ブログ・エッセイ


須知善一、中岡艮一、中林峯昇、小倉圓平、板祐生、甲斐巳八郎、上田恭輔、甘粕正彦、川端康成、市道和豊

はじめに
戦前期および終戦時に満洲で慰問活動をしていた芸人たちについて、坂野比呂志の回想を軸に少し調べてきたが、そんななかで、大連のペロケ舞踏場に出演していた南里文雄のことが、松原一枝「大連のパトロンとテロリスト」(『大連のダンスホールの夜』所収)に出ていることを知り、それを読んでみた。
するとそこには、終戦を大連で迎え困窮した日本人が手放そうとしていた蔵書のうち文学書を中心に、満洲で政商ともいわれた須知善一が盛んに買いあさったこと、そしてその蔵書の購入を任されたのが、大正10年11月、首相の原敬を暗殺した中岡艮一だったと出ていた。
満洲で集積された蔵書とその行方について関心をもってこれまで調べてきたわたしは、この須知の買い集めたという書物群が、須知の引き揚げ後にどういう運命をたどったのか、例えばそれらは満洲の地で中国側に引き渡されたのか、何らかの方法でその一部でも日本に持ち帰られたのか、はたまた当地で雲散霧消してしまったのか、そんなことに興味を持って須知善一についてもう少し調べてみようと思った。
須知善一については、市道和豊の手になる二著があることがわかった。『満州を駆け抜けた男・須知善一』(室町書房 2010年)、『満州の曠野に非ず』(室町書房 2012年)である。ところがこの二冊の本、国立国会図書館にもなく、京都府立にも所蔵がない。大学図書館にもなく全国の府県立図書館にもどうも所蔵がないようなのだ。なぜか京都市立右京中央図書館だけがこの二冊を持っていることが分かった。コロナウイルスとかでなければ、勇んで見に出かけるところなのだがそうともいかず、地元の京田辺市図書館北部センター図書室経由で取り寄せてもらうこととした。
この市道の二著を読んでみて、須知が、蔵書票や満洲土俗人形など多方面の蒐集家であり、戦後は煙草の包み紙を熱心に蒐集した人物であったことがよくわかった。とりわけ満洲土俗人形については、研究の上でも第一人者であったとのことである。
松原一枝の前著は、松原の体験をもとに小説に仕立てたものであるが、その標題も、パトロン(須知善一)とテロリスト(中岡艮一)と付けられているように、いささか強度の強い論述で、一読してみた限りでは、この須知という人物には好感を持てないような書きぶりだった。確かに須知は、満洲で軍部や組織の中枢部人物に食い込み太いパイプを築いて富を築いた政商であった。そんなことから、金に任せて趣味の品々を蒐集したと誤解されがちだ。松原の本を読むかぎりではそんな印象を持たざるを得なかった。
しかしながらこの市道の文章を読んでみると、そんな印象はぬぐいさられ、満洲時代に中枢部に食い込んで富を築いたのは事実であっても、須知は根っからの蒐集家であったことがよく理解でき、蒐集に関しての、その性格やスタンスもよく了解できた。いい勉強をさせてもらった。それも、著者の市道自身が蔵書票などの蒐集家で、蒐集家の心持ちによく共感できていること、そして須知の事績について、彼自身が集めた資料というか、蒐集品をもとにして書かれていることに起因しているからであろう。その論述は確実で手堅く、よく説得させられる。各地の図書館などになぜ所蔵がないのか不思議なほどだ。労作であると思う。
さて、この須知善一については、この市道の須知善一論に付け加えることは何も持っていないのだが、満洲時期および終戦時大連の須知について興味をひかれたことから、その時期を中心に須知の活動を市道の著作から書きぬいて、わたし自身の学びのよすがとしておきたいと思う。
注記のないものは市道の論緒に拠るが、須知の長女の家に遺された資料をもとに上田利男の編輯した『須知善一のけむりの細道ーある郷土色研究家の生涯』(2014年)も見ることができたのでそれも参照している。

Ⅰ. 満洲の須知善一
少年期・青年期
