ブログ・エッセイ


岩城島、長法寺、長法寺縁起、「長法寺由来記」、山口玄洞、知新館、知新学校、知新校、「師道顕揚之碑」、上島町研修施設

長法寺
そうこうして無事に岩城島の港に着いた。船を降りて長法寺をさがす。わたしは地図を見るのは好きだがあまり上手には読めない。地図で確認して歩き出すのだが、方角に関してもいささか音痴である。ちょっと迷って、地の人に教えてもらい、なんとか長法寺に到着した。
来訪の約束もしていないので、在宅であったらお会いしようと思って「こんにちは」と訪ねる。返事がないのでお留守かと思っていたら、運よくご住職が車で帰ってこられた。
山口玄洞のことを調べています、玄洞は尾道出身で、大阪に出て事業に成功し、大正・昭和初期の時代盛んに寄附寄進をした人物です、この玄洞が学んでいた長法寺の知新校のことを知りたくて来訪しました、と用件を告げる。どうも玄洞がこの長法寺の学塾で学んだことなど、お寺ではあまり伝えられていない模様ではあった。
ともあれお上がんなさいと快く本堂に。そしてちょっとお待ちをと言われて待っていると、ルイボス茶を持ってきてくださった。濃い赤茶色のルイボス茶は健康茶、そのことは奥方がよく知っていて、体に良くて高価なお茶をとお礼を言ってくれたので助かった。
長法寺は、当寺四世髴明師の書き記した「長法寺由来記」によれば、貞和3(1347)年の藤井寺の合戦で討ち死にした佐々木六郎光綱の子の光丸が開いたお寺である。この光丸は成長して出家し、梵海徹周と名乗った。徹周は禅門に入り諸国を行脚して歩く。そしてこの岩城島にやってきたのだった。
時の城主村上修理亮(しゅりのすけ)敬吉(たかよし)の懇請でこの地に留まり、明徳3(1392)年お堂を建立して本尊阿弥陀如来、観音・勢至の三体を祀った(詳しくは「補注1」)。なお明徳3年(1392年)といえば、村上修理亮敬吉居城を構えて亀山城と称した年でもある。

「師道顕揚之碑」
長法寺でご本尊を拝観したあと、『伊予岩城島の歴史 上』に書かれてある「知新校」のこと、塾頭の藤井修之輔を顕彰した「師道顕揚之碑」のことを尋ねてみた。公民館の碑かなと言われ、車を出して下さる。寺から少し登ったすぐのところ、岩城中学校の校庭隅に石碑が見えた。これかなと確認してみると、おおこれが「師道顕揚之碑」であった。写真を撮らせてもらって、裏面の碑文も写真を撮った。帰宅した後にこの碑文を見てみると、うれしいことに山口玄洞が寄せた漢詩文も載っている(「補記2」)。玄洞の箇所だけを読み下してみる。

(前略)門人山口玄洞、建碑に以て哀慕之情を寓せる、銘に曰く
嚴教子弟 子弟向科 業餘所好 維詩維歌
中道仙去 髪未皤々 秀而不實 比之嘉禾
厳しく子弟を教え 子弟科に向かう 業餘に好む所 詩を維(つな)ぎ歌を維ぐ 道中ばにして仙去し 髩(びん)未だ皤々ならず 秀でて而して果たさず これを比するに嘉禾(かか)といわん
大正十三年十一月

ここに寄せられた玄洞の漢文には、塾頭藤井修之輔が詩歌に優れ、子弟に厳しく教えてその成果もあったこと、修之輔自身は若くして亡くなってしまったが、実りの多い子弟が育ったこと、これはまさに「嘉禾」に比えることができるというものだ、と詠まれてある。
石碑がみつかり、しかもそこには玄洞が漢詩文を寄せていることも知れて、今回岩城島までやってきた甲斐があったというものだ。

