ブログ・エッセイ


満洲慰問、藤山寛美、赤木春恵、関東軍恤兵部、琿春、春化、引き揚げ、「狸御殿」、葫蘆島

松竹新喜劇の立役者藤山寛美は、本名稲垣完治、昭和4(1929)年6月、俳優の藤山秋美とお茶屋女将稲垣キミとの間に生まれた。寛美は終戦の年の昭和20年3月、皇軍慰問隊の一員として満洲に渡っている。15歳の春のことであった。渡満の直前に撮られた写真が『あほやなあ』(光文社 昭和42年)の口絵に載っているが、みるからにあどけない少年である。同世代の少年たちが、予科練習生など軍に志願しているのに対し、自分はお白粉を塗って芝居しているというのが後ろめたく、「非国民」に思われたからという。また慰問団の給料が家庭劇のそれよりも高かったというのも渡満の理由であった。満洲に渡ったのは3月27日で、3月13日の大阪大空襲の二週間後のことである。
慰問隊は関東軍の恤兵(じゅつへい)部の管理下にあった。一行は船で釜山へ、そのあとは列車で満洲に入り、各地で慰問公演に回った。そして寛美らは奉天(瀋陽)で終戦を迎える。奉天では奉天ビルのホテルに滞在していた。
終戦を迎えて途方に暮れた慰問団は、ともあれ新京(長春)にある関東軍恤兵部に行くことにした。そこでこれからの方針を尋ねようと考えたのである。軍人や民間人がどんどん南下してくるさ中、慰問団一行はそれとか全く逆に北上していった。
新京に着いて関東軍本部に出向き、今後のことを尋ねてみたものの、関東軍は自分たちの行く末を思案することに精一杯で、慰問団のことにまで考えが及ばない。相手にもされなかった一行はやむなく慰問団本部のある哈爾浜へとさらに北上することにした。
列車でようやく哈爾濱駅に到着したのだったが、寛美ら日本人一行は町とは反対の方角に歩かされ、日本軍の兵舎跡に収容されてしまう。一ヶ月ほどたったあと、今度は列車に乗せられて郊外の駅で降ろされた。さらにそこからソ連国境にもほど近い牡丹江の収容所へと送られ、ここで使役させられることとなった。
ひどい生活を強いられながらしばらく働いていたが、やがて万国赤十字調査団が入って来るという情報が伝わり、日本人一行は釈放され、寛美らは牡丹江からふたたび哈爾浜に向かうこととなった。
ここで日本人会を訪ねてみたところ、帰国などの話はまったくなく、ともかく当面は生き延びることが第一番と言われ、やむなく町に貼ってあったキャバレー「カラクチ」のボーイの求人に応募して働くこととした。そのキャバレーは哈爾浜駅南側の南崗阿汁花街にあった。
仕事は得たものの待遇はひどく、食事といってもそれは名ばかりで、残飯の中から食べられそうなものを拾って食べるというとんでもないものであった。しばらく働いていると、ぼつぼつ芝居ができるという話が伝わってくる。そこで慰問団の人たちと「芸能座」という劇団を組んで、芝居「狸御殿」を「哈爾濱劇場」やキタイスカヤの劇場「モテル」で上演したりした。一方のキャバレーの仕事だが、給料は安くまた残飯の食事も嫌になり、一ヶ月ほどで退職、靴磨きを始めたがそれもやめて今度はブローカーをやったりした。
そして帰国のめどが立ち、哈爾浜から新京、奉天・大連を無蓋車に乗って南下し、葫蘆島からアメリカ船リバティⅤ17号で博多に引き上げたのであった。博多に着岸し、そこから大阪にたどり着いたのは、昭和22年10月22日の朝のことであったという(註)。
まずは富田林の瀧谷不動の姉を訪ねるそこで母親が梅田で喫茶店をやっていると聞いて曽根崎の天神さん北門の喫茶店に行ってみた。店は「枡梅」という喫茶店で、予想と違ってちゃんとした建物での営業であった。母親からは客と間違われて、「いらっしゃい」と声を掛けられた。しばらくしてようやくわが子が生きて帰って来たとわかり、ともに涙涙の対面になったのだという。その後、中座の人が近々芝居をやりはじめるという話を聞いて、ようやく念願の役者に戻るという次第になる。
