ブログ・エッセイ
奈良女子高等師範学校、奈良女高師、大陸修学旅行、満鮮修学旅行
はじめに
以前にこのブログで、大連を舞台とした井上ひさしの戯曲のことを書いた(2018年4月29日)。慰問のため大陸に渡った6代目三遊亭圓生と5代目古今亭志ん生が、終戦となり大連の町で足止めとなって帰国できず大連で暮らしたのだが、それを素材に描いた「円生と志ん生」、同じく大連の町を舞台にした「連鎖街のひとびと」である。後者の「連鎖街のひとびと」には、市川新太郎という、元役者で満洲国文化官僚の人物が描かれていたことから、新京という都市と大連、また清朝の陪都奉天のことを思い起こし書いたものだった。
じつは満洲国時代の都市比較について、ノートルダム女子大学の時代、学科のブックレット『比較古都論』に、「古都と新都-満洲国 奉天と新京」を書いたことがある(このサイトの「収蔵庫」にある)。これは、2008年1月31日の京都ノートルダム女子大学人間文化専攻「第一回文化の航跡」研究会で報告した「満洲国期の〈大連・奉天・新京〉三都比較論―創出された文化資源の諸相から」をもとにしたものであった。
大連や瀋陽(旧奉天)、長春(旧新京)には、満鉄および満洲国時代の、いわゆる「遺された蔵書」を調べるため2、3度と図書館を訪問したことがある。午後5時には閉館するから、まだ明るい街を、バスを利用してずいぶん歩いたことから、少しはその空気感も記憶にある。
この「古都と新都」を書いたちょうどその頃は、京都大学人文科学研究所での近代古都の研究会に参加していて、高木博志氏だったか他の方だったかの報告のなかで、奈良女子高等師範学校が毎年大規模な修学旅行を実施していたこと、その報告書が、奈良女子大学に文書として残されていることを教えてもらっていた。
最近そのことを思い起こして、奈良女子大学のアーカイブを見てみてみた。するとその「校史関連資料」のなかに、「第一期生修学旅行」(大正元年)とあわせて、昭和14年度の「大陸修学旅行」が上がっていることがわかり、「教務事項」と共に、4年生の報告手記を読んでみた。昭和14年といえば、昭和12年12月の満鉄附属地の行政権移譲を終えて一年半ほどの時期である。満洲国にあっては、建国後のある画期をなしていたちょうどその頃だ。今回は、この女高師の教務課による旅行概要と、文科四年生徒の手記をもとに、どのような地域や史跡、建物を見学したかを、少し長くなってしまうが、書きつけておこうかと思う。
大陸修学旅行
奈良女子高等師範学校は、昭和14(1939)年8月21日(月)から9月7日までの17日にもおよぶ大陸修学旅行を敢行した。ちなみに第1回の修学旅行は大正元年(1912)年10月28日~11月16日まで、信州および関東から東京への、延べ20日間の旅行であった。
この旅行は修学旅行といっても、期間も長く本格的な研修旅行であった。ここでは、教務課資料から、大陸修学旅行の日程と訪問地および満洲を中心に訪問した史跡や建物を示し、そこに生徒の手記により補記しながら述べてみたい。そして生徒がどのような感想を持ったかを見ておきたいと思う。なお見出しは、アーカイブにあるものであるが、記載のないものは、便宜上わたしが付した。
旅行の手配は、満鉄大阪鮮満案内所(大阪市東区堺筋安土町)であった。引率教員は5名、参加生徒は、第28期生の文・理・家事科第4学年、うちわけは、文科24名中17名、理科22名中13名、家事科47名中37名で、全体の参加率は7割2分ほどである。日程を追いながら述べていくと次の通りである。なお資料には「生徒」とあるのでここでも生徒と呼称して書く。
8月21日(月) (寄宿舎から敦賀へ、敦賀港から出航)
7時寄宿寮を出発、奈良駅から京都、米原を経て敦賀へ。ここで敦賀気比神宮に参拝の後、16時13分発のはるびん丸で敦賀港を出航。女高師生徒は全員洋装、これは「未曾有」の出来事であった。
