ブログ・エッセイ


成就寺、藤井修之輔、墓碑、佛通寺、神戸市立中央図書館、アカシヤ会、河東碧梧桐、城島舟禮、『三昧句帖』、『娘々廟』

先日の岩城島巡覧で、幼少期の山口玄洞が学んだ漢学塾知新館の塾頭藤井修之輔の顕彰碑「師道顕揚之碑」を見ることができた。ここには藤井の事績が紹介されており、若くして亡くなったこと、三原の成就寺に祀られたことなどが記されてあった。そんなことから、この藤井の墓所のある成就寺を是非とも訪れたいと考えていた。
三原にはもうひとつ行ってみたいお寺がある。玄洞が多宝塔や禅堂などを寄進した佛通寺だ。こちらは以前から行きたいと願っていたのだが、寺に行くには交通の便が悪い。紅葉の季節には臨時バスが出てにぎわうとのことだが、平時はバスの便がないと聞いていた。ところが少し調べてみると、「一日一往復半」だがバスの便があることがわかった。そんなことから、このバスを狙って今回出かけることにしたのだった。この「一日一往復半のバスの便」についてはあとで述べる。
酷暑の中だったが、いずれ冷房の新幹線とバスの乗り継ぎだし、歩く距離もあまりなかろうと考え、意を決して出かけた。
まずは成就寺だ。ジパングの切符で、さくらとこだま を乗り継いで三原に到着。成就寺は地図で見るとお城の西北の方角にある。歩き出したが、道がまっすぐではないうえに入り組んでいる。例によって迷ってしまった。途中で家の庭仕事をしていた人に尋ねた。するとご親切にも、入る道がわかりにくいから、わかるところまでついて行ってあげようと親切な申し出。
そうこうしてようやく成就寺に到着する。藤井の墓標は墓所の中だろうと考えてを探してみるがうまく見当たらない。住職さんにお尋ねしようとしたが、お出かけで留守のようだ。これはまずい、わからないままに帰ることになるとさぞかし気分が悪くなるだろうなと思案していたところ、暑い中をお墓の掃除をしているご婦人がおられる。藤井の事績を説明して墓所を尋ねてみたが、ご存じない。ただ、「ご住職さんと連絡が取れますから電話をしてあげましょう」と、親切にも家に置いてきた携帯電話を取りに帰って連絡を入れてくださった。ご住職にお尋ねしてようやく場所も判明した。お墓の中とばかり考えていたが、墓域の入り口に祀ってあった。判明してよかった。
このご婦人、なんでもお城の西でお茶屋さんをやっておられる方だそうだ。墓参の後、駅に戻る途上で確認して見たらなるほど立派なビルが建っている。以前は日本家屋で茶室も構えていたが区画整理で屋敷など収用されたとか。日本家屋と茶室ならば、城下町の風情もあったであろうに、三原市ももったいないことをした。今はこのビルにカフェが併設のようだ。だがあいにく当日は日曜でお休みだった。
藤井修之輔の墓碑は分かったのだが、背面近くにブロック塀が立っていて裏の碑文が読めない。やむなく正面からの写真だけを撮影した。墓碑の表面には「文章院釋誓契守約居士」とあり、傍らの石標には、「離島教育の先覚者 藤井知堂先生の墓」とあった。岩城島の「師道顕揚之碑」の堂号はたしか「智堂」だった。
佛通寺行きのバスの出発までにはまだまだ時間があったので、藤井の事績や墓碑銘などが『三原市史』や郷土資料に載っていないかと思い、近くの三原市立図書館に行ってみた。立派な図書館だった。わたしは三原市の生まれだが、以前このあたりになにがあったかまったく記憶にない。三階の郷土資料の部屋で『三原市史』などをざっと見てみたのだが出ていない模様だ。帰宅してもう一度ゆっくり調べてみることにする。
さてつぎの行先は佛通寺である。佛通寺に行く便は、先に書いたように「1日一往復半の便」だ。わたしが乗ったのは三原駅発12時20分の本郷駅行き、細い道を登って佛通寺に12時54分に到着した。このバスは、登ってきた同じ道を途中まで戻って本郷駅に向かう。そして本郷駅から折り返して再び佛通寺まで登って、今度は三原駅に戻るというしくみだ。この便で帰るとしたら佛通寺発は13時49分発、佛通寺での滞在は55分ということになる。
もしこれを逃してしまうと、三原駅からのもう一本のバスになるのだが、この場合、佛通寺発が16時43分、本郷駅は17時08分着だ。このバスは本郷駅から折り返さない。そんなわけで三原から佛通寺に行くバスが「1日一往復半といったわけである。
もしもこの「半」のバスで本郷駅まで行ったとしても、本郷から三原までJRで戻らねばならない。三原から、こだまとさくら を乗り継ぐと帰宅が遅くなりすぎてしまう。やはり一本目の本郷駅から折り返してくるバスに乗らねばならないと決意。
急がねばならない。まずは本堂にお参りして、道の向かいの急坂を登り、開山堂、地蔵堂、それと山口玄洞が寄進した多宝塔に向かう。以前ならそんなにしんどくない階段の道も、今回はずいぶんこたえた。寄る歳には勝てない。もっと早くに訪れるべきだった。こんなことをあれこれ考えながらも息をあがらせてようやく登り切る。
この多宝塔は、 庭園史学者の外山英策が、「大阪の山口玄洞なる者、稀代の珍建築を造り、あたら山水図巻に汚点を印せし」と自著で評した建物である(『室町時代庭園史 昭和9年)。