須知は明治30(1897)年6月に京都丹波の亀岡で生まれた。亀岡尋常高等小学校を卒業後大阪に出て、大阪天満の乾物澱粉雑穀商加藤商店に勤めた。明治45年4月から大正7年12月までという。勤め始めたころに一年間大阪福島私立大阪外国語学校に通った(上田利男前掲書)。須知はその後、大阪朝日新聞の青賢肇に趣味蒐集の楽しみを教わった。青賢肇(太治郎)は、森田俊雄によれば、主として新聞の蒐集家で、娯美会や集古会などに参加した好事家である。大阪府立中之島図書館には、賢肇の日記『苔瓦堂日録』(明治 42年 1 月 1 日~大正10年 12 月 31 日 計16 冊、和綴)が残されてある(森田俊雄「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉(承前)浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡」『大阪府立図書館紀要』38号 2009年3月)。
須知は、弱冠16歳ほどの大正2(1913)年ごろ、勤務の商店の仕事で、北海道から満洲奥地までを行き来し塩マスを売りさばいていた。商才があったということなのであろう。大正3(1914)年から哈爾浜に居を置いて三年ほど住まう。一〇代という若さで満洲に拠点を持ち、日本と現地とを行き来して商売をしたことになる。大正7年12月に独立、大連加藤商店および漢口嘉泰洋行などの代理店となった(前掲上田)。
大正8年には、三田平凡寺(みた へいぼんじ、本名は林蔵)の結成した蒐集趣味の会である我楽他宗に入り、第26番札所臨我山極道寺須知峡風を名乗った。日本蔵書票会で活動する。なおこの三田平凡寺は漱石の長男純一夫人嘉米子の父親である。

大連の澤田組に移籍
大正10年には哈爾浜に泰東洋行を設立し、日本と中国、満洲を股にかけて海産物や穀物を売りさばいていた須知だが、大正15(1926)年10月には大阪を引き払って大連市越後町の澤田組に移籍している。
澤田組というのは、明治38年5月に澤田賢太が、大連西通りに創設した会社で、のちに越後町に移った。当時は陸海軍の御用達の会社であったが、軍が引き揚げたのちには輸出入の貿易商としてシフトさせて成功し、輸出は内地・台湾・南洋、輸入は北海道の海産物のみを扱うことで莫大な利益を上げた(『記念誌 大連開業二十年聯合祝賀會』遼東新報社 大正13年)。この『記念誌』には、澤田の事績と写真、越後町の三階建て社屋の写真が載っている。
はじめに社屋を置いた大連西通りというのは、大連大広場にある地方法院と朝鮮銀行の間を西にのびる大通りで、のちに移転した越後町は、地方法院と英国領事館の間を南西にのびる通りあった。いずれも大連の中心部に社を構えて営業していたわけである。
澤田組には、大正8年入社の中林峯昇(本名重雄)がいた。中林も須知の勧誘で我楽他宗に入り、大連別院第一札所として息子山遊蕩寺を名乗った。中林は明治37年生まれで、淡路島の出身、趣味範囲は骸骨と手拭いで、大連を本部とする美蘇芽会を組織した。昭和4(1929)年1月には大連の三越で美蘇芽会主催の手拭い展を開催している。三越は大連駅前の常盤橋にほど近く、連鎖街の向かいにあった。なお美蘇芽会の会誌は『佳芽乃曽記(かめのぞき)』である。

満洲を回って蒐集にいそしむ
須知は昭和6(1931)年ごろ結婚して摂津町23に住んだ。夫人はなかといい、昭和15年刊の『満洲土俗人形』に「お人形の保存」を書いている。蒐集は須知の影響であったろうが、同好の士でもあった。この須知の自宅の摂津町は、会社のある越後町の南に隣接する町で、会社にほど近い繁華な区域である。洒落た二階建てであったという。この一階二間が須知の玩具部屋と書斎で、そのおびただしい数の玩具と蔵書の様子が上田前掲書に所収の小野正男『民族玩具叢書7巻 戦線玩具報告』(昭和18年)がうかがえる。
