ブログ・エッセイ


満洲、野球、満洲野球連盟、満映、満洲映画協会、甘粕正彦、中澤不二雄、実満戦

敗戦後に、満洲の地で行われた野球試合のことが坂本邦夫『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』(岩波書店 2020年)に出ているので物覚えとしてここに書いておきたい。
そのひとつは満洲映画協会が行ったものである。荒れてしまった会社裏のグランドの草刈りを社員総出でおこない、日本人チームと中国人チームとに分かれて野球試合が行われている。それは終戦の翌8月16日のことであった。甘粕正彦理事長はその4日あとの20日に青酸カリを飲んで自殺している
満映は昭和12年8月の創立、甘粕正彦は昭和14年11月理事長に就いた。野球に熱心であった甘粕は、映画協会に野球チームを作って昭和17年3月、満洲野球聯盟に加入させている。終戦の翌日、それも日本人チームと中国人チームとで試合としたというのはいかにも甘粕らしい。試合は日本人チームが勝ったという。
もうひとつは、野球大会といってよいもので、中澤不二雄が中心となり、昭和21年7月、新京(長春)在住の野球選手により行われたものだ。中澤は満鉄に入社後は満倶(満鉄野球倶楽部)で活躍しその後は満洲日日新聞、満洲日報に転じた人物である。この野球試合では、選手を、東日本・中部日本・西日本と3チームに分け、11日間のリーグ戦で行われた。有料試合で選手はその入場料を生活費の足しにしたという。新京(長春)の児玉公園野球場で開催されたのだが連日満員であった。
三つめは、昭和21年11月に大連在住の野球人により開催されたもので、「難民救済基金募集」とかかげられた実満戦である。「実満」とは、大連実業野球団と大連満洲倶楽部(略称は満倶、正式名称は大連満鉄野球部)で、ともに大連の強豪チームであった。これも有料の試合で、その入場料は引き揚げ日本人の生活費に充当された。
終戦後に、新京や大連での残留を余儀なくされた日本人に対して、慰問団として満洲に渡り同じく新京や大連に残された芸人らのこと、また当地に残された人たちまた引き揚げた人たちの蔵書や文物を集めて整理したうえで展観し、中国側に引き渡したりした活動については調べて書いてきたところだが、こうした野球チームによる終戦後の試合については知らなかった。わたしがこれまで調べてきたことと、この野球大会というのも、どこか底流で繋がる部分もあったりすると思い、ここにメモをしておいた。
2023年2月9日 記