出発にあたって生徒の手記には、芭蕉は道祖神の招きにあって奥羽漂泊の旅に出たとおなじように、大陸の呼び声を聞き、行かずにはいられない思いで大陸に向かう、とその意気込みが語られる。
8月22日(火) (終日船中、満洲移民協会参事の講話)
船中宿泊。船中では、乗船していた神奈川県移民地視察団に対する鈴木虎雄満洲移民協会参事の講話を視察団といっしょに聞いた。
8月23日(水) 清津から牡丹江へ
3時半起床。朝食をすませて6時に清津(北朝鮮北部の咸鏡北道)に上陸。港で、弥栄村へ移民として入植する一行が、整列して君が代を歌い宣誓をしている光景に出会う。生徒たちにとっては、時代や時局というものを肌で感じる最初の出来事であったと言えよう。
市内の清津神社参拝、清津港見学、商工会議所で佐保会員の茶菓接待を受ける。佐保会というのは大正 3(1914)年に奈良女高師校第一期卒業生によって結成された同窓会で、以降もよく登場するが、奈良女高師卒業生が各地に住んでおり、またこの同窓会の結束も堅かったことがうかがえる。
8時20分に清津駅発を出て、日中を列車の移動。後で述べるが、教務課の「地理的収穫」という報告の2点目に「車窓より見たる地理的景観」というのがあり、この列車移動も研修の一環であった。
車内では会寧あたりまで沿線の実状を詳しく説明してくれる人があり、理解が深まったと手記は述べる。そういった思わぬ助力もあったわけだ。20時53分に牡丹江駅に到着。牡丹江では周防旅館・立花屋旅館・笑福旅館に分宿。
8月24日(木) 牡丹江より哈爾浜まで
5時に起床、6時55分牡丹江駅発。この日も日中をずっと列車移動。途中草原のなかの信号所で列車は停車したきり動かず、車両から降りて一時間ばかり草花を摘む生徒もいた。19時にようやく哈爾浜駅着。モストワヤ街の名古屋旅館(ホテル)に宿泊。
8月25日(金) 満蒙開拓訓練所見学
10時に旅館を出てバスで哈爾浜郊外の満洲開拓青年義勇隊哈爾浜特別訓練所に向かう。午前中は見学と講話、午后は作業所を見学した。時代的には、昭和11年満州農業移民百万戸移住計画、昭和13年に満蒙開拓青少年義勇軍の募集が始まるという時期、ちょうどそんな時期にこの旅行は当たっている。
女高師とっては、開拓義勇軍として大陸に渡った同年代の青少年の訓練を目の当たりにして、その印象は強かったようだ。哈爾浜で、わざわざ1日をついやしてこの訓練所に出かけたのもそうした目的あってこそであったろう。
ここで訓練所を去る前に所長の講話があった。所長は、満洲の耕作地はもうすでにせまい、満洲からさらに北へ西へ、シベリアまで印度まで、と語られたが、そんな講話に感銘を受けたと生徒は述べる。
生徒にとっては、満洲だけでも広大な土地であるのに、さらにシベリア、インドまでと言われたことに驚いたというわけだ。筋金入りであったろうこの満洲開拓青年義勇隊訓練所所長は、日本がアジアの盟主たらんこと、後の大東亜共栄圏への志向を語ったわけである。16時に名古屋旅館に戻り宿泊。
8月26日(土) 哈爾浜見学
8時30分に旅館を出発し、この旅行ではじめて、満洲の都会である哈爾浜市内外を見学した。奈良を出て5日目のことである。
建国記念碑・帝国領事館・哈爾浜神社(下車)・中央寺院・忠霊塔(下車)・志士の碑(下車)・小林向後二烈士の碑(下車)・孔子廟(下車)・極楽寺・露人墓地(下車)・ロバート高地から市街を展望(下車)・伝家甸・松花江沿岸・埠頭公園・ヨットクラブ附近・キタイスカヤをまわる。11時に旅館着とあるから、まことに駆け足の見学である。
忠霊塔や慰霊碑では下車しての参拝であるが、あとは車内でバスガイドの説明を聞いたということなのであろう。前日の訓練所見学に1日を割いていることと比較しても、街の見学はタイトであった。生徒の手記に、忠霊塔や志士の碑、二烈士の碑では、バスガールが叫ぶ様に説明したといい、いささか調子は滑稽ながら、心の引きしまる気持がしたと、正直な感想が述べられてある。
