ブログ・エッセイ


2 寺田喜治郎、『月刊撫順』、『月刊満洲』、『コドモ満洲』、執筆者、城島舟禮、五平荘、満鉄奉天図書館に寄贈、『反骨九十年-寺田喜治郎の生涯』、寺田順三

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
2 寺田喜治郎
教育者の寺田喜治郎は撫順中学の校長を務めていた時期に舟禮と親しくなった。寺田が『月刊撫順』に書いた記事でわたしが見ることができたものは、昭和5年10月号の「親と子と先生」が初めであるが、おそらくそれ以前の号から寄稿していたと思われる。寺田は毎号のように『月刊撫順』『月刊満洲』に寄稿した常連執筆者であった。
その寺田喜治郎は明治18年、岡山県真庭郡の生まれ、津山中学を成績優秀で卒業した。早くに父親を亡くしたため給費の東京高等師範学校国語国文部に入学している。本科一年の明治39年7月、「遼東修学旅行」で大連・旅順から鉄嶺を巡った。このころ徳田秋声の門を出入りする。卒業後は龍野中学など各地の中学の教員などを務めたが、大正13年11月満鉄に入社、同年に満鉄が教員養成のために開学した満洲教育専門学校の教授となった。その後の昭和5年4月には撫順中学校に転じている。
寺田を慕う教え子の教員らとともに国語夜話会を設立し月2回の例会を開いて国語教育の研究にも励んだ。『コドモ満洲』はこの会の編輯で昭和6年に半月刊の児童雑誌として創刊された。小学校の補助教材に、との考えで一・二年用、三・四年用・五・六年用として編纂、5号までは『月刊撫順』の附録として刊行した。6号には監修寺田、編輯は撫順国語教育夜話会とある。『コドモ満洲』は、全満小学校の課外読物として絶賛を受けたとは舟禮の弁である(城島「身辺雑記」昭和9年4月)。
昭和7年5月に月刊撫順社から『教育を打診する』を出版している。昭和8年には満鉄の臨時教育調査会委員、昭和9年4月に奉天中学校長として転任している。平安通(南五条角)に住まいを定めたことから筆名「五平荘」を名乗った。昭和10年、奉天地方委員会委員となり副議長、また全満地方委員聯合会副議長も務める。昭和11年満洲教員聯盟を結成して委員長に就く。昭和13年奉天諮議会員を委嘱。なお昭和13年には「満鉄ノ恩顧ニ報フルノ意」から、蔵書二千五百冊を満鉄奉天図書館に寄贈している。この件に関しては『収書月報』昭和13年8月号に、「寺田喜治郎氏図書寄贈」の記事が載る。その内容は『群書類従』530巻、『国史大系』50冊、『豪華版 小泉八雲全集』18巻、その他、基本参考図書、随筆集、などであった。記事では「本館の蔵書十万冊に又一人と清涼の気を漲らすものである」と書かれる。
昭和13年11月奉天第一中学校長を退職し満洲国民生部編審官、昭和14年3月中央師道訓練所長となり昭和19年に退官。ここで病を得て昭和19年10月に帰国、津山市山下に住まわった。
寺田は、戦前に夫人を亡くし、再婚するもまた亡くし、戦後も再再婚したがその妻や長男次男までにも先立たれてつらい日々を送った。自筆の年譜の昭和30年1月には「(津山市)山下ノ家モ売ツテ郷里ヲ出ツ。年老イテ往クトコロヲ知ラズ」と書く(「寺田喜治郎年譜」『反骨九十年-寺田喜治郎の生涯』寺田順三刊 昭和50年)。寺田が亡くなったのは、昭和49年のことである。 2023年2月4日 記