ブログ・エッセイ


ジャズ喫茶、「ファンキー」、「キューピット」、「ボレー」、大阪、村岡、中村典男、アート・ブレーキ―、アフリカンビート、天王寺、「ムゲン」、「トップシンバル」、「四分休符」、時代遅れ

大学に入った1967年の夏、兵庫県但馬の村岡町のおじの家に遊びに行き、半月ぐらい過ごしたことがあった。村岡から京都への帰りは、全但バスで八鹿へ、そこから国鉄で京都に向かう。
この夏に京都へといっしょに帰ったのは、村岡のおじさんの家の近くに住んでいる中村典男さんだった。何年か年上で、たしか天理大学の学生だったと思う。八鹿からは準急だったか急行だったか但馬号に乗車した。大阪でいっしょに降車したから、播但線経由だったのだろう。
大阪駅で下りて、梅田のジャズ喫茶に連れて行ってもらった。はじめに行ったのは「ファンキー」である。ここで、中村さんは、アート・ブレーキ―の「アフリカンビート」をリクエストしてくれてそれを聴いた。これがわたしの初めてジャズで、ジャズが好きになったきっかけとなった。
熱情にあふれた強烈なリズムで刻まれるブレーキ―のドラムと、アフリカの哀愁漂うメロディがマッチして、いっぺんにジャズが好きになった。これで音楽に関しては、中学校から好きだったクラシックと、高校生終わりごろ蘆原英了の名調子名解説の「午後のシャンソン」から聴き始めたシャンソン、そしてこの梅田で聴いたジャズの三本柱で、以降はずっと音楽好きでやってきた。
「ファンキー」で何曲か聴いたあと、この近にかたまっていたジャズ喫茶「キューピット」「ボレー」と梯子をした。夜も更けて終電もなくなり、結局OS劇場にはいって、オールナイト上映の「華麗なる賭け」を観て夜明かしをした。そして早朝に中村さんと別れてわたしは京都の下宿に戻ったのだった。
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大学を卒業して、大阪府立図書館の司書の職を得たわたしは、淀屋橋の中之島図書館の配属となり、ここから梅田も近かったことから、この「ファンキー」にはよく通ったのだが、ほどなく閉店となったように思う。ちなみに曽根崎警察署の近く、御堂筋から曽根崎通りに抜ける道あたりに、どこかの会社が「余技」で出しているレンタルビデオの店があった。この二階は、まことにマニアックな品ぞろえで、ここにはシャンソンやジャズのビデオがそろっていた。シャンソンの「オランピア劇場のバルバラ」や「真夏の夜のジャズ」を借りてダビングした覚えがある。利益は度外視で、なんだか、コレクションという風情の、うれしく得難いレンタルビデオ屋だった。ここもほどなく閉店した。
中之島図書館に7年勤めたあと、同じ府立の夕陽丘図書館に異動となった。この図書館は、天王寺駅まで歩いて15分ほどの立地なので、天王寺界隈のジャズ喫茶にはよく行った。
天王寺ステーションビルの北側、ヒルサロの店の東の「ムゲン」。細長い店で、奥の線路側にスピーカーが置かれてあった。ここは落ち着く店で、ずいぶん長居をさせてもらった。
当時の勤務は土曜日が半ドンだったことから、土曜の午後によく出かけた。ある日の午後、ジャズを聴こうと出かけてみると、店の入り口に、エリック・ドルフィ―の「OUT TO LUNCH」のジャケットが掛かっている。そうか、昼飯に出てるんだなと思い、引き返した。そのすぐ後にもう一度出向いても、また同じジャケットが掛かったままになっている。そこでわたしはようやく気が付いたのだった。閉店したんだ、と。
いま考えてみると、店を開けていて、昼飯に出るなんてことはまず考えられないわけなのだが、あの時代、そんなこともあるんだと思ったのだろう。「OUT TO LUNCH」のジャケットが掛けられてあって、「いま店は閉めているが、すぐまた戻ってくるよ、ちょっとお昼を食べに行ってるだけだよ」とそんな気持ちだったのだろう。この「ムゲン」マスターの洒脱なやりかたに、わたしはみごとに引っかかったのだった。
天王寺の環状線や関西線をまたぐ橋の西側の南詰に、「トップシンバル」と言う店があって、ここにもよく通った。ビルの地下にあり、細長くて狭い店で、男前のマスターがボリュームを上げてレコードをかけていた。昼には厚切りパンに蜂蜜とバターをぬった「モーニングメニュー」があったから、わたしは、勤務の昼休みの一時間のあいだに、図書館備え付けの自転車を駆って天王寺に走り、店に入って厚切りトーストを食べてジャズを聴き、1時ぎりぎりの勤務開始時間に図書館へと戻って仕事をした。
もう一軒は、阿倍野銀座にあった「四分休符」。阿倍野筋を西に入って、途中斜めに曲がる角にあったと思う。CDがよくかかっていたから、時期的にはすこし後のことかもしれない。CDをかけるなんて、ジャズ喫茶にしては珍しいなと思った記憶がある。割に明るくてまたけっこう広い店で、いわゆるジャズ喫茶という感じではなかった。ここに行くといつもドリアを食べた。何度か行ったが、阿倍野再開発で立ち退きになったといううわさを聞いた。マスターは小柄でネクタイをしていたように記憶するが、定かではない。
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後藤雅洋『ジャズ喫茶・リアル・ヒストリー』読んでいると、1972年に発表された、チック・コリア「リターン・トゥ・フォーエヴァー」あたりでジャズも大きな転機を迎えたとある。そのとおりなのだろうと思う。時期的に見て、わたしが天王寺のジャズ喫茶に通っていた時代、とりわけ阿倍野銀座の「四分休符」などは、そうした過渡期の、またその後のジャズ喫茶だったのであろう。わたしは依然としてハードバップ系のジャズを好んで聴いていた、というより、家にあるそんな系のレコードばかりを聴いていた。わたしなど、やはりどこか取り残された存在だったということかもしれない。
これも夕陽丘図書館時代のことだが、谷町九丁目から近鉄上本町に行く通路の北側にジャズ喫茶を見つけ、入ってみた。若いおねえさんが注文を取りに来たので、アルバム名は忘れたが、オーネット・コールマンのレコードをかけてくれ、と頼んだ。聴いているとしばらくしてマスターが帰ってきたのだが、この若いおねえさんに、なんでこんな曲をかけているんだ、と厳しい口調で言うのが聞こえた。おねえさんは、お客さんのリクエストだといささか気色ばんで答えた。マスターは少しバツの悪そうな感じでこちらをちらっと見た。愉快ならざるわたしは、すぐに席を立って店を出たのだった。ここには二度と行っていない。
いまこんな自分のジャズ喫茶体験と、先の1972年のジャズ転機という事態とを考え合わせてみると、オーネット・コールマンが掛かっているのを咎めだてしたあのマスターは、後藤雅洋の言い方を敷衍して言えば、重苦しいジャズの流れる「ジャズ喫茶」ではなく、空の暗雲が散って青空が出てきた、そんなジャズ体験を持った世代であったのかもしれない。その頃わたしは四十歳過ぎだったと思うが、すでに時代遅れになっていたというわけであった。 2021年10月1日記