昼食をすませて12時40分に哈爾浜駅に行き列車で新京に向かう。18時39分到着。日本橋通り6丁目の旭旅館に宿泊。日本橋通りというのは新京駅から東南に伸びる大通りで、南広場を経て、旧市街城内の大馬路につながっている。この旅館は、駅前の旭ホテルであろうか。「設備、待遇、食事すべてよろしからず」であった。
8月27日(日)(新京を見学)
8時10分に旅館を出発し関東局へ。視学官大貫正から、満洲に於ける日本人教育の方針などの講義。大貫は茨城師範学校を卒業し大連高等女学校教諭などを経て関東局視学官、こののち在満教務視学官となった人物である。
9時10分には関東局を出て、バスに分乗し、新京市内外を見学。関東軍司令部・忠霊塔(下車)・児玉公園・寛城子戦跡(下車)・南広場・旧国務院・仮皇居遥拝(下車)・清真寺(下車)・満人場(城カ)内・大同広場・満洲中央銀行・新京特別市公署・大同公園・経済部・民生部・専売総局・建設中の動物園概観・中央観照台・南嶺戦跡記念碑(下車)・大同学院・大陸科学院・総合法院・交通部・国務院などで、官衙についてはバス車内から外観を見てまわった。
順天広場など国都新京の建設のため新たに建設された街並みや道路、官庁建造物をみたわけだが、旧市街のかつての「長春」とはまった様相を異にしているのに驚いたと生徒の手記にはある。続けて、新しきものは何時も古きものを無価値であるとして前進しようとするが、それは「珍らしがり屋の漂泊に過ぎない」、真に新しき知性を具へた近代の建設は、古いものから新しいものを捉へ出して生きていこうとするものである、古いものはそれ独自の美しさによつて存在を許されるべきで、新しきものに伝統の光を添へる性格のものであるはずだと述べている。
もちろん国都新京の都市建設を大きく肯定してのものであるが、古きものの破壊ではなく、そこから学ぶべきものを学び、建設にむかうべきだと主張している。書かれてあることはまことに正鵠を得ている。旧市街の古きものである「満人の繁華街大馬路にはその姿があつた」と述べるが、この観察眼は確かなものである。以前にも書いた木山捷平『長春五馬路』は主に戦後が舞台であるが、この旧市街の雑然としながらも豊饒さに満ちあふれた五馬路の暮らしが描かれている。
8月28日(月) (夜行列車で)大連
新京から夜行列車で移動し8時15分に大連に到着。バス3台に分乗し大連市内外見学。山の茶屋で大連の街を俯瞰(下車)・忠霊塔参拝(下車)・大連神社・遺骨大仏・資源館(下車)・星ヶ浦(下車)・露天市場(下車)・支那芝居瞥見・東和長油坊(下車)、碧山荘(下車)、大連埠頭(下車)。
このうち満洲(満蒙)資源館は、満洲の農作物や鉱物、木材・牧畜魚類などの標本が多数陳列されてあり、満洲開発史の縮図ともいうべき施設で、見学を楽しみにしていたのだが、滞在時間がわずかに25分、しかも説明者は不在というありさま、このことを手記の主はずいぶん残念がっている。
夜行列車で新京から大連に入り、そのまま大連市内各所の見学という無理な日程で、一か所でじっくり見学、というのはもともと無理だったといえようか。
16時に錦水旅館に戻り、18時から扶桑仙館で佐保会員による支那料理の接待。満洲各地域に佐保会支部があったということか。いずれにしても、資金的にはかなり裕福な会であったようだ。奈良女高師の同窓会史が2008年に刊行されているようなので、外地の支部など一度調べてみたいと思う。駅近くで(大連の)日本橋にもほど近い信濃町の錦水旅館に宿泊。この旅館は「設備、待遇、食事等すべてよろし」という。
8月29日(火) 旅順