須知は昭和6年9月、中国人一人を同行して新物を視察するため満洲各地域を回った。このとき、各地域で旅行記念スタンプの押印にも勤しみ、内地の同好者に頼まれたものまでも含め5、6人分も押して回ったという。この満洲遊覧記念スタンプを押した局は、大連・旅順・遼陽・鞍山・奉天・鉄嶺・長春・撫順・安東の九局にのぼった。
昭和8年の7月23日から8月31日まで、大連市西方の聖徳街白雲山下埋立地で満洲大博覧会が開催されたているが、この博覧会には土俗館が設けられて満洲郷土玩具が陳列された。土俗館には64名の出品者が1,135点を出品している。大連市役所や大連工業博物館、大連図書館などの機関からの出品にまじって須知も多くの点数を出品している(『大連主催満洲大博覧会誌』1934年)。
この年7月には、シカゴ大学教授の人類学者フレデリック・スタールが、16回目でこれが最後となる訪日を果たし、足を延ばして満洲にまでやってきた。「お札博士」と称されたスタールは、土俗玩具の蒐集家でもあったことから、満洲では大連別院の中林らの歓迎を受け、その後、奉天・新京・哈爾浜を回り、吉林・敦化から京城経由で日本に戻ったのだったが、8月11日に病を得て死去している。

満洲土俗人形研究の第一人者として
須知は昭和9年2月、『満洲郷土玩具点描』を満洲文化協会から刊行している。版元の満洲文化協会というのは、その前身を満蒙文化協会といい、のち中日文化協会、そして昭和7年4月には満洲文化協会と改称された団体で、雑誌『満蒙之文化』のちに改題した『満蒙』を刊行した。この満洲文化協会は、大広場の東方、満鉄本社・本社分館、大連図書館など満鉄諸機関が建ち並ぶ東公園を過ぎて、路面電車軌道を北に曲がったところにあった。満洲日報・満洲実業協会などと並んで建っている。須知は、この半官の協会から著作を出版したというわけである。
昭和9(1934)年には奉天在住の陶芸作家小倉圓平との交友が始まる。圓平(初代)は淡路島の出身の陶芸家で、大正10(1921)年に満洲へと渡り、奉天の東洋煙草の図案部長となった。圓平は奉天の自宅に圓平陶苑を開いて満州土俗人形(圓平人形)を創作した。圓平についても市道の著作に詳しく述べられてある。たまたま筆者架蔵の写真葉書「奉天 小西門出口」のその下部に「圓平人形」と三体が載っていて、圓平の略歴は知っていたが、こうして須知との関りがあったというのは初めて知った。
この昭和9年の暮れには、鳥取の板祐生に対し、『満洲・支那玩具図誌』を共著で刊行しようと持ち掛けている。そんな手紙や原稿が「祐生出会いの館」に残されてあり、草稿は「満洲文化協会」や「満鉄社員消費組合」の原稿用紙に書かれてあるのだという。このころ須知がどんな雑誌に原稿を書いていたかがよくうかがえる。
板祐生は鳥取県南部町の出身で、小学校の教員をしながら郷土玩具を蒐集し、またそれを孔版画にして全国の同好の士に送った。戦後は役場に勤めている。南部町の「祐生出会いの館」は板の蒐集品を数多く保存し展観している博物館である。この博物館の存在も市道の本で知った。こうした郷土にゆかりの人物の事績や蔵書・収集品などを保存し公開していくという活動は貴重である。採算という経済効率ではけっして測れない、文化の根幹に根ざした「もの」であり「こと」である。機会を見てぜひとも訪問してみたい博物館である。
なお須知は、昭和10年6月号の『月刊満洲』に、「撫順城の持つ魅力」という文章を寄せている。編輯長の城島舟禮とどのような関係かは知れぬが、ふたりとも満鉄と強いつながりを持っていた人物だから、どこかで顔を合わせていたことは予想できるところだ。
昭和11年の年賀状交換会絵葉書に須知は甲斐巳八郎の絵を採用した。それは昭和19年まで継続する。甲斐巳八郎は明治36年熊本生まれの画家で、京都市立絵画専門学校本科を卒業ののち、昭和5年に渡満し満鉄社員会報道部に勤務した。西広場から南に延びる近江町の関原ビルに住まい、『協和』の編集に携わり挿絵も描いた。社外での日本画家としての活動も旺盛で、満洲郷土色研究会を創設して絵画制作に励んだ。須知は甲斐の作品を百点ほども買い上げ、いわば甲斐のパトロンという存在でもあった。この甲斐も大連で終戦を迎えて昭和22年に引き揚げている。
