ブログ・エッセイ
『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 11 岡部平太 全満競技連合(のち日満洲体育協会)の創設 12 小谷澄之―柔道選手、文教部学務司体育科長 13 八木壽治―撫順女学校長
11 岡部平太 全満競技連合(のち日満洲体育協会)の創設
岡部は『月刊撫順』昭和6年8月号に「夫婦愛の色揚げ」、『月刊満洲』昭和10年9月号に、「スポーツ放談」を書いている。
岡部は明治24年福岡県糸島郡芥屋村の生まれ。福岡師範学校を卒業後は小学校の教員をしていたが、運動の得意な岡部は東京高等師範学校体操専修科に進学する。大正6年に卒業後、翌年から3年間、シカゴ大学・ペンシルバニア大学などに留学、帰朝後は母校の講師などを務めた。大正10年には満鉄に入社。満鉄本社に人事課慰籍係のち社会課体育係に配属となった。満洲での体育振興に努め大正11年夏に日満洲体育協会となる全満競技連合の創設に尽力した。剣道五段の二刀流の達人といい柔道も6段の腕前であった(『満蒙日本人紳士録』昭和4年、満洲および戦後の活動は 高嶋航「岡部平太―満洲スポーツの父」 高嶋航 金誠編『帝国日本と越境するアスリート』塙書房 2020年、にくわしい。評伝として高嶋航『国家とスポーツ 岡部平太と満洲の夢 角川書店』がある)。著書に『世界の運動界』目黒書店 大正14年、『陸上競技史』目黒書店 昭和2年、『スポーツ行脚』日本評論社 昭和6 年 などがある。
12 小谷澄之―柔道選手、文教部学務司体育科長
『月刊満洲』昭和16年11月号に民生部体育科長の肩書で「随想 代表選手」を書いている。
小谷は明治36年生まれ。御影師範学校を卒業ののち東京高等師範学校に進み昭和2年卒業、五高予科助教授、熊本医大予科講師を経て、昭和4年4月満鉄に入社、南満洲工業専門学校助教授。地方部学務課武道教師、新京支社庶務課福祉係主任などを歴任し昭和16年8月に満洲国へ転出して民生技正体育科長兼教育司教学官、昭和18年4月文教部理事官学務司体育科長(『満洲紳士録 昭和18年』)。御影師範学校時代には柔道、昭和7年にはレスリングの選手としてロスアンジェルスオリンピックに参加した(坂本邦夫『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』、中嶋哲也「小谷澄之-「日本」の壁にぶつかり続けた海外柔道指導者」『帝国日本と越境するアスリート』)。
13 八木壽治―撫順女学校長
八木は『月刊撫順』昭和4年4月号に撫順女学校長の肩書で「入学試験撤廃に関する考察」、『月刊撫順』昭和5年7月号に「交情は續く」、『月刊満洲』昭和9年3月号に「身邊雜記」を書いている。
八木は明治18年の生まれ、鳥取県気高郡賀露村の出身、8歳で祖父八木與一郎の養子となり八木姓。明治41年東京高等師範学校博物科を卒業し研究科で植物学を専攻。東京暁星学校、京都府亀岡高等女学校教諭などを歴任後大正8年渡満し鞍山尋常高等小学校校長として創設に関わり、大正11年4月に撫順高等女学校の校長としてこの女学校の創設にも関与した。「女子教育研究のため」ということで大正15年10月から約八か月間欧米の視察に出たがその様子は『欧米の旅』にまとめられ、昭和2年に撫順高等女学校校友会から刊行されている。この出張は、旅順高等女学校長の佐藤馬太と同道であった。昭和5年4月、奉天高等女学校校長として赴任、昭和9年4月満鉄諸島教員の養成および教育内容の調査研究を任務とする満鉄教育研究所長となった(『新日本人物大系』昭和11年、『複製 日本産業人名資料事典』)。 2023年4月6日 記