7時10分に錦水旅館を出発し、7時45分大連駅発の列車で旅順へ。9時12分に到着。白玉山骨祠・表忠塔・記念館(下車)・東雞冠山北保塁・松樹山保塁・水師営会見所・二〇三高地などの戦跡および博物館を見学する。手記では、この旅順の日露戦役史跡について多くのページをさいて述べている。やはり内地日本で学ぶ「満洲」というのは、この旅順での攻防戦、乃木希典大将とステッセリ中将との水師営の会見、203高地攻略などを抜きにしては語れないということであろう。「尊い捨石と化した英霊の永遠に安らかならんことを黙々として見守りつゞけてゐる静寂な永遠の聖地」「旅順要塞の敵艦を全滅せしめ、世界五大強国の一に堂々その名を輝した」という叙述は、予備学習をした上の訪問であったろう、若き女高師生徒の素直な想いであったと思われる。17時10分旅館着、錦水旅館に宿泊。
8月30日(水)大連―奉天―撫順(炭坑見学)-奉天
なんと早朝3時に起床、4時に旅館を出て5時10分大連駅発の列車で北上。金州・大石橋・鞍山・湯崗子・遼陽を経て13時8分奉天駅に到着。奉天駅前をざっとながめる。
手記には、この町は大連と趣を異にし、「全くの満人の都市」との印象を書き留めている。整然とした美しさはないが、古くて立派な奉天がうかがえるといい、それは清朝興起以後の「伝統都市奉天」であると、その特質をよく観察している。なお「満人」というのは満洲国に住む漢族・満州族らのことである。
一行はすぐさま撫順に向う。撫順は炭鉱の町である。撫順駅でバスに分乗し、炭坑と市街の見学に出発。旧市街を通って、古城子露天掘、製油工場などを巡回、炭鉱について詳細な説明を聞いている。
手記の学生は、「いい一日だつた」といい「力強いものに身体を押されて一日を送つた」とその感激の様を綴っている。そして、真っ黒の石炭の町でありながら、撫順駅には花壇があり、コスモスが咲き、楡が植えられ、美しいものにあふれているとも附け加える。17時45分に撫順駅を出発して18時55分に奉天駅に戻る。この日も日程はかなり強行であった。江ノ島町の温泉ホテルに宿泊。「設備待遇甚だ不良」。
8月31日(木) 奉天
9時に旅館を出てバスに分乗し奉天市内外を見学。忠霊塔(下車)・博物館(下車)・北陵(下車)・同善堂(下車)・北大営・奉天城内を回り、13時に旅館に到着した。
奉天は、古い歴史を残した古都であったとその印象を書き、それは城内の城壁だけから来るものではない、哈爾浜や新京などと比べて、一種の言い得ない「圧迫の様なもの」を感じたと述べる。後から思い返してみるとそれが、「この都のもつ幾千年の歴史の力」であったと手記の生徒は書いている。コースは忠霊塔や旧蹟の見学ではあるが、この町の雰囲気をこのように敏感に感じ取るその嗅覚は、鋭いものがある。そしてそれは、古都奈良に学ぶ者が現地で獲得した正直な感覚であったといえようか。
ここにある「博物館」とは、洲事変後に湯玉麟の私邸を接収して開館させた満洲国立奉天博物館のことである。その経緯は、『日満文化協会の歴史―草創期を中心に』で詳述した。その博物館で女高師の生徒たちは、「室数二十二」「陳列せる珍宝三千五百点」という博物館を、これを大急ぎで25五分間で回るようにとの理不尽な行程を告げられながらも、熱心に見学している。それら「珍宝」は、洲事変後に、関東軍、満洲国要人、日満の研究者が接収保全し整理した文物であった。
奉天、いまの瀋陽だが、この旧市街の城内には故宮があり、清朝の陪都の趣きもよく残っている。わたしはこの瀋陽は好きな街だし、城内に行くと何か心が安らぐ。また東西南北の各所には塔があり、これらもみな訪れた(「奉天四塔巡覧 遼寧省図書館訪書記 (2008年8月)」、収蔵庫の『戦前期中国東北部刊行日本語資料の書誌的研究』に所収)。
このように一行は、例によって駆け足で市内を巡り、13時に旅館に到着。17時30分に旅館を出て、瀋陽大飯店において佐保会員による支那料理饗応。温泉ホテル宿泊。
