ブログ・エッセイ


レコードプレーヤ―・平岡正明・ジャズ喫茶・仙台藤崎デパートのジャズ展

30年ほど前に友人からもらったレコードプレーヤ― マイクロDD100が壊れた。10年ほど前にも、回転数が不安定で、ときにターンテーブルが逆回転したりしたことから修理したのだが、修理費も結構高く、また本体が重くて、この歳になると設置も重労働になることから、意を決して手放すことにした。
だいぶ格下のプレイヤーだが、もう一台、テクニクスのものを持っているので、これを代わりに置いた。ためしにレコードをかけてみたが、まずまず聴けるようだ。ただ、レコード盤が劣化していて、刷り切れやキズがひどいものもあり落胆してしまう。プレーヤーは、DD100ほどのものでなくてもいいが、そこそこのものが欲しいと思っているのだが、このレコード盤の状態を考えるといささかためらってしまう。そんなこんなで、このテクニクスのプレーヤーでもってしばらく試してみることになった。
わが家のレコードは、そんなに多くはないのだが、クラシック・ジャズ・シャンソンが中心で、ポピュラー部門もある。ジャズは基本的にはレコードしか買ってこなかったから、ジャズを聴こうと思ったらどうしてもレコードプレーヤーが必要になってくる。あまり劣化してなくて聴けるレコードもあるから、やはりもう少しいいレコードプレーヤーが欲しいものだ。
**
少し前に、仙台のデパート藤崎でジャズ展が開催されているとの情報を、畑友達からもらった。インターネットでみてみると、展示だけでなくレコードの即売もあるという。ちょっと覗いてみたいという思いはあったが、今の状況では、なかなか動けない。
その記事の最後に、この展示企画に協力した「ジャズ喫茶」などの名前も出ていて、その名前の懐かしさもあり、「ジャズ喫茶」の本を読んでみようかと思って図書館で借りてみた。その一冊、平岡正明『昭和ジャズ伝説』、この平岡は、竹中労・太田竜とならんで3人組として名高い人物だ。この本をぱらぱらとながめてみた。
この本自体はたいへんに面白いのだが、ジャズ喫茶といってもそれは東京中心なので、京都のジャズ喫茶になじみのあるわたしなどには、なかなかピンとこないところがある。
それはともかく、この「イントロ」にこんな文章が出ている。
「ジャズは、生演奏が一番だというのはまちがいないが、生演奏はときどき、演奏するやつが邪魔だ。/部屋家聴くと、自分が邪魔だ。/ジャズは、ジャズ喫茶で聴くものだ。」
なるほど、その通りだ、さすが平岡、うまいことをいう。
このことはクラシックでもいえることかもしれない。生演奏はたしかにいい。だがやはりわたしはレコード(CD)派だ。部屋でボリュームを上げて聴くのがいい。自分が邪魔だ、という気分もなんとなくわかる気もするが、こうした哲学的なことはあまり自覚したことがない。
ジャズはジャズ喫茶で聴くものだ、という気持ちはよくわかる。「自分」が相対化されて、音楽に集中できる。だが、ジャズ喫茶も身近にはずいぶん少なくなった。さらに、モダンジャズという言葉に代表されるような、ビバップ系のジャズを好んでかけているジャズ喫茶も少ない。
そうなるとしかたなく、部屋で雨戸を閉めてできるだけ音が外に漏れないようにして、音量を上げて聴く以外にない。それでも住宅地に住んでいるわたしなど、蛮勇をふりしぼっても、ボリュームつまみは「9時過ぎ」まで上げて聴くのが精いっぱいだ。
こうして聴いてみると、平岡の言う、ジャズは生演奏が一番だが、時に演奏者や自分が邪魔、ジャズはジャズ喫茶で聴くものだ、という教えに、数歩は近づくことも可能ではないかとひそかに思っている。 2021年9月24日記