須知は、昭和11年8月から翌年3月まで満鉄社員会の機関誌『協和』に「満鉄郷土玩具案内」を連載した。それは昭和15年刊行の『満洲土俗人形』(満洲郷土色研究会)に収載され刊行された。この『協和』への寄稿は甲斐との関係からのものであったろう。こうして須知は、名実ともに、満洲郷土玩具研究の第一人者となった。
こののち、須知は川端康成に惹かれ著作を収集していく。稀覯本までも集めたというが、好事家・蒐集家としては当然のことであったろう。
須知が川端文学に惹かれてその著作を収集し始めたのはどういった理由によるのであっただろうか。そのことを市道はつぎのように推測している。須知が軍部や行政組織に食い込んで富を築き、経済的にも趣味的にも順風満帆になったとき、ふとこのままでは自分は堕ちていくのではないか、それを押しとどめるためのなにか「安全弁」というものが必要なのではないかと考えたこと、それを「純文学」また「川端康成」に求めたのではなかったかと述べている。甲斐のパトロンになったのも、同じような嗅覚が作動したのではないかとも論じる。
昭和19年、大連の須知邸を訪れた松原一枝は、書架に文学書が整然と並び、川端康成の本など手に触れることも憚れるようなたたずまいで並んでいたと述べている(『大連ダンスホールの夜』)。そのことも、須知が、川端を愛読するというより、その著作をふくむ文学書の蒐集が、自分自身を支えるいわば守護神と考えていたということをよく示していると思う。

満洲農産公社
昭和14年秋、須知は満洲の奥地で肝臓ジストマにかかり、大連にもどり療養する。そのとき軍医少尉で玩具の蒐集家でもあった小野正男の訪問を受けている。須知は話術がうまく、人を飽きさせることがなかったという。この頃住居を摂津町11に移していたが、それは和風建物で実に凝った造りであった。昭和16年、川端康成は4月・5月そして10月・11月と満洲に渡っているがそのいずれの時期かに須知は川端に会っている。そこで須知は川端に、名品の端渓の硯を見せたという。
ちなみにこの春の川端の渡満は村松梢風が同道だった。創元社から話のあった『満洲国各民族創作選集』の満洲側との打ち合わせを寛城子の喫茶店ポポフでおこなっている。この本の装釘には、川端により甲斐巳八郎の図案が採用され、昭和17年に第1巻として刊行されてた(北村謙次郎『北邊慕情記』)。
満洲国は、昭和12(1937)年12月の満鉄沿線附属地の治外法権撤廃を経て国家統制をますます強化していく。昭和16年8月には、特産物の流通の円滑な流通を図るため三社を統合して満洲農産公社を成立させた。この公社の創設により特産物はすべて特約集買人を経由することとされたが、須知はこの公社の役職についたとされる。須知は、その特約の商人として大きな富を築いていったというわけであろう。こうした安定した経済基盤の上に立って、須知は満洲民俗人形などの趣味のものを蒐集し、原稿を執筆し、また放送番組に出演するなど、いそがしく動いていたのであった。
この時期、須知は5万点の満洲玩具を扱い、本人は蒐集品を1万点持っていた。そんな須知の満洲での郷土玩具蒐集の協力者として、渡辺惇太郎がいた。同郷で14歳年下、昭和16年現在、日本海上保険哈爾浜出張所の勤務であった。須知とは満洲土俗人形の蒐集で知り合い、渡辺は満洲奥地での蒐集に協力した。戦後になっても須知と付き合いがあり、煙草クラブに参加し、ともに全国大会に参加したりした。
戦後須知は満洲民俗人形に興味を失って煙装に移行したが、渡辺は依然として満洲民俗人形の蒐集を持続させ、コレクションを形成していった。この蒐集品の行方だが、渡辺死後、天理参考館に収蔵の話を持ち掛けたところ断られたといい、現在は、「嵯峨野・人形の家」に収蔵されているようだと市道は推測している。
