ブログ・エッセイ


1 大野審雨、『月刊撫順』、『月刊満洲』、執筆者、城島舟禮、

『月刊撫順』『月刊満洲』の執筆者たち
全巻ではないが『月刊満洲』が復刻されることになりその解題を書くように頼まれた。どうもどなたかの代打のような気配ではあるのだが、わたしは以前に遼寧省図書館所蔵分の『月刊撫順』と『月刊満洲』を閲覧してその「目次一覧」および「解題」を作ったことがあることから、何とか書けるかと思い引き受けた。ただ、『満洲出版史』に収録したその「解題」をそのまま出すのも気が引けるので、月刊撫順社・月刊満洲社の社主で編輯長の城島舟禮のことをもう少し調べ、また誌面に登場する執筆者の幾人かを取り上げて加筆することにした。
このブログでは、この「解題」に書ききれそうもない執筆者や、紙数の都合で省略した部分も含め順次取り上げてみたいと考えている。
『月刊満洲』は、昭和3年夏創刊の『月刊撫順』が前身である。『月刊撫順』は、昭和8年に『月刊満洲』と改題されたがそののちも昭和20年まで継続して刊行された。この雑誌の執筆者はなかなかバラエティに富んだものである。それは満鉄に勤務していた舟禮の人脈や人柄にも大きく拠っている。
そしてまた文芸方面もけっこう充実していた。というのも舟禮自身が新傾向の俳句詠みであったこと、舟禮自身が俳誌を刊行していたということにも関係している。つまり舟禮は、創作者の気持ちをよく理解し、作品を発表するということに対して理解を持っていたというわけである。
本誌の執筆者の幾人かをあらかじめあげてみると次のようになる。舟禮の親しくしていた人たちとしては、国語夜話会を設立して『コドモ満洲』の編輯をした寺田喜治郎、舟禮のあと撫順炭礦機関誌『炭の光』の編輯を引き継いだ俳人の大野審雨、戦後も軽妙なエッセイを書いた満洲医科大学教授寺田文次郎、常連執筆者で月刊満洲社から単行本も出版した石原巌徹や眞殿星麿(天野光太郎)らである。
また撫順炭礦庶務課時代に舟禮の上司であった山崎元幹、かれはのちに「最後の満鉄総裁」を務めた人物だ。さらに大雄峯会の笠木良明、新京特別市副市長関屋悌蔵、また満洲国の高官としては、国務総理張景恵、民政部総長臧式毅や民生部大臣谷次享も寄稿している。日本人では、民政部参事官の板垣守正や関東軍参謀片倉衷(ただし)、さらにのちに満洲炭礦初代理事長となった河本大作も幾度か寄稿している。
さらに、わたしがつくった『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』に採録した人物も本誌に執筆している。大連図書館司書係主任などを務めた橋本八五郎、北満鉄路中央図書館の接収にあたった田口稔、大連図書館書目係などを歴任し占領地区図書文献接収委員会総務委委員を務めた大佐三四五(おおさみよご)、満鉄奉天図書館館長で本誌に「本を盗まれた話 上・下」を寄稿した衞藤利夫、柳原白蓮の子息で満洲中央銀行調査課資料係主任の北小路功光(いさみつ)も登場する。満洲国立中央博物館副館長の藤山一雄、満日文化協会常務主事杉村勇造、丁香女塾長の望月百合子、大同劇団を主宰した藤川研一ら文化方面の人物の顔も見える。
目下わたしは、一方でこの『月刊撫順』『月刊満洲』の解題を書いているのだが、もう一方で本誌の執筆者について、仕事半分、楽しみ半分で調べているということから、本誌の執筆者をここに紹介していこうと考えている次第である。なお掲載している人物については順不同で活動分野も整理しているわけではないことをお断りしておく。

1 大野審雨
