ブログ・エッセイ


麻生イト、三秀園、生名島、山口玄洞

麻生イトのこと
18日の日曜日から一泊で、麻生イトが晩年を過ごした別荘三秀園のある生名(いきな)島と、山口玄洞が少年時代に学んだ漢学塾知新館(知新学校、知新校)のあった岩城(いわぎ)島の長法寺を訪ねた。三原港→生名島→岩城島→今治港と、瀬戸内海を船で渡る楽しみいっぱいの旅程だ。
麻生イトは明治9年尾道市の生まれ、のちに造船の盛んな因島で造船業の下請け会社を起こして成功した。親分肌でいつも男装だったという。またイトは因島を訪問する人たちのために麻生旅館も開いたが、ここには河東碧梧桐や尾崎行雄らも訪れた。今東光の『悪名』や同名の映画、また林芙美子の作品にも登場する。
イトは、玄洞と同様に私財を投じ、因島の土生幼稚園の建設には共同で出資、島の排水施設の建設にあたっても多大な寄附をした。さらには立石山の中腹に祀られる子安観音の霊場を整備し登山道の改修を行なったりしている。
こうした麻生イトのことについて少し関連の本を読んでみようと思ったのは次のようないきさつである。玄洞は昭和4年12月に山口商店で社員を前にして講話を行なっているのだが、その内容は玄洞の夫人政子の実家である岩室家の憲六郎の速記で冊子になった。この内容はそのまま『仰景帖』に収載されたが、その冊子そのものが、現在はカフェになっている因島土生の麻生イト旧宅から見つかったそうで、その記事を『尾道新聞』で読んだからであった。
イトが玄洞と面識があったかどうかは定かでない。だがイトが晩年生名島に別荘を構えてそこで過ごしていること、教育機関への寄附や観音霊場の整備などに私財を投じて社会貢献を行なっていることなど勘案してみると、イトが玄洞の考えや寄附・寄進の行為に大きく影響をされたことは間違いないところであろう。玄洞とイトはともに尾道が郷里であり、玄洞は大正11年には莫大な寄附により尾道市の上水道敷設工事を完成させている。同郷で瀬戸内に住んでいたイトがそのことを知らないとは考えにくいからである。そして玄洞の各種教育機関や病院施設の建設・寄附、寺社堂塔の建立や整備などについてもイトはよく知っていたであろう。だからこそ、イトは玄洞の行なった講話の冊子を所持していたというわけであったろう。

生名島の三秀園
さて麻生イトが晩年を過ごした生名島の別邸三秀園である。三秀園は生名島の立石港から右手に10分ほど歩いたところにあった。以前はどのくらいの広さであったかはわからないが、中央に大きな岩が佇立する庭園である。この岩はメンヒルと言われるもので7メートルほどもある。わたしは知らなかったのだが、この三秀園のメンヒルもわが国では有名なもののようで、上島町の有形文化財に指定されている。
三秀園前の道路添いに説明パネルが設置されていた。ここに三秀園の落成記念写真や紋付き袴姿のイトの写真、「三秀園」と石碑に揮毫した尾崎行雄らとの集合写真なども掲げてある。これらの写真などはどこに残されてあるのだろうか、また何かの出版物に掲載されたのであろうか、興味を惹かれるところだ。
わたしが訪ねた時期は梅雨の6月であり、草もだいぶ生い茂っていて、敷地のなかを歩くのもすこし気味が悪かった。豪雨で子安観音への上り道あたりが崩れていたこともあり、いっそう荒れている感が強くて残念であった。せっかくのよい観光資源であるのにもったいない気がした。草刈りなどをしてもう少し整備し、麻生イトの事績なども充実させて、例えば近くの神島町の福祉施設の一角にでも展示したらいかがであろうか。わたし達は、超マイナーな来訪者の部類ではあるのだが、歴史好き石好き島好きの観光客も確実に存在しているわけだし、惜しい気がする。

日曜休業で昼食難民
三秀園を見学したあと、つぎの目的地の岩城島に渡るには別の港の生名港まで歩かないといけない。コミュニティバスがあるようだがあいにく日曜は運休だ。
またこの辺りで昼食をと考えていたのだが、数少ない飲食店も日曜で閉まっている。同伴の奥方が、「お昼ご飯はどうなる」「だから三原でお弁当を買おうと言ったのだ」「あのおはぎ屋さんにもおいしそうなお弁当があった」などとうるさい。これはどうも昼食抜きになりそうだなと、そんな覚悟を定めながら歩いていくと、道路沿いで、おにぎりと豚汁を販売しているワゴン車に出会った。なんと有難いことだと感謝の気持ちいっぱいになり、それぞれおにぎり二つと豚汁を買い、植込み花壇に腰かけて昼食を済ませた。なかなかおいしいおにぎりで、それに具だくさんの豚汁だった。やれやれである。
20分ほども歩くと生名港に到着、出発まで1時間以上ある。待合室があるのでここで待つ。わたしたちは交通の便が良くない場所を好んで行くので、というより目的の場所が交通の便の良くないところなので、これぐらいの待ち時間は何でもない。
船が来たので、乗り残されないようにと船長に大きく手を振った。乗るのはわたし達二人だけだ。というのも、立石港に着くまでの港で、下船する客がいなくて乗船する客もいないと、着岸しないでそのまま出航してしまうケースを見ていたからだ。乗り残されたら大変とばかりに、船長に向かって懸命に手を振った。
後から考えてみると、船が着く時間にだけ港にやってきて、着船時に船のロープを桟橋に巻き付ける係の人がいるようでもあり、どうも船長と連絡をしているみたいだった。そうだろうな、乗り・降りで取り残した客がいたら大問題になるであろうから。 (2023年6月27日 記)