『あほやなあ』光文社 昭和42年
『寛美笑談 極楽トンボ』立風書房 昭和52年
『あほかいな』日本図書センター 1999年 、1976年 毎日新聞社の再刊
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ところで終戦の時期、おなじく満洲に渡っていた女優の赤城春恵は、この藤山寛美と哈爾浜で出会っている。その聞き書きが、梯久美子「昭和20年夏、女たちの戦争」(角川書店 平成22年)所収の赤城春恵の項に出ていた。
それによると、赤木は現金を得るために、持っていた長襦袢を売ろうと考えたのだがどうやって売ったらいいかわからない。そこで当時「紅顔の美少年だった」寛美に相談してみると、「僕が売ってきてあげるよ」といって売りに行ってくれた。寛美は道端に立って、それはそれは上手に売りさばいてくれたのだという。
赤木は終戦後に哈爾浜の地で寛美とともに芝居をしていたのである。哈爾浜に滞留していた日本人のため、同じように取り残された慰問団の人たちが一緒になって、芝居をしたり歌謡曲を歌ったりしたのだった。寛美が回想で述べている「狸御殿」は、赤木も聞き書きの中で上演したと述べている。ほかに金子洋文「洗濯屋と詩人」なども演じた。赤木が洗濯屋の娘、寛美が洗濯屋の小僧だったという。
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この赤木春恵のことを先の梯久美子による聞き書きによって少し書いておく。赤木が満洲に渡ったのは、昭和20年の2月のことだった。寛美の渡満とほぼ同じ時期のことである。赤木の父親は満鉄病院の医師で早くから満洲に移り住んでおり、赤木は大正13(1924)に長春で生まれている。長春は昭和7(1932)年の満洲国建国により新京と改称となった。
父親は赤木が生まれて3年後に亡くなったが、母親と兄二人はそのまま満洲で暮らした。上の兄は長春商業学校(のちの新京商業学校)、次の兄は大連一中の学生だった。
その後一家は日本に帰り、次兄は京都で歯科医を開業していたのだが、応募したシナリオコンクールに入選したことをきっかけに歯科医をやめて映画の助監督になった。赤木はというと女学校を卒業し、16歳で松竹に入社、女優として活動していた。
戦況はが進んでいき、昭和15年には国内でも慰問活動が本格化し、赤木は片岡千恵蔵座長の慰問団で日本全国を回った。
次兄は日本の映画界に見切りをつけ、昭和18(1943)年に渡満して軍隊慰問中心の劇団「銀星座」を結成した。昭和20年になると内地の関西でも空襲が激化し、赤木は母親とふたりで満洲へ移り住もうと決断する。この渡満は「疎開」のつもりだったという。次兄を慕っていた赤木は、満洲にいけば兄の劇団で芝居ができると考えたのであった。
母親は親戚にあいさつをしてから出かけたいと言うので、2月になり赤木は一足先に満下関から釜山に向かった。母親とは満洲の地で落ち合う約束をしていたのだった。しかしながら日本各地の鉄道は空襲で寸断されてしまい、移動もままならない。そして母親は渡満を断念する。
赤木は、兄のいる哈爾浜に無事到着して一座とともに満洲各地の慰問に回った。ところが、赤木が慰問に回りはじめてまもなく、この次兄は現地召集となり入隊させられてしまう。劇団員と相談の上で赤木は、二十歳そこそこで劇団の座長に推され、座長として慰問団を率いて活動を続けることとなった。
8月初旬には、間島省琿春県の春化という村に入った。琿春からさらに東へと入ったソ連附近の町である。そこで興行をしたあと、ある夜現地の将校らは宴会を開いてくれた。ところが、遠くでドーンドーンと音がする。何かと思ったら、それはちょうどソ連軍が南下して戦闘の音であった。それはソ連が侵入して来るまさにその前日のことであった。
