ブログ・エッセイ


一庭啓二、幹、陸、菊枝、佐々布充重、福羽美静、福羽逸人、亀井貫太郎、森鷗外

一庭啓二には三人の娘があった。そのうち長女文は生後一ヶ月で亡くなっている。次女は幹、三女は陸(ろく)といった。一庭姓を継いだのは陸で、その子が菊枝という。菊枝には長男・長女がいて、これが当代にあたる。わたしはこの当代である長女と結婚し、一庭関係の文書なども引き継いだ。そんなことから、ただいまこうして一庭啓二伝を書いている次第となった。
一庭姓をなんとか守り抜こうと腐心した陸と、その子菊枝については、伝記のなかで少し触れたところであり、ここでは次女一庭幹と、幹が嫁した佐々布充重のことを少し記しておきたいと思う。
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一庭の次女幹は明治10年2月10日の生まれ、明治31年12月に結婚して大津の家を出ている。幹と結婚したのは佐々布充重という。彼の写真は一庭資料に何枚も残されてあるのだが、「四十一年三月九日 於京都柊屋旅館」と裏書きのある写真などみると、風貌もなかなかのものである(一庭―写真―42)。
佐々布充重は島根県鹿足郡津和野町大字森村の出身、明治3年1月の生まれである。一庭は京都寺町今出川上ルの小川家から大津百艘船の舟屋太郎兵衛家に養子に出て大津市上平蔵町に住んでいたから、どのようなことから幹がこの佐々布に縁づいたかはわからない。ただ、一庭は福羽美静(ふくば びせい、よしずとも)と年賀などの行き来があり、一庭資料の、明治25年1月五日消印の封筒で、「梅椿匂ふに老をなくさめて 田舎うれしきとしのいわい」との歌を贈っており、早くから交友があったことがうかがえる。この美静との関係から、養子福羽逸人のいとこにあたる佐々布家の充重と幹との結婚に至ったのではないかと推測される。
入籍は明治32年2月14日であった。一庭の残した備忘録にこの時の婚姻届を写したものがあり、充重のことが少し書かれてある。充重は東京都小石川区小石川駕籠町に住まい、伯爵亀井茲常(これつね)家職員をしていた。父は佐々布利雄、母ツナという。
茲常は石見国津和野藩主亀井家の一四代にあたり、佐々布家は代々津和野藩の藩士で、そうしたことから佐々布充重は亀井伯家に仕えたわけである。ちなみにこの婚姻届の証人は市川亮明と福羽逸人(ふくばはやと)であった。
市川は、一庭資料にも多くの写真が遺されてあり、そのうちの一枚の裏書きには、「明治廿六年二月二十七日 東京市川亮功 市庭叔母上様」とあることから、一庭の甥にあたる人物であることがわかる(陸―写真―36)。またインターネットの「渋沢社史データベース」に、明治28年7月1日横浜正金銀行リヨン出張所詰主任心得を申付けられたとあり、さらに先の写真には、台紙に「LYON」と印刷されていて、他にも「LYON」とある写真がたくさんあることから、この市川亮明でまちがいないと思う。こうしたことは、『横浜正金銀行全史』に載っている。
そしてもう一人の福羽逸人、温室栽培で著名な農学者であるが、この逸人は津和野藩の佐々布利厚の三男で、明治五年に福羽美静の養子となっている。この美静も津和野藩士で、大国隆正や平田銕胤に学び国粋保存をとなえた国学者であった。一庭とは、佐々布充重と幹との婚姻前から、年賀や書簡、盆歳暮のやり取りをしていたことは先に書いた。
佐々布充重の父親が利雄、逸人の父親が利厚である。逸人の『福羽逸人回顧録』(国民公園協会新宿御苑 2006年)に、逸人は父利厚と三歳のときに死別し、母と家兄に養育され家兄利雄の上京に随行して東京に出たとあるので、利厚は利雄の弟になる。逸人は福羽家に養子で出て姓を異にするが、逸人と充重はいとこ関係にある。充重は、一庭幹との結婚にあたって、その婚姻届の証人をいとこの逸人に頼んだというわけである。
さて、当の佐々布充重であるが、伯爵亀井家では、家乗編纂にあたっていたようで、伯爵亀井家家乗編纂所編の『道月餘影』(大正元年)の発行者として名前があげられてある。亀井家の記録を編成する仕事に就いていてその責任者であったのである。
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と、ここまでながなが書いてきてしまった。わたしがこのメモを書いておこうと思ったのは、実は、「おたどん」というひとの「神保町オタオタ日記」(2006-11-21)に佐々布充重の名前がでているのをみつけたからである。
「一庭啓二伝」の本文は大体できていて、一庭資料についても、目録化し、その一部の翻刻もほぼ完了というところまでたどり着いているのだが、いくつか確認したい資料があり、また記述に出てくる史跡などの写真も掲載したいと考えていて、決定稿には至らない。いまは新コロナウイルスの蔓延で外出しづらく、どうしたものかと思いながら、つれづれに、一庭資料にでてくる人物のことをもう少し調べてみようと、あれこれインターネットで手がかりを探っていたら、この記事を見つけたというわけであった。
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おたどんに教えられてここにメモを書いておく。森鷗外の娘茉莉は、亀井伯爵家の亀井貫一郎は、一時期森鷗外の家に預けられていたと書いているが、詳細は不明。「オタオタ日記」には貫一郎の件について鷗外の日記が書き抜かれているので、これに佐々布充重のものも加えて次に書き抜いてみる。

明治41年月2月22日(土)午後龜井伯第に往く。家政相続人補闕、埋蔵金處分等の件を議す。龜井茲迪破産の顛末を聞く。[欄外]本日午後若二十三日午前龜井邸會(決定本日午後一時)
3月22日(日)午後二時龜井伯第に會す。新に家政相談人となりたる西紳六郎、水崎保祐來會す。福羽子と予とを加へて四人となる。龜井茲