知新校の跡
石碑をみながらご住職とお話していると、日曜日なのに出勤しておられた先生が近づいてこられた。玄洞のことや「師道顕揚之碑」、また玄洞の学んだ漢学塾知新校のことなどを話したところ、知新校ならこの丘を少し上がったところにありますよ、この前も生徒と避難訓練でそこまで行きました、と話して下さる。ありがたい情報である。ご住職の車でそこまで登っていただく。
もちろんそこに昔の漢学塾知新校の学び舎が遺されてあるわけでもなく、そこに今は「体験研修施設知新館」の看板が掛かっていた。だがこの場所に藤井修之輔主宰の知新校があったのではないかと想像はできる。ご住職のお話でも、長法寺は以前には今より寺の敷地は広かったようで、その長法寺の敷地の一角に知新校が開かれたのではないかと思う。上島町の研修施設が、藤井修之輔の私塾の名称を継承して「知新館」の名前を名乗っていることもゆかしく感じる。

補注1 「長法寺由来記」
長法寺は、当寺四世髴明師の書き記した「長法寺由来記」によれば、貞和3(1347)年の藤井寺の合戦で討ち死にした佐々木六郎光綱の子光丸の創建という(『伊予岩城島の歴史 上』所収 1971年)。光丸は成長して出家し梵海徹周と称して禅門に入る。そして諸国を行脚し岩城島にもやってきた。時の城主村上修理亮(しゅりのすけ)敬吉(たかよし)の懇請でこの地に留まり、明徳3(1392)年お堂を建立し、本尊阿弥陀如来、観音・勢至の三体を祀った。長法寺の開基はこの梵海和尚である。その後天正10(1582)年の火災で焼失、それを慶長8(1603)年に用心周徳首座が再建する。これが長法寺の中興である。そののちの宝山徹至大和尚の時代に初めて法地とし、ここから住職の歴世を数えるという。もとは穂野義土居というところに所在していて三世髻峰珉端和尚の代の享保20(1735)年3月に銅山西脇地穂野義大森の段に移転、延享5(1748)年に庫裏などを修理して今の伽藍になった。本堂には天照大神および春日大明神の二尊が祀られるが、これは村上新蔵吉光が寺の鎮守として寄附したとも、村上家が当所を去るときに同家の祭神を寺に奉納したとも、また住持の物外真定和尚の代に造立とも言われている。

補注2 「師道顕揚之碑」
(表面)
師道顕揚之碑
題字 遞信大臣犬養毅閣下
(裏面)
先生姓藤井、諱守約、字浩然、通稱修之輔、號弘堂、備後三原人、夙之東京学劉門、有勤王志、明治初年来岩城、教授知新学校、知新其所命也、爲人孝謹、和以接物、厳以教子弟、是以六七年間、子弟大進、校政亦稍振、去明治十年六月十一日病没、知興不知、莫不哀悼、爲法諡文章院釋誓契守約居士、歸葬三原成就寺、門人山口玄洞、建碑以寓哀慕之情、銘曰
嚴教子弟 子弟向科 業餘所好 維詩維歌
中道仙去 髩未皤々 秀而不實 比之嘉禾
大正十三年十一月
福山 八十翁 鴨里平川参撰并書

(基部)
 発起人
  大平寺住職
釈 願誠
三浦壽之助
  世話人
    岡田貞八
    岡田光正
    津田伴治
石工黒瀬栖平

(読み下し文)
師道顕揚之碑
先生姓は藤井、諱は守約、字を浩然、通稱修之輔、號は弘堂、備後三原の人なり。夙に東京に行き劉門に学ぶ。勤王の志有り。明治初年岩城に来り知新学校に教授す、知新は其の命ずる所也。人と爲り孝謹にて和を以て物に接し、嚴を以て子弟を教え、以て六七年間、子弟大いに進み、校政亦稍やく振う。去る明治十年六月十一日病没、知に興するを知らず、哀悼せざるなし。法諡を文章院釋誓契守約居士と為し、三原成就寺に歸葬す。門人山口玄洞、建碑に以て哀慕之情を寓せる、銘に曰く
嚴教子弟 子弟向科 業餘所好 維詩維歌
中道仙去 髪未皤々 秀而果實 比之嘉禾
厳しく子弟を教え 子弟科に向かう 業餘に好む所 詩を維ぎ歌を維ぐ 道中ばにして仙去し 髩未だ皤々ならず 秀でて果たさず これを比するに嘉禾といわん
大正十三年十一月
福山 八十翁 鴨里平川参撰并書
2023年6月27日記