9月1日(金) 奉天より安東まで
8時朝食、9時45分奉天駅を出発し安東駅に17時2分着。この日も「車窓より見たる地理的景観」という学習だ。宿泊は元宝旅館と日の出旅館、いずれも待遇等極めて良好。翌日は朝鮮に入ることから、満洲で購入した切手や葉書を清算してしまおうと、みな内地への手紙を書いたのだという。
9月2日(土)安東より平壌へ
8時40分に安東駅を出て列車で平壌へ。手記の主は、「私達の外遊は終りを告げ…、これからは帝国の旅だ」と満洲国から朝鮮への旅に心を新たにする。14時40分平壌駅に到着。白一色の服装に驚く。平壌神宮・七星門・博物館・乙密台・玄武門・永明寺・浮碧楼などを見学。平壌の街は京都とどことなく似ているとの印象を持つ。加茂川にも比べられる大同江の船上で佐保会員から茶菓の接待を受ける。宿泊は幸町の朝日旅館、「設備、待遇良なり」。
9月3日(日)(平壌から京城へ)
11時20分平壌駅を出発、9時間ほどかけて20時30分に京城駅に到着。この日もほとんど移動に費やされる。三重旅館宿泊。「設備などはあまりよろしからず」。
9月4日(月)京城見学
8時30分に旅館を出発しバスで京城府内見学。バスガイドは朝鮮人であった。南大門・朝鮮神宮(下車)・博文寺(下車) ・東大門・経学院(下車) ・昌慶苑(下車) ・同秘苑・総督府(下車) ・徳寿宮李王家博物館(下車)。手記には、バスの車窓から眺めた建物や学校なども詳しくメモをして記されてある。
昌慶苑では、佐保会員の接待でサイダーつき宿のお弁当を食べた。朝鮮総督府博物館では案内人から陳列品についての説明があった。手記の生徒はこれら美術品にはことのほか関心があるようで、仏像など、事細かに印象を記している。総督府中央ホールの和田三造の壁画「羽衣」8枚も見学した。この朝鮮総督府は現在解体され、壁画も撤去されている。
李王家美術館でも仏像や陶磁器など熱心に見学、15時10分に朝鮮ホテルに到着、佐保会員33名による饗応を受ける。ふたたび三重旅館宿泊。旅も最終盤になり、この夜は遅くまで学友どうし「熱誠ある愛国者として世界の情勢を語り合ひ大いに気焔を吐いた」という。
9月5日(火)京城から慶州へ
7時10分に旅館を出て、大勢の佐保会の人たちが見送りに来ていた京城駅を7時55分発の列車に乗車。京城にも多くの女高師の卒業生である佐保会員が住まわっていたわけである。16時16分に大邱到着、乗り換えて18時48分に慶州到着。この日も列車内からの研修。柴田旅館宿泊。純日本式の旅館で「静かにして気持よく待遇又中々よし、一同頗る満足せり」。
9月6日(水)(慶州見学)
8時50分に旅館を出発し、手記の生徒のあこがれだった慶州を見学。これが最後の見学だ。新羅王国の古都慶州は奈良の都とどこか似ていると、そんな雰囲気に浸る。慶州古蹟を見学し、太宗武烈王陵(下車) ・五陵・鮑石亭・鶏林(下車) ・瞻星台・月城・石氷庫(下車) ・雁鴨池・臨海殿・皇龍寺址・芬皇寺(下車) ・博物館。11時50分に旅館に戻る。
午後は13時に出発、バスで仏国寺石窟庵を見学し、19時10分に仏国寺駅を出て21時56分に釜山駅着。23時30分発の金剛丸に乗船、船中宿泊で帰国の途に。「金剛丸は冷房装置あり、ハルビン丸に比してはるかに感じよし。但しボーイの待遇甚だよろしからず」。
9月7日(木) 下関に上陸、一路奈良に
朝7時15分に船は下関港に接岸。8時30分発の列車で下関駅を出発し、19時25分に大阪駅に到着した。天王寺駅から関西線に乗り換え、21時57分ようやく奈良駅に到着、22時30学校に帰還した。途中下車の職員や生徒もあった。奈良駅には校長以下教授15名が出迎えている。
雑感
