ブログ・エッセイ


『琵琶湖にはじめて蒸気船を浮かべた 一番丸船長 一庭啓二の生涯』をようやく刊行!!

長年の懸案だった『一番丸船長 一庭啓二の生涯』を、昨年12月に武久出版から刊行することができた。やり始めてからは何十年、本格的にやり始めて7年ほど、版元に出稿してからおおむね1年ほどかかった。
その刊行に至るいきさつは「あとがき」に書いたが、この一庭啓二という人は、わたしの奥さんの曽祖父にあたっている。その一庭啓二が遺した文書・資料を彼女が引き継いできて、それがわたしの家に在ったというわけだ。そして、幸か不幸かわたしは図書館司書だった。わたしは当時から、資料の保存や継承のことについてあれこれと考えたり書いたりしてきたのだが、それがこの本作りに向かう原動力になった。
自分で選んだことなのだが、この原稿書きに、定年後の「良い時間」をほとんど費やした。でもこれは、強いられた「仕事」でもないし、締め切りがあったわけでもないし、版元はよく知ってる社だし、琵琶湖の蒸気船の歴史は鉄道とふかく関連していて琵琶湖は日帰りで行ける範囲だし、「調べもの」「写真撮影」と称してお楽しみの列車にも乗れるし、読めない文書は読んでくれる友人もいたし、そんなこんなで、これは楽しい時間、文字通り「いい時間」だった。ここ2年ばかりの追込、原稿整理の時期に、コロナで外出が限られたのが痛かったが、原稿整理や校正など、まず家でできる作業があったことも精神衛生上よかった。
あとは少しぐらい売れて、版元におおきな赤字を発生させないことが肝要だ。ともかくわたしは、売れない本を作ることにかけては名人級だから。それも、「売れそうなんだけどな、でも売れない」というような本だ。『小島祐馬の生涯』(臨川書店)、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』(武久出版)なんかその代表格だと思っている。
まあいい。自分の仕事を真に評価してくれる人が何人かいればそれでいいと、負け惜しみ半分でそう思ってやってきたことだ。60歳ぐらいまでは、「真に理解してくれる人が5人いればそれでいい」と思ってやってきたが、どうも5人は到達したかもしれないので、いまは10人いれば、といささか強気に変更した。
琵琶湖は滋賀県の「宝湖」だし、文書目録もつけて一部翻刻もしたし、滋賀県の図書館が、郷土資料、地域資料として副本を含めて買ってくれないかな、博物館なんかも少しは資料として購入してくれないかなと、ひそかに考えている。
ともあれ長年の責はこれで果たした。気楽になったし、少しばかりぼんやりとしたい、とも思ったりするが、この歳になってぼんやりすると、本当にぼんやりと呆けてしまうといけないので、適当適度に程よく、ぼんやりしてやっていくことにする。
そして、こんなタイミングで、京都のあるお寺の塔頭の住職さんから、昭和期はじめに本堂などを寄進してもらった山口玄洞翁のことを記念誌に書いてほしいとの申し出があった。ああ、なんと有り難いタイミングであろうか、とそう思って喜んでお引き受けした。これでしばらくやっていけそうだ。
だがこれがすんだらどうするか。もう一度立て直して考えないといけない。 2022年1月15日 記