事情が分からない赤木らだったが、慰問どころではなくなり春化を後にして琿春までたどり着く。琿春の町はひどい混乱のなかにあった。いそいで琿春からトラックに乗ってさらに南下したのだが、途中で思い直す。関東軍の恤兵部に無断で朝鮮内に逃げるわけにはいかないのではないかと考えたのである。そこで赤木ら一行は、人びとどんどん南下していくなか、逆に新京へ向かうこととした。新京に到着するも、町は水浸しで駅から出られない。やむなく駅で哈爾浜に向かおうと列車を待っていたところ、ちょうど兵隊や馬を載せた列車が入ってきた。「慰問団か?」ときかれてそうだと答えると、何か一曲歌ってくれと言われ、「暁に祈る」を涙ながらに歌った。やがて列車が入り、一行は哈爾濱へ向けて北上することとなった。
赤木が終戦の詔を聞いたのは、哈爾浜の地でのことだった。春化の部隊はソ連軍の侵攻で全滅したと聞かされる。危機一髪であった。哈爾浜での赤木たちの宿舎は、道裡公園の向かいの北京旅館であった。ここに滞在してなんとか日々を暮らしていた。あるときには、フロリダというあたらしくできたダンスホールでの仕事を持ってきてくれたりした。中国人の客相手にダンスの相手をするというものだ。
こうして食いつないでいる中、赤木は、この哈爾浜で藤山寛美といっしょに芝居もやっていたのである。先に寛美が、「芸能座」という劇団を組んで「狸御殿」を上演したと語っていたもので、芝居を上演するにあたって、開幕前にインターナショナルを歌えばそれで許された、というあの舞台のことである。
哈爾濱での赤木らの苦労の日々は、梯久美子の聞き書きに述べられてあるから、詳細はここでは書かない。赤木が引き揚げたのは昭和21年10月のことだった(註)。
哈爾濱から無蓋列車に乗り、途中の駅で降ろされて延々と歩き、ようやく今度は貨車に乗って南下する。途中、いかにも匪賊が出没するような場所で機関士はわざわざ列車を停める。そうすると引揚げ民をまとめている班長がお金を集めて回り、それを機関士に渡すと動くという段取りであった。そんなことを幾度か繰り返してようやく新京に到着する。新京の満鉄社宅が収容所になっていて、そこで引揚げの順番を待った。
新京で数日過ごして奉天に向かうちょうどその日、新京の駅前で、偶然に劇団をやっていた次兄に出会ったのだという。次兄は首から赤十字のマークの付いた衛生袋をかけている。兵役のあいだに結核にかかってしまっていた。せっかく再会した次兄とは、新京で別れることとなったが、葫蘆島に到着した赤木は、次兄も葫蘆島に少し遅れて到着したことを知る。病気の兄と一緒に日本に帰りたいと切望する赤木は、兄の所属する部隊長に頼んでみた。すると、ここにいる兵隊を相手に慰問の劇をやってくれたら、次兄を渡してもよいと言われる。そこで、この葫蘆島でも一緒だった寛美に相談して、慰問用に最低限の道具をそろえてもらい、「婦系図」を上演した。ハーモニカの伴奏で歌も歌ったりしたが、それでも兵隊は喜んだという。
約束通りに兄を引き渡してもらい、ようやく帰国船に乗り込むことができで、昭和21年10月20日博多港に着岸した(註)。ところがその兄も、翌年には亡くなってしまう。長兄は大陸で戦死を遂げていたから、赤木は二人の兄を戦争で亡くしたことになる。
これが満洲に渡った赤木春恵の終戦と戦後であった。
(註) このように、哈爾浜で一緒に芝居をしたという藤山寛美と赤木春恵は、同じ時期に葫蘆島にもいたわけで、おそらく同じ船か、また前後して内地に引き揚げてきたと推測されるわけだが、どういうわけか、その年が違っている。寛美は昭和22年10月と書き、赤木は昭和21年10月と述べている。どちらかの記憶違いではないかと思うのだが、この点はここでは保留にしておきたい。 2021年12月12日 記