ところで、須知の満洲における最初の強力な人脈は、満鉄の幹部で言語学者の上田恭輔であったとされる。上田は夏目漱石や徳富蘇峰とも交友のあった人物で、陶芸などにも造詣が深く博覧強記の人物であった。昭和2年の『満洲紳士縉商録』によれば、上田は明治4年生まれ、東京市の出身で、アメリカのコーネル大学において梵語および比較言語学を学んだ。のち英国でも学んだが、台湾総督府の内意を受けてパリで植民地政策を研究したりもした。明治35(1902)年8月には台湾総督府覆審法院事務嘱託となり、明治38年関東州民政署官房附となる。満鉄創設後には在官のまま満鉄に入社したが、一年ほどで官を辞して正式に満鉄社員となり、後藤新平の時代から代々の社長室秘書役を務めて。植民地経営の専門家としておおきな力を発揮した。
その後の須知の強力な人脈は甘粕正彦であったろうと市道は述べる。原敬暗殺事件で終身刑の判決を受けた中岡艮一は、三度の恩赦・特赦の積み重ねで昭和9年には出獄しているのだが、この中岡を満洲に呼び寄せ、世話をしたのが甘粕でり、また中岡と接点のなかった須知が中岡とあい知るようになったのは、甘粕の紹介があったからであろうという。中岡は安東省荘河県で免囚保護委員長をしていたが、須知は中岡を使って、満洲各所での穀物の買い付けや満洲玩具蒐集を行ったとされる。
このように、上田恭輔といい甘粕正彦といい、須知は強力なコネクションを持って、満鉄や満洲国、また関東庁(昭和9年以降は関東州庁)に深く食い込むことができたのであった。昭和17年には、『苦力素描』『満洲土俗人形』を石原莞爾に送って礼状をもらったこともあるのだが、須知は自身の性格と相まって、こうした強力なコネクションを駆使して富を築き、満洲玩具などさまざまな趣味のものを蒐集することができたのであった。

終戦時大連の須知
昭和20年も半ばとなる。軍や役所などに食い込んでいた須知は日本敗戦の情報をいち早く入手した。そんなことから、摂津町11の住居から、大連市北方の海岸夏家河子の別荘へと大量の美術品や蔵書、財産を疎開させている。
そして8月15日、大連で終戦を迎え、ソ連軍が進駐してくる。すると須知は、自分の別荘だけでなく他の個人商店の隠匿物資や軍の秘密貯蔵庫までも通告したとされる。その結果、ソ連軍の庇護を受けたのだという。商売で培ってきた瞬時の判断力と、変わり身の早さのなせる業であったのかもしれない。須知は大連の地で、大連治安維持委員会顧問に就いている。
終戦時の混乱のなか、満洲の趣味仲間であった富士崎放江の次男勇吉は、終戦時満鉄の北方地域の駅長だったというが、ソ連軍の進駐の中で銃殺された。勇吉は、須知の満洲玩具の運搬などに助力した人物であった。それまでの須知の行状を考えれば、須知は危ない立場にあったわけだが、終戦時、こうしてなんとかうまく切り抜けることができたとはいえるであろう。
終戦を迎えた大連にあって、経済的に少しは余裕を持っていた須知は、中岡艮一を使って、大連在住日本人所蔵の文学書を買いあさったといわれる。川端康成の文学に傾倒していた須知は、蔵書のうち、文学書を中心に買い集めたのである。そんな買い上げをして保蔵するということも、ソ連軍や船舶会社などに対し、須知の人脈の力により、蔵書を日本に持ち帰れる目論見を持っていたからであった。
終戦時、満洲国国都の新京の地で、日本人の蔵書や美術工芸品などを収集し、目録を作成して中国側に手渡して内地に引き上げた組織として「文化財処理委員会」というのがあった。そのことについては以前わたし図録にまとめたことがある(『資料展示図録 終戦時新京 蔵書の行方』など)。その委員会のメンバーは、満日文化協会常務理事だった杉村勇造や三枝朝四郎、満洲国立博物館副館長の藤山一雄、満洲国立中央図書館籌備処長瀧川政次郎、建国大学助教授高橋匡四郎らであった。