こうして全旅程を終えた。この全日程を詳細に描いた女高師生徒のその描写力は大したものだと思う。満洲や朝鮮と日本とをめぐる時局の説明などは、当時に通行のものではあるものの、彼女自身の個別具体的な事象に対する感想、例えば、各都市の雰囲気や住んでいる人びとに対する印象などには見るべきものがある。そしてもともと関心を持っていた歴史史蹟や仏像、絵画や陶磁器など、個々の文物についてはその説明にはいっそう熱がこもる。彼女の関心がこうした史蹟や文物に在ったからである。
それはおそらく、歴史都市奈良で4年間学んだ生徒の、古都に対する空気感の獲得というものに起因しているのであろう。それがいっそう彼女の印象を新鮮で明快なものにしている。
高木博志「水木要太郎時代の奈良女子高等師範学校の修学旅行と学知」(『文人世界の光芒と古都奈良』 思文閣出版)によれば、奈良女高師では、毎週水曜日、授業のない午後や、また短期長期の修学旅行で、奈良をはじめ京都や河内などへの実地の研修がなされていたという。「文献教育と実地教育の融合という方法論」(高木博志)が実践されていたわけである。古都奈良をはじめ、各地をめぐる、いわばフィールドワークという学びの手法の導入ということになろうか。
このような日々の教育の成果として、古都奈良の空気感を満身に抱え込んだうえでの修学旅行であってみれば、各都市への感覚や、擁する文物に対する評価も、確かなものであることもうなずける。それは先に少し述べた、清朝の陪都奉天や平壌、慶州の街の雰囲気に対する印象など、的確なものとなった要因でもあろう。
手記はまたこうも述べる。「あらゆる化学、機械等の類が戦争の為に用意されてゐるかの如き観があるのは遺憾千万である」と。こうした意見は、当時一般に語られていた平板な時局解説を幾重にも乗り超えたものであるようにみえる。
さらにこうしたことも書き記している。町や施設、旅館などで、日本人が威張りすぎていること、朝鮮人や満人に対していかにも見下げた態度が不愉快であったと。これらは、文物に対する感想と同じように、具体的・現実的な事象や出来事に接したときに体験した、なまの体験に基づく感情であるだけに、この手記の記述に厚みを感じさせてくれる。
女高師生徒は、慶州に向かう車内で、次のように詠んでいる。
忙しき旅を来りて慶州に今宵は果ての夢を結ばむ
彼女は、こうして「憧れの慶州」に着き、史蹟・文物を見学したのであった。授業や自学自習により獲得した知識を、今回は満洲や朝鮮という実地に出ての研修旅行で体験したのであった。
このように生徒の手記に対して雑感を述べるということについて、あるいは時局の評価について、あまりに甘く見積もり過ぎているとの批判があるかもしれない。また現地に出ての印象の個々を絶対視しすぎだ、といったお叱りを受けるかもしれない。ただ、このことは言ってよいだろう。これは、文献資料を読み、現地に降り立ち、ふたたび文献資料をみて確認するという、フィールドワークの手法が生かされた旅行であったということである。
そしてもうひとつ、女高師生徒が、若く多感な時期に、旅に出て、今回は異国といってよい満洲国や朝鮮の地で感じたさまざまな印象、理論や理念と合致する点やそうでない点を感じ取った。時に思念や思想をめぐって、彼女らには内心の葛藤もあったろう。これらを紀行文として綴ったこの手記には、なにか今に生きるわたしたちの身中に今も流れている思春期のある想いと通底する、そんなものが存在している気がするのである。
師範学校のねらいと反省
日本から満洲国へそして朝鮮へと移動するのはまさに大旅行である。見学箇所が豊富に盛り込まれていて旅程はタイトであった。文化施設や歴史史跡、国策会社見学など、各都市での見学箇所がまことに詰め込まれてある。次回いつまた来ることができるか知れない場所だけに、現地をよく見知った満鉄大阪鮮満案内所が、盛りだくさんの旅程にしたということだろう。