城島舟禮は『月刊撫順』を創刊するため、昭和3(1928)年5月に撫順炭礦を退職した。舟禮は会社の機関誌の『炭の光』の編輯を担当していたが、この機関誌編輯を引き継いだのが大野審雨であった。審雨は『月刊撫順』およびそれを解題した『月刊満洲』の常連執筆者として本誌を支えた。わたしが見ることができた『月刊撫順』で審雨は、昭和4年4月に「帰省雑詠」を書いているのだが、おそらく創刊直後から寄稿していたのではないかと予想される。
大野審雨については、吉田登美穂『大野審雨と「りんどう」の人びと―竜ケ崎ホトトギス派の成立と展開 上』がその事績を追っているので主としてこれに拠って審雨について書いておきたい。
審雨は明治21年12月1日の生まれで県立竜ケ崎中学を卒業。在学中に俳人の青峯島田賢平の教えを受けているが俳句の手ほどきは受けていないという。大正2年日本大学を卒業し、大正4年朝鮮総督府平壌鉱業所に就職、大正8年6月満鉄に入社した。大正9年に撫順炭礦で六か所稼働していた採炭所のうちのひとつである龍鳳採炭所に配属された。審雨はこのころから句作にとりくむようになる。しばらくして撫順炭礦の幹部の異動があり、鉄道部長として梅野実が入所してくる。梅野は久留米の出身で米城と号する河東碧悟桐門下の俳人でもあった。この梅野の入所以降、撫順俳壇は活況を呈する。審雨は来満した河東碧悟桐の句会にも参加している。
大正13年10月、高浜虚子が朝鮮経由で入満することとなり、審雨は新義州まで出迎えている。虚子は安東から満洲に入る。五龍背温泉に虚子らと一泊。奉天の句会を経て10月24日には撫順でも句会が開催された。竹内青眼子・斎藤雨意・三木朱城も参加、撫順に出張中であった満鉄審査役日野梅太郎も参加した。大正15年には池内たけしが入満。撫順では露天掘りを吟行し龍鳳の公園近くの審雨宅に二泊した。
昭和4年1月に庶務課へ異動、撫順炭鉱の広報誌『炭の光』の編輯を、城島舟禮のあとを継いで担当することとなる。そのまえにいったん日本に帰って各地を巡り、3月には撫順に戻って庶務課の業務に就いた。先の昭和4年4月の『月刊撫順』の「帰省雑詠」はこの時のものである。
5月高浜虚子がふたたび渡満、審雨は奉天まで出迎えた。撫順では女学校で講演会が持たれ筑紫館旅館で句会が開かれた。このころ撫順には「家庭俳句会」ができていて、伊藤古城子・さた女・村井掬水・四四女・梅本青琳・その女・杉野炭子、そして審雨・さい女らが集っていた。また舟橋ひさ女・都甲弓女・石渡まさ女も加わった。
前掲書の村井四四三女「家庭俳句会と審雨さん」によれば、伊藤さた女から「家庭俳句会」に誘われたこと、それが楽しくて和やかな会であったと回想している。撫順には、「家庭俳句会」のほかに、金曜会や撫順二日会がありこれは長く続いた。
この時期の撫順俳壇は、ここまで名前があがる人たちのほかに、西尾北鳴・楊柳影・山西魔古塔・石黒四水・下村四桁・米田担々・松山声子・山田美則・梶原寅次郎・母里山正夫・西沢千之らがおり、雲母系に武田逐夫がいた。
満洲国建国前後に渡満した俳人は、鈴鹿野風呂・飯田蛇笏・五十嵐播水・皆吉爽雨・赤星水竹居・松根東洋城・荻原井泉水・吉岡禅寺洞・久保田万太郎らである。また山口誓子は昭和9年10月ごろに来満して撫順にも滞在し、露天掘坑内にまで吟行を敢行、審雨の家に泊まっている。さらに満鉄夏季大学の講師として来満した木村毅を迎えて句会も開催された。