この文化財処理委員会の目的は、書物や絵画・工芸品などの文物を内地日本に持ち帰るというものではなく、それら文化財を、まずは破壊や消失から保全し保存するということであった。それは、かれら研究者の本性に根差したものであったといえる。そしてその前提には、これら資料・文物は引き揚げにあたっては持ち帰れないこと、また持ち帰るつもりもなく、戦後に中国側で保存されればよいという意識がその根底にはあった。
須知の場合はこの委員会の活動とは異なり、それはいわば好事家の蒐集であり、その根底には、蒐集品を「私する」という気持ちが強かったと思われる。そしてそれに加えて、須知の場合は、蒐集した書物などを内地に持ち帰ることができるという目論見もあったのである。
ここで急いで言っておかねばならないが、この「私する」ということは、決して悪い意味で言っているのではない。それは蒐集家に特有のものである。財閥のトップらが、美術品や稀覯本を蒐集し、それをひとまず「私する」ことで、あるまとまりを形成し、後にコレクションとして遺され、その結果わたしたちもその恩恵にあずかる、という事例も枚挙にいとまがない。
大連で、須知が文学書を買い集めたのも、新京(長春)で文化財処理委員会が書物や美術品を買い集めたのも、そのいずれも、終戦時に当地で終戦を迎えた日本人が、生活に困り、持て余していた蔵書などを手放したという状況下のものである。蔵書を買い集めたというこの二つの行為および活動は、両者ともに、日本人から安く買い集めて収集し集積していったものなのだが、その動機を全く異にしている。そして引き揚げにあたって、それぞれの蔵書の行く末も違ったものとなった模様で、まことに興味深い事例となった。
注記:上田前掲書には、松原一枝の『大連のダンスホール』などの記述を批判する文章の中で、須知の息女よし子氏が、「身近にいて父が書籍をかいあつめていることなどありえなかった。それは中岡さんが研究書を買い集めていたのを父がときどき助けていたことをいっているのではないか」と述べている。このあたりの詳細は不明である。

戦後
須知は、昭和23年7月大連から引き揚げ、8月に亀岡に落ち着いた。この引揚げに際して須知は、何か強力な伝手を使って書物を持ち帰った模様である。各所で「須知文庫」の蔵書印の押された書物がみられ、また流通しているからだという。外地から個人が引き揚げる場合、通常は荷物ひとつで。文字通り、着の身着のままでの引揚げであった。もしも須知が買い集めた書物の、たとえ一部でも持ち帰ったとしたら、それは何かよほど太いパイプをもっていたということになろう。
戦後の須知の趣味は、煙草のパッケージ(煙装)の蒐集であった。「煙装クラブ」に参加して活動している。晩年は茨木の長男の家に住んだ。体調も思わしくなかったようである。昭和48年、須知は大阪府立図書館(中之島図書館)にでかけ、郷土資料室で嘱託職員だった肥田晧三と歓談し、肥田に対し、現在は煙草関係のものを蒐集していると語ったという。
当時の大阪府立図書館の郷土資料セクションは、まだ郷土資料課に昇格する前で、整理課の下に郷土資料室として位置づけられていた。その責任担当は多治比郁夫氏、そして肥田氏は嘱託職職員であった。多治比氏および肥田氏の豊富な知識のもとに、スタッフともども大阪本屋仲間記録の翻刻に当たっていた充実の時期である。肥田晧三は、名うての資料蒐集家であり、そんなこともあって、須知は打ち解けて話をしたのであろう。
須知は昭和50年ごろから須知氏同族の『須知史考』の刊行に協力した。しかしながら須知は、この5、6年後、その刊行を見ることなく亡くなったのであった。
(2021年1月4日 記)(2023年11月6日加筆)
〈補記〉市道和豊の二著の巻末に「参考文献」が載り、趣味の雑誌などを別にすれば、国会図書館(関西館)などでもみられる資料がある。機を見て閲覧に出向いて、分かったことなど、この原稿に書き加えてまいりたいが、とりいそぎここまで、市道の労作をわたしのメモとして書いたものをアップしておきたい。