ブログ・エッセイ


岩城島、亀山八幡宮、亀山城、ケンペル、日本誌、江戸参府、松山藩海駅本陣、岩城郷土館

岩城八幡神社、
長法寺での親切なご対応に感謝をして、港に戻った。次の船までには有り余るほどの時間があったから、港から北に10分ほどのところにある亀山城跡、以前は亀山八幡宮いまは岩城八幡神社に行ってみた。けっこう急な石段である。
ここに立てられた駒札をみると、ケンペルが江戸参府の折の紀行記『日本誌』に、岩城島および八幡神社の二つの門のことを書いてあるのだという。帰宅してからだが、とりあえず国会図書館で全文がみられる『異国叢書 第6』(駿南社 昭和3)の元禄4(1691)年2月21日の條を見てみる。すると次のように出ていた。
「左手にある岩城村に達す。凡そ八十戸あり。(中略)その近くに樹木を負ひたる高き岩礁の上に寺社ありて階段にて上るべし。岸辺に立てる相重なれる二個の門は其入口なること知るべし」と。そして本書の注釈には、岩城島には三か所の寺社があってこれは亀山八幡宮神社である、二重の門というのは、鳥居と楼門のことであろうとある。
その後の調査で、この神社の磯には9個の岩礁ピット、つまり柱を立てるときに掘られる穴があるとわかった。そのピットに、ケンペルの言う「二個の門」つまり鳥居と楼門が建っていたというわけだ。思いがけず知識もふえてうれしかった。

松山藩海駅本陣(岩城郷土館)
岩城港には売店が設けられてあった。ここにおいてあるパンフレットに、江戸時代の伊予松山藩の海駅本陣が近くに在るというので、亀山八幡神社参拝のあとに寄ってみた。入り口の案内板には、休館日は、「火曜日・祝祭日・年末年始」とある。「午前9時30分~午後4時」まで開館で、ご自由にご覧くださいとも。ところが入り口には施錠がしてあってはいれない。当日は日曜だったが祝祭日ではない。
これはいささか残念であった。先の藤井修之輔は三原藩の出身で三原の儒官になろうとして叶わず、この松山藩海駅本陣の岩城村が修之輔を受け入れたと『伊予岩城島の歴史 下』に出ており、この本陣のことがもう少し知れると思っていたからだった。やむなくむなしく港に戻り、時間があれば読もうと持参した本を読んで時間を過ごし、宿泊地の今治に向かった。