多宝塔は平成23年1月26日付で国の登録有形文化財(建築)に登録されている。見解の違いではあるのだろう、しかしながらこの外山の「大阪の山口玄洞なるもの」という言い方には、なにか素人のくせにとか金持ち風情が何を、といった偏見や見下しが感じられていい気持ちはしない。たしかに地蔵堂の方は年月も経っていて古びた趣がある一方、多宝塔は昭和2年の建立で、今でも朱塗りがまだまだ鮮やかではある。だがそれは「建築」それ自体の評価ではない。
多宝塔および地蔵堂・開山堂をみて、苦労して登ってきた階段を降りる。『仰景帖』には、玄洞の寄進は多宝塔のほか、本堂(大方丈)の修理、庭園の聖観音立像(三安観音)、禅堂、侍者寮とあるので境内図を確認して、山側の庭に祀られた聖観音立像(三安観音)にお参りする。山すその崖を背景に美しく立っている。観音像の裏を見ると、「施主 京都市河原町 山口玄洞 政子 昭和二年十二月吉日 京都寺町 高橋才次郎鋳造」と彫られてあった。禅堂は門から入って右手にあった。侍者寮というのがよくわからず、お寺の方に聞いてみた。するとこの禅堂と庫裏とのつなぎの部分をそのように言っているということだった。
急ぎ足となったがこれで所期の建物の見聞は終わった。佛通寺前のバス停に戻る。ちょうど本郷駅から戻ってくるバスが来たところだった。往路の運転手と同じ人で、「無事見られましたか?と尋ねてくれたので、簡単に見学の様子を説明した。若い頃のわたしなら、いささかひたすら感が表出していたであろうが、歳をとって丸くなったのか、わたしからも話しかけるが相手も気さくに話しかけられるようになった。まあこれも老成というところか。
三原駅には定刻の14時29分に着いた。こだまは15時12分発だ。こだまは1時間に一本、山陽新幹線なのだがローカル線並みだ。佛通寺行きの一日一往復半のバスや、瀬戸内の汽船などの時間待ちは平気なのだが、こうした新幹線の一時間に一本というのは、なんだか割り切れない気分だ。勝手なことだがちょっと腹も立つ。だがまあ仕方ない。そう思いながら持参してきた本を読んで列車を待った。
今回の旅程は三原の成就寺、佛通寺の巡覧が目的だったが、佛通寺から三原駅に戻る一日一往復のバスの時間が早かったことや、往復ともに新幹線、というわたしにはいささか「豪華」なものだったから少し時間の余裕が出た。帰路は新神戸駅で途中下車して、大倉山にある神戸市立中央図書館に寄れそうだ。ここには、大連のアカシヤ会が刊行した『三昧句帖』を所蔵している。この『三昧句帖』に、『月刊満洲』編集者城島舟禮の俳句が載っている。八月末が締め切りの「解題」に、舟禮の俳句も載せたいと思って、時機を見て来館したいと思っていた。
当日は日曜日なので図書館の閉館は18時だ。滞在時間は1時間弱だが、まず大丈夫だろう。図書館の三階で書庫から目的の図書を出してもらって舟禮の俳句の載ってるページおよび『三昧句帖』人名録をコピーさせてもらった。
コピーをしていて気づいたのだがこの『三昧句帖』の標題紙には「和露文庫」の蔵書印がある。知らない文庫だったので本を返却するときにカウンターの司書に尋ねてみた。すると、「和露」は西村徳三郎の俳号であること、この西村の「和露文庫」が神戸市立図書館に寄贈されたこと、今はこの「和露文庫」は一般図書と混ぜて配架していること、今はこのように混配であるが、寄贈書の概要は、『神戸俳諧文庫目録』で知れること、などを教えてもらった。閉館時間が迫っていたがご親切にその目録も見せてくれた。
実はこの『三昧句帖』はアカシヤ句集の第1集で、第2集として『娘娘廟』が出されていることは西田もとつぐ『満洲俳句 須臾の光芒』で教えてもらっていた。急いで目録を探してみると、やっぱり西村はこの本も所蔵していた。しかしながらこの本は行方不明となり除籍されているらしい。それゆえOPACには出てこない。残念至極である。このアカシヤ句集1、2 はここ神戸市立図書館のほかには所蔵がない。
『神戸俳諧文庫目録』は後日ゆっくり拝見することとして、出納してもらった本をお返しした。すると別の司書が、「和露文庫」についてはここに簡単な紹介がありますよと、図書館報『KOBEの本棚 77』を教えてくださった。実に要を得た対応だ。
その館報の記事を読んでみると、西村徳三郎は神戸市の生まれで鉄材商を営みながら俳句を詠んだ。河東碧梧桐に師事し自由律俳句を読んだ、自身の句集も刊行し、また古俳書の収集にも務めた。その古俳書については天理図書に収められてあり、活字版のほうの570冊が神戸市立図書館に寄贈されたのだとある。その恩恵をもってわたしも舟禮の俳句を見つけることがができたというわけである。
よく言われることだが、図書館司書の実力は、まず自館の蔵書をどれだけ自分の手の内に入れているか、ということで測られる。そうすればおのずと、資料全般についても習熟する道が拓けるというものだ。いまどき図書館で物を尋ねても、パソコンにかじりついて離れようとせず、そのデータのみに頼ろうとする。そんな司書の多い中、今回の対応はわたしなどの旧世代のものにとっては、実に嬉しいものであった。さすが、志智嘉九郎を館長に擁した図書館だなと、ちょっと晴れやかな気持ちを持って図書館を後にすることができた。 2023年7月21日 記