ブログ・エッセイ


『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち 6 難波勝治―満洲日日新聞、海外事情研究、7 山崎一雄―撫順炭礦、満洲国司法部、撫順炭礦取締役 8 久保孚(とおる) 撫順炭礦の炭礦長 9 大垣研 久保孚炭礦長時代の次長 10 渡邊寛一 撫順炭礦の揚柏堡採炭所長

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
6 難波勝治―満洲日日新聞、海外事情研究
難波勝治は満洲日日新聞の記者である。昭和5年9月の『月刊撫順』に「海外發展と其根本観念」を書いている。
難波は明治9年岡山県大原町の生まれ。同志社大学英語科を卒業し岡山県の順正高等女学校教諭、明治38年2月に渡満しアメリカ領事館に勤務。遼東新報編輯長。昭和2年に満洲日日新聞と合併したことから満洲日日新聞の客員となり、大連日日新聞の嘱託。幾度かの海外生活もあり海外事情に詳しい。著書・編著に、『南米富源大観 附・南阿巡覧日記』(大阪屋号 大正12年)、『旅大道路概説』(遼東新報社 大正13年、『本渓湖を中心とした安奉沿線の資源』(本渓湖煤鉄公司 1933年)などがある。
2023年2月19日 記

7 山崎一雄―撫順炭礦、満洲国司法部、撫順炭礦取締役
山崎は『月刊撫順』昭和4年4月に「ラグビー・フットボールに就いて 上」を、昭和5年3月に「ラクビー・フツトボール競技法」を書いている。山崎は明治34年生まれ、早稲田大学商学部を卒業し、大正12年7月、満鉄入社。撫順炭礦機械工場庶務係主任、煙台採炭所庶務課主任、昭和7年5月退社し満洲国司法部事務官、総務司会計科長、昭和9年6月再び撫順炭礦にもどり、経理部会計課長などを経て撫順炭礦取締役。2023年2月19日 記

8 久保孚(とおる) 撫順炭礦の炭礦長
久保は撫順炭礦の炭礦長を務めた人物である。『月刊撫順』『月刊満洲』には、「人生のスタートを貧乏から切り得るものは幸福だ」(昭和5年1月)、「こんな人物なら一人ぐらゐ使つてもよい」(昭和8年8月)、「有閑是か非か」(昭和9年3月)、「滿洲一づくし」(昭和9年5月)、「宗敎随想」(昭和10年3月)、「支那民族の特殊性」(昭和10年12月)、「善悪の標準は変遷する」(昭和14年1月) など十数編を寄稿している。
この久保孚は高知県江ノ口町の出身。明治45年東京帝大採鉱学科を卒業し、同年9月、実習先に選んでいた満鉄に入社し撫順に配属された。なお撫順炭鉱は大正7年に撫順炭礦と改称されているが本稿では、「撫順炭礦」で統一している。
久保は大山採炭所長、炭礦礦務課長、撫順炭礦次長を経て昭和7年12月には撫順炭礦長、昭和12年6月には満鉄理事に就任して炭礦長も兼務した。久保が炭礦長の時期の次長は次に取り上げる大垣研であった。昭和16年6月になり理事及び炭礦長を退任、ついで昭和17年2月に設立された満洲石炭協議会理事長に就いた。昭和20年4月になり満洲重工業総裁高碕達之助の懇請で阜新炭鉱の社長に就任し阜新に赴く。この石炭協議会理事長の後任には梅野實が就任している。ちなみに梅野は、舟禮が撫順炭礦庶務課に勤務していた時期の大正12年4月に本社鉄道部長から撫順炭礦長として転入してきた人物で、米城を号とする俳人でもあった。この梅野が炭礦長時期の次長は山西恒郎、庶務課長が山崎元幹、そして久保孚が鉱務課長である。山西は三高・東京帝大法科から満鉄に入り野球選手でもあった。山崎はのちに「最後の満鉄総裁」となる。
久保は終戦を錦州省の阜新で迎える。戦後新たに結成された日本人居留民団の二代目の団長に選出され阜新の在留日本人救済に尽くした。ところが昭和21年3月になり国民政府軍保安隊司令部に逮捕連行される。容疑は終戦直後に阜新炭鉱の測量図など重要書類を焼却したというものであった。ただ実際は、昭和7年9月の平頂山事件の首謀の容疑であった模様である。この平頂山事件とは昭和7年9月、撫順炭礦を襲撃した抗日ゲリラ隊に対する報復として平頂山集落の住民多数を虐殺した事件である。この紅槍会匪と言われたゲリラの炭礦襲撃で、揚柏堡採炭所長であった渡邊寛一が亡くなった。この渡辺も『月刊撫順』に何篇か執筆している。
久保は瀋陽に移送され、いったんは釈放となったが、昭和22年12月26日に今度は平頂山事件の首謀者として逮捕収監される。この事件は撫順炭礦を警備していた日本軍の撫順守備隊が実行したものであったが、戦後に実行犯とみなされる軍人らの行方がわからず、撫順炭礦の退役軍人らで組織された防備隊を指揮して軍の守備隊と共に虐殺に及んだと、当時の炭礦次長ある久保が首謀者とされて逮捕されたわけである。久保らは瀋陽の軍事法廷で起訴され、そのでたらめな起訴文に反論を試みたが認められることなく、昭和23年1月3日、久保ら7人に死刑の判決がくだった。その死刑執行は4月19日の朝であった。ここで死刑となったのは、炭礦の久保孚・山下満男・藤沢末吉・西山茂作・金山弓男・満多野仁平、撫順警察署員坂本春吉の七名であった(原勢二『芒なり満鉄-追憶の撫順炭鉱長久保孚』新人物往来社 2000年)。
この山下満男は明治37年の生まれ、東亜同文書院を卒業後満鉄に入社して撫順炭礦庶務課に配属、在社7年ののち昭和8年に撫順県参事官として転出した(『満洲紳士録』昭和12年)。事件の起きた昭和7年といえば山下が入社して7年目の28歳ということになる。山下は庶務課勤務であり、在郷軍人会らの防備隊隊員でもなかったろうから、課員として久保の指揮に従ったというのが軍事法廷の罪状であったのだろう。久保が弁明書で言うように、日本軍の撫順守備隊に対して、幹部とはいえ炭礦職員の久保が指揮し命令を下すことはありえず、その下にいる庶務課員の山下らにとってはなおさらのことであろう。無念の死であったと言わねばならない。
附記:
当時の軍の撫順守備隊は、川上精一大尉・角田市朗中尉・井上清一中尉・後藤秀乾中尉であった。
『月刊撫順』の昭和7年10月号に、山本朝貢・井上中尉・大橋防備隊長・土生同副隊長による「防備の辛苦誰か知る」の記事が載る。この大橋防備隊長にはこの記事のほかに、「在郷軍人会長」の肩書で飯村聯合会長と共著の「廃兵救護慰安封策」(昭和7年5月)を書いている。また土生は「防備隊副長」として「撫順を守る 市民総動員」(『月刊撫順』昭和6年10月)を寄稿している。
井上清一中尉はこれのほかに、「ナンセンス一問一答」(昭和7年7月)を寄稿する。
川上精一大尉は「守備隊長」の肩書で「車窓より見たる撫順線の戦跡」(昭和6年7月)、「社交ダンスに封する見解」(昭和7年6月)、「座談会 歸順大頭目趙亞洲に訊く」(昭和7年12月、7名の座談)を寄せている。
角田市朗中尉は、「砲煙の撫順」(昭和5年3月)、「乱軍中突如「君が代」の奏楽」(昭和6年10月)、「ナンセンス一問一答」(昭和7年7月)を書いている。
後藤中尉は「ナンセンス一問一答」(昭和7年7月)、「陣中稿 山城鎭籠城一ヶ月」(昭和7年10月)をそれぞれ書いている。撫順炭礦の守備隊の尉官に対しても城島舟禮は礼を尽くしてというか、顔を立ててというか執筆を買うているわけである。

