ブログ・エッセイ


14 八木沼丈夫、宣撫官、『月刊撫順』、『月刊満洲』、宣撫工作、「討匪行」、金子雪斎、松崎鶴雄

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
14 八木沼丈夫―宣撫官-
八木沼丈夫は『月刊撫順』昭和7年9月に「新凉漫吟」、11月に「討匪行」、12月に「哀戀悲曲」などを書いており、『月刊撫順』初期からの執筆者である。
八木沼は明治28年福島県朝倉町の生まれ。旧制磐城中学在学中に学費が払えなくなり中退。大正2年志願兵として若松連隊に入隊、ここで石原莞爾と知り合う。八木沼も石原ともども国柱会田中智学門下の日蓮宗徒である。除隊後の大正6年に中国へ。大連の図書館にも勤めたことがあると言うが不明である(『一軍国主義者の直言』)。このころ泰東日報社長金子雪斎や漢学者で大連図書館嘱託の松崎鶴雄に教えを請うた。図書館を辞め満洲日報哈爾浜支局長、『協和』の編輯。昭和4年3月満鉄に入社、欧米留学が決まった弘報課加藤新吉の後任として情報課弘報係主任、総務部庶務課弘報係などを経て関東軍嘱託、奉天事務所・新京地方事務所勤務、鉄路総局総務処、防務課参事、警務局警務警務主任兼鉄路自警村農業修練所講師。この時期の運動を鉄路愛護村運動というようである。のち華北交通参事、警務部次長。新民会中央訓練所長。
「どこまで続くぬかるみぞ、三日二夜を食もなく」と始まる「討匪行」の作詞者としても知られる。この歌は、後年加藤登紀子も歌った。また八木沼は短歌詠みでもあり『満洲短歌』の同人で、斎藤茂吉を師と仰いだ。歌集に『長城を踰ゆ』(満洲郷土芸術協会 昭和8年)がある(『満洲紳士録 昭和15年』、中山正男『一軍国主義者の直言』鱒書房 1956年、など)。