ブログ・エッセイ


目黒寄生虫博物館、山口玄洞、山口左仲、山口幾子、亀谷了、亀谷俊也、サナダムシ、京都大学理学部寄生虫学特別研究室(別館)

目黒寄生虫博物館訪問
8月25日午後、目黒の寄生虫博物館に出かけた。ほかの用事もあって東京に出ることになったので、一度覗いてみたかったこの博物館に行くことができたわけだ。奥方と同道二人だったのだが、彼女は寄生虫博物館には行かないと言って、近くの目黒美術館の中村直人の美術展に向かった。
目黒寄生虫博物館は、昭和28年に医学博士の亀谷了が設立した研究機関で、今では一階・二階が展示室になっている。ここに、わたしがいま伝記を書いている山口玄洞の娘幾子(養女)の婿になった山口左仲の標本や資料が多く寄贈されていることから、今回「創設70周年記念特別展 亀谷了と亀谷俊也が遺したもの・こと」を観に行こうと思ったのだった。
博物館は一階と二階、部屋はけっこう狭い。すいているだろうと思って出向いたのだったが、それがなんと、多くの人が来場してにぎわっている。研究者風の人、何人かで訪れた壮年・老人グループ、研究員とであろうか何か熱心に話をしている人、そして驚いたのは小学生ぐらいの子も多かったことだ。なかには、サナダムシがプリントされたTシャツを買おうとしている母子、「これがいいわね」と熱心に選んでいる。
当初の予想を裏切られてわたしはとてもうれしくて仕方なかった。なぜかと言うと、こんなマイナーな(失礼か)分野の、それも決して大きくはない博物館を訪れる人、子どもたちがこんなにいると思うだけで、わたしのように光のあまり当たらない領域のことを勉強し書いて出版している者は、強く励まされる気分になったからだ。わたしもがんばろう。
ところで、山口左仲がなぜこの博物館に標本や資料を寄贈したかというと、戦後ハワイ大学の客員教授として赴いたときに、亀谷俊也(第二代館長)が助手として同行した、そんな縁によっている。この亀谷俊也も、また左仲夫人の幾子も、魚の寄生虫収集や作画などを手伝ったという。牧野富太郎の植物標本がではないが、こうした分野の研究にとって、作画がいかに重要なものかということがよく知れて興味深かった。

山口左仲のこと
左仲の生涯もなかなか興味深い。左仲は明治27年長野県南佐久郡小海村の生まれ。造り酒屋の五男である。大正7年に岡山医学専門学校を卒業するも医者にならず東京帝大医学部の病理学教室で研究を続ける。幾子と結婚してすぐにヨーロッパに遊学、義父の玄洞からは、病理学研究施設を寄附しようと言われていて、そんな施設も見て回った。
ドイツでのことだが、ハンブルク熱帯病研究所で三か月間の寄生虫講習会があると聞き出席しよう赴いたが参加者が三人しかおらず予定の講習会は中止となった。困惑しているところをフューレボルン教授が、参加希望のアメリカおよび中国の研究者と左仲の三人のために一か月間の講習会を開いてくれることとなった。その講習を受けて左仲は寄生虫学研究の意志を定めたという。なんとも偶然のなせる業である。
帰国後は寄生虫の研究のためには動物学の研究が必要不可欠と考え、京都帝大理学部の動物学教室に入った。昭和2年に講師となる。
京都帝国大学動物学教室に籍を置き、左仲は全国を回って魚や鳥・獣の寄生虫を精力的に収集した。この収集には時に幾子夫人も同道して手伝った。左仲は全国の魚市場に出かけ、セリのまえに必要な魚を取っておいてもらってそれを解剖、寄生虫を取り出して調べたという。
昭和18年海軍の技師としてセレベス島マカッサル日本海軍熱帯衛生研究所に赴任した。戦争が激化し、セレベスの宿舎が襲撃された折にはちょうどスマトラに出張中で難を逃れた。また終戦後の引き揚げ時にシンガポールで飛行機を乗り換えたが、そこまで乗っていた飛行機がそのあと行方不明になるなど、危ういところで命拾いをして、ようやく帰国している。
戦後は進駐軍の第207部隊マラリア調査部で蚊の研究に従事した。左仲の回想では、当初進駐軍は、上陸にあたってマラリアをおそれて研究部隊を作ったところ、進駐してみてマラリアの恐れがないことがわかり部隊を縮小した。残った部隊が京都207部隊でそれは当初京都大学の楽友会館にあった。左仲は隊長のラカスに会い、何か手伝えることがないかと申し出た。すると、「蚊の知識はあるか」と問われ、「蚊のことは知らないが勉強したらできる」と答えて207部隊で研究することとなった。
このころ左仲は京都大学理学部の非常勤講師をしていて、山口家が寄贈した研究棟に研究室を持っていた。当時の理学部生物研究棟は、本館とその北側の特別研究棟とふたつあり、山口家の寄附金で建造されたのは特別研究棟の方である。ここで左仲は研究をしていたのであった。昭和25年になり岡山大学から寄生虫の研究室をつくるということで招聘される。蚊の研究も持続できる兼任という条件で教授となった。
昭和34年に定年を迎える。そして翌35年にはアメリカ農務省農事研究所に留学、昭和37年からハワイ大学・テュレーン大学の客員教授などを歴任し、12年間のアメリカでの研究生活を終えて昭和51年に帰国した。この時に亀谷俊也が助手としてハワイ大学に同行したというわけだ。
左仲はアメリカでの12年間の研究生活を終えて昭和44年に帰国した。帰国5年後の昭和50年10月26日、全国から約30名が参加して、京都の栖賢寺で「山口左仲博士を囲む会」が開かれている。この栖賢寺は、山口仏教会館館長を務めた宮英宗禅師のために玄洞が多額の寄附をして建立した寺である。
左仲は昭和51年3月11日京都で亡くなっている。戒名は無量院誓学玄道居士。ちなみに左仲はある講演のさいごに、自分は山口家に養子で入ったことから生活の事を気にせず研究が持続できたこと、また費用のことを気にせず自費でも出版物を刊行することができたことがありがたかったと振り返っている。そんなこともあって、先の「囲む会」なども玄洞の寄進した寺院が使われているのであった。

京都大学理学部の寄生虫学特別研究室(別館)
左仲が研究していた京都大学理学部の寄生虫学特別研究室(別館) 鉄筋2階建ては、昭和9年に山口家の寄附で建てられた。京都大学の年史では左仲の寄贈とあるが、もちろん玄洞の私財である。ただ名目上は左仲の寄附であったことから、玄洞の寄附一覧には出てこない。当時の動物学専攻の建物は、この特別研究棟と昭和11年に改築された鉄筋3階建て動物学・植物学教室であった。
これらの施設は長年にわたって活用されてきたのだが、建物の老朽化および構成員の増加もあって建て替えられた。平成 6 年の竣工、理学 2 号館というそうで、動物学・植物学教室もこの新しい建物に移っている。このあたりはよくウロウロし、北部の食堂も利用したから、取り壊し前の寄生虫学特別研究室も存在して目にしていたはずなのだが、まったく覚えていない。仕方のないことだが残念である。この建物は京都大学百年史の理学部の項に写真が載っていた。 2023年8月30日 記