満鉄による列車移動もふくめ、ハードなスケジュールになっているが、見学箇所は、この時代であれば、一般的で考えられた選択であったと思う。鮮満案内所の手慣れた計画ぶりが見て取れる。わたしは満洲を中心に、当時の絵葉書を持っているが、この旅程の見学箇所と重なるものも数多くあり、これが当時の内地からの典型的な見学箇所であったということもよく理解できる。
ところで、教務課の報告には、満洲での「地理的収穫」として次の点があげられていた。
1 清津港の大観
2 車窓より見たる地理的景観
3 北満と南満との比較対照
4 各都市の地理的特色、ことにその時代的発展相
5 満人鮮人の生活様相の瞥見
この教務課の「収穫」のなかに、哈爾浜などの北満と大連など南満との比較や、哈爾浜・新京・瀋陽・大連、また平壌・京城・慶州など各都市の地理的・歴史的な特色を見てとる、という目標が設定されているという点も、修学旅行のよい着眼だと思う。そして朝鮮の見学については、ねらいとした 「古代朝鮮と日本との関係の認識」を持つために、満洲国に比して博物館や歴史史跡を多く見学している。このことを女高師の教務課では、良い成果を得たと総括している。この評価が妥当であることは、この生徒の手記を読めばわかるであろう。
ただ、移動手段のうち船舶については、風紀上不都合な点もあったとしている。長い船旅で、様々な乗船客がいたからであろう。一方の鉄道については、満洲鉄道・朝鮮鉄道ともに快適であった。生徒のために一両増結の配慮もあったといい、評価は高い。満鉄の全面的なバックアップがあったというわけである。
旅館については、その接遇や食事などで不都合の館もあったことから、今後は現地の佐保会に依頼して旅館を決定し、それを案内所経由で予約するのが良策であるとも総括している。佐保会会員は各地に散らばっており、また結束も強く、饗応ぶりなどを見ても、経済面で余裕があるようにみえる。旅館の選定など、現地から良質な情報をもたらすことであろう。
旅行中にはトラブルもいくつか発生していた。団員名簿の提出を要求される場面が幾度となくあったという。汽船や列車ごとに移動警察や憲兵らが乗り込み、旅行日程や目的をくりかえし尋ねられた。今後は名簿や日程の大略を示したものを20部以上持参するのがよいと報告している。また、奈良の女高師についての知識がない係員もいて、不遜で不愉快な態度を取られたりもした。今後は、引率教官の位階なども名簿に明記し、文部省の旅行許可書も添えて提示する方法がよいとも述べる。
奉天から安東への移動の際、列車に乗り込んできた警乗長(日本人で陸軍上等兵程度)は、生徒の旅行日記全部の提出を要請し、生徒が提出しない場合は手荷物検査までおこなうという理不尽もあった。そしてもしこの点検のために時間がオーバーして行動予定に支障があってもその責任は自分たちにはない、と公言するものまでいたという。このように概して、憲兵や軍隊の関係は高圧的で不遜なものであったようだ。それは旅行に限らず、現地に住む者にとっても同様であったことであろう。
いくつかのトラブルや予期せぬ事態の発生もあったものの、修学旅行自体の成果は大きなものがあったと学校側も考えている。確かにこの手記を読めば、そのことは首肯出来る。
古都奈良での、いわば座学とフィールドワークに出ての実践的な学びとの成果といってよいだろう。そのことは、先の「地理的収穫」のなかの、各都市の地理的・歴史的比較という課題として挙げられ、それに生徒はよく呼応したといってよい。こうしたフィールドワークという今の時代にも当てはまる方法を、奈良女子高等師範学校は、日々の授業や研修旅行・修学旅行に取り入れており、この旅行の手記はそのひとつの成果物であったのである。
(2020年6月13日 記)
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