ブログ・エッセイ


萩原兼顕、満洲野球連盟、満洲映画協会、甘粕正彦、川崎徳次、大貫賢、倉本信護、『月刊撫順』、『月刊満洲』

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
3 萩原兼顕
萩原兼顕は撫順満鉄でプレーをした野球選手で、『月刊撫順』昭和4年4月号に「命がけの審判」、昭和4年6月号に「野球問答」、昭和4年8月号に「州外聯盟野球大會に参加して」などの原稿を寄せている。
坂本邦夫『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』(岩波書店 2020年)によると、満洲の球界は大正初めには大連のほか満鉄沿線附属地の奉天・営口・遼陽・撫順・長春などの都市に野球チームが作られていた。当初は長春のチームが強かったが徐々に大連にその地位を奪われ、大連満倶と大連実業が席巻するようになった。満倶とは満洲倶楽部の略称で、後に正式名称として大連満鉄野球部となって以降も「満倶」と呼び称された。大連実業は大連実業野球団の略称で、満鉄外の会社や商店の社員からなるチームであった。
満洲の野球チームは満洲国建国時期には、これら大連満俱・大連実業のほかには奉天満鉄・奉天日満実業・奉天電電・新京電電・満洲電業・満洲国・撫順満鉄などがあったが、昭和11年には、昭和製鋼所・安東満鉄・全四平街・新京満鉄・全ハルビンなども顔をそろえ、以後も錦県鉄路局・安東実業・吉林鉄道・満洲重工業・満洲映画協会などと毎年新規のチームが満洲野球連盟に加わって昭和18年には26チームを数えるに至ったという。ちなみに満洲映画協会の聯盟加盟は昭和17年3月である。
さて『月刊撫順』に記事を書いた萩原兼顕であるが、日本野球機構のホームページ「プロ野球在籍審判員名簿」にその履歴が出ているのでそれをここに書いておく。萩原は明治35(1902)年の生まれで法政大学を卒業後に渡満し撫順満鉄の選手として活躍した。
戦後になってからは昭和23年に45歳で審判員となっている。審判初出場は同年9月6日の巨人-中日戦で三塁審判だった。昭和25年にはセリーグ所属の審判員になるもこの年に審判を引退、セリーグの記録員となった。昭和28年から7年連続で記録員として日本シリーズに出場、昭和34年退職している。
萩原の在籍した撫順満鉄には他に川崎徳次も一時期チームメートであった。川崎は大正10(1921)年の生まれ、久留米商業で投手として活躍した。卒業後は大学や華中鉄道からの勧誘もあったが、それをを断って、昭和15年3月に先輩のいた撫順炭鉱に入社し、撫順満倶(撫順満鉄倶楽部)の投手として活躍した。川崎が満洲に渡ったのは、久留米商業最終学年の満鮮旅行での体験が大きかったという。その後は南海に、戦後には巨人で選手生活を送り、西鉄の監督も務めた。
撫順満鉄にはほかに、監督として尾崎昇二郎、明治39年生まれの大貫賢も在籍したことがある。この尾崎昇二郎は、『月刊撫順』昭和4年4月に萩原と並んで「ペンの走晶」を書いている尾崎昇治郎かと思うが同一人物である確証はまだ得られていない。この記事の前後が「スポーツの社会的意義」、「スポーツ川柳」、「撫順運動界本年度の活躍 其の一 野球部-剣道部-庭球部-陸上競技部」、山崎一雄「ラグビー・フットボールに就いて」とスポーツ記事が続いているからおそらく同一人物であろう。
大貫は撫順満鉄から大連実業、さらに奉天日満実業野球団へと移籍した。また当時は桐林姓を名乗っていた捕手の倉本信護も昭和15年8月の都市対抗野球では撫順満俱の四番打者として出場、このとき川崎徳治も投手として活躍している。
この都市対抗野球大会は、昭和10年から満洲勢として、大連市が1枠、他都市に1枠が与えられていたが、この昭和15年の都市対抗野球大会では、大連実業野球団と撫順満鉄倶楽部とが出場している。この二回戦で撫順満俱は大連実業と当たり、6対3で敗北を喫している。
なお、この撫順満俱が大連実業と東京の都市対抗野球大会に向かっていたちょうどその時期、中澤不二雄のいた満洲日日新聞の招きで「紀元二千六百年記念 満洲公式リーグ戦」が開催されていた。この時期の撫順満倶の事情は、川崎徳治『戦争と野球―兵隊にされた往路野球選手』(ベースボール・マガジン社 1997年)に記述がある。
『月刊撫順』に文章を寄せた撫順満鉄の野球選手萩原兼顕のことを書いていて、坂本邦夫の労作『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』も面白く読んだことから、『月刊撫順』『月刊満洲』執筆者の範囲を超えて書いてしまった。 2023年2月10日 記