9 大垣研 久保孚炭礦長時代の次長
久保孚(とおる)が撫順炭礦長に就任したのは昭和7年12月だが、このときの次長は 大垣研である。「鬼に金棒」といわれたこの撫順炭鉱首脳の大垣も『月刊撫順』『月刊満洲』に記事がある。大垣のことを書いた「三人合評 撫順炭礦経理課長大垣研君」(『月刊撫順』昭和4年4月)、「こんな人物なら-人位使つてもよい」(『月刊満洲』昭和8年12月)、「滿洲一づくし」(『月刊満洲』昭和9年5月)、「米國の持つ謎」(『月刊満洲』昭和10年2月)などである。
大垣は兵庫県有馬郡有野村の出身。明治45年神戸高等商業を卒業後大正元年満鉄に入社。撫順炭礦用度課長・経理課長・庶務課長・主計課長を経て炭礦次長。その後は経理部長、理事兼炭礦長を務めた。

10 渡邊寛一 撫順炭礦の揚柏堡採炭所長
渡邊は撫順炭礦の揚柏堡採炭所長。昭和7年9月の平頂山事件で炭礦を襲撃した抗日ゲリラ隊により殺害された。『月刊撫順』には、「人間禮讃」(昭和5年1月)、「夫婦愛の色揚げ」(昭和6年8月)、「ナンセンス一問一答」「社交ダンスに封する見解」(昭和7年6月)などを寄稿、また事件で亡くなった後の追悼記事として、「珍しく尊い存在だつた―渡邊寛一氏を偲ぶ」、土方義正「二十五年間の仕事の跡を顧る」(昭和7年10月)がある。
渡邊は明治22年埼玉県熊谷町の生まれ。大正3年東京帝国大学電気学科を卒業し同年8月満鉄に入社し、撫順炭礦機械課に配属されて東郷坑に勤務。大正8年1月工業課電鉄係主任、大正14年運輸課長、職制変更により運輸事務所長。大正14年11月から1年間欧米を視察し研究に励んだ。その後に揚柏堡採炭の所長となったがこの時期に平頂山事件で難に遭った。
2023年3月23日 記