また楽童の名前で『満蒙』『新天地』に執筆をしている。

楽曲は、『唱歌教科書 教師用(三)』(共益商社楽器店編刊 明治35・40年)に村岡の作曲した「人形」が載る。作詞者は不詳である。
1 粗末にすなと、母上の、
 おほせ給ひし、此人形、
 着物をきせて、帯しめて、
 箱の御殿に、すわらせん。
2 着物はみどり、帯は赤、
 模様は松に、こぼれ梅、
 泣くなよ泣くな、お休みの、
 日には花見に、つれ行かん。
3 あばれるねずみ、じゃれる猫、
 人形の家を、破るなよ、
 学校すみて、帰るまで、
 待てや我身を、おとなしく
亡くなったのは昭和15年、墓所は多摩霊園の7区1種9側20番。

25 眞殿星麿(天野光太郎)
天野光太郎がペンネームで、ペンネームのような眞殿星麿が本名である。新京公会堂の主事。ここではいちいち上げないが『月刊撫順』『月刊満洲』の誌面には真殿星麿と天野光太郎のふたつの名前で頻繁に登場する。北村謙次郎『長篇随筆 北村北辺慕情記』の「七章 高梁社―第一期新京文化人―「セダン満州」―古長敏明―真殿星麿―城島舟礼と同英一」によれば、終戦後に郷里の奈良で奈良新聞を経営したが病没したとあるが、昭和21年10月に『大和タイムス』のちの『奈良新聞』を創刊したのは今西丈司であり、奈良新聞の年史にも眞殿星麿の名前は見当たらない。
昭和14年9月に月刊満洲社から『苺にくさる』、昭和19年には眞殿星磨の名前で『禁酒日を破る』を出版している。