ブログ・エッセイ


加古川市、菅原洋一、岡村よし乃、岡村正治、五十嵐喜芳、「みかんの花咲く丘」

10月9日(2021年)の記事で加古川散策のことを書いたのだが、その数日後の12日、夜のNHK歌謡番組に、たまたま加古川出身の菅原洋一が出演していた。なぜ菅原洋一が加古川出身と知っているかというと、わたしの母親のよし乃が加古川の出身で、この菅原洋一がたいへんに好きだったからである。
番組では、石丸幹二とデュエットで「知りたくないの」を歌った。菅原は1933年生まれで88歳だそうだが、その歌唱にひどい衰えもなく、その歌声は大したものだった。音楽大学の出身だが、もともとそんなに声量をあげて歌うタイプではなく、しみじみと歌う歌手だったから、年齢による歌唱の衰えは、そんなに感じさせないということもあろう。
番組の中で、30歳には30歳の歌が、80歳には80歳の歌がある、というのが菅原の持論だと紹介されていたが、その通りだろう。歌手によっては、自分の持ち歌を、ヒットした当時とは大きく違えて、いまの年齢によるアレンジで歌うこともあって、それはそれで興味深いことなのだが、この菅原の、年齢や時代に逆らうことなく、年月の流れに任せて歌うという姿勢もじつに好ましく、見習うべきところがある。
菅原は、当時、シャンソンのエンリコ・マシアスの曲も歌ったりしていて、シャンソン好きで岸洋子の大ファンだったわたしも、菅原洋一は好きだった。
母親は、もちろん自分が加古川出身ということもあったのであろうが、こうした、なんというか、正統派の歌謡というか、オーソドックスな歌唱が好きだった。テノールの五十嵐喜芳も好きだった。朝に洗濯物を干すとき、はいつもNHKの朝のクラシック番組をラジオで鳴らしていたような記憶がある。
ちなみに父親の正治は、そんなに音楽を聴いていたという記憶はないが、広島県の三原の家にはいわゆる電蓄があった。愛知県東海市の家にもパイオニアの大きなセット物のステレオを買っていた。そういえば手回しの蓄音機も持っていたから、若いころから音楽はよく聴いていたのかもしれない。酔うといつも、「みかんの花咲く丘」を歌った。終戦直後の歌だそうだから、父親が子どものころに聴いた歌というわけでもないのだろう。
父親は転勤で広島県の三原に住み糸崎の三菱重工に勤めていたから、白くて愛らしいみかんの花が咲く丘の向こうの、船が航行している瀬戸内海が好きだったのかもしれない。はやくに父親を亡くしてて苦労して育ったようだから、「何時か来た丘母さんと 一緒に眺めたあの島よ 今日もひとりで見ていると やさしい母さん思われる」という歌詞に、心の奥で泣いていたのかもしれない。
2021年10月14日 記