その後の数年の間に撫順を訪れた作家らは、菊池寛・久米正雄・林芙美子・斎藤茂吉・北原白秋・若山貴志子・川端康成・火野葦平・高田保・八木隆一郎・金子洋文・坪田譲治・平山芦江・丸山晩霞・小川千甕・清水登之・栗原信・池辺釣・耳野卯三郎・中川紀元・大宅壮一・山田耕筰・紙恭輔・石井漠・早川雪州・尾上梅幸らであった。このように多くの俳人を含む作家が撫順を訪れるというのも、撫順炭礦が満洲鉱業の中軸であり、見学ではかならずコースに加えられていたこと、また撫順は奉天(瀋陽)からほど近い場所にあり、地の利がよかったったことなどによるのであろう。もちろんそんな撫順は学芸も盛んであったという理由もある。
審雨は昭和14年時点でも庶務課の勤務で、翌年1月中旬には内地に出張、各都市を回って満洲事情や満鉄社業について紹介している。3月に撫順へ戻り4月に秘書主任となった。昭和16年には高浜虚子が三回目の渡満をする。ただこの頃は審雨もホトトギスを離れ、北鳴、炭子も撫順から異動して出てしまっており、いささか沈滞気味で虚子は撫順を訪問しなかったという。
戦争も苛烈になってきたが、このころ『協和』俳壇の選者を委嘱される。まだ確認できていないが、昭和18年9月号では選者となっている。またこれも未確認だが、満洲日日新聞に「撫順を訪づれし名士の足跡」を連載しているという。審雨が満洲撫順の俳壇で活動してきたと言うことであろう。
昭和18年には山口青邨が撫順を訪れ炭鉱倶楽部で句会を開催した。昭和19年5月31日、島田青峯が死去している。昭和15年2月の京大俳句事件に始まる新興俳句に対する弾圧で青峯は昭和16年2月に逮捕され病状が悪化したことによる。
昭和19年10月31日、審雨は満鉄参事を辞し、11月1日から嘱託として撫順炭鉱の資料蒐集の仕事に就いた。こうして審雨は撫順で終戦を迎える。昭和21年7月12日、貨物列車で撫順を立ち、7月19日に葫蘆島を出帆して26日佐世保に上陸した。昭和25年には茨城県稲敷郡河内町の生板に、その後には竜ケ崎の田上波浪宅の隣に移って落ち着き、電電公社に勤めた。
前掲書の三谷てるを「撫順炭鉱と俳人審雨」によれば、「りんどう」にはもと撫順炭礦の関係者の米田紫蘭・今井修二・下村四桁のほか伊藤利恵子・舟橋ひさ女ら社員の家族の顔ぶれが見られたという。また「(審雨は)撫順俳壇の指導育成に勤められ、また城島舟礼の「月刊満洲」を助けてその発展に尽くされた」とある。
審雨は炭礦を退職後には撫順新報社社長に就く予定もあったが終戦となり実現しなかったとも述べられる。撫順炭礦時代には、石渡まさ女、順炭礦に入社の米田坦々、下村四桁(猛)も審雨の指導を受けたという。
竜ケ崎に落ち着いた審雨は、昭和32年1月に俳誌『りんどう』を主宰創刊した。満洲の撫順時代の俳句創作活動について審雨は次のように回想している。
特に満洲撫順に於ける三十年近い生活は俳句の生活であった。(略)私ごときがいかに頑張っても満鉄の社業に寄与するなどは思いもよらない。私は撫順炭鉱一万の社員に対して俳句を提唱した。炭鉱という荒んだ業務に従事する人びとに情操教育が必要と思ったからであった。これは微力社業に尽くした以上の効果のあったことを今も信じて疑わないものがあるのである(大野審雨「りんどう誕生」、引用は『大野審雨と「りんどう」の人びと』から)。
審雨の満洲撫順での俳句活動はこのようなものであった。審雨の俳句および文芸活動、そしてその地で築き上げられてきた人脈が、城島舟禮の『月刊撫順』『月刊満洲』の誌面を支えてきたというわけなのであろう。
昭和32年1月創刊の俳誌『りんどう』は昭和43年7月に休刊となった。昭和44年12月30日には夫人が急逝する。昭和46年3月11日には審雨も亡くなった。竜ケ崎市根町愛宕山に大野審雨の句碑が建つ。
二三人又来て花の雨やどり 審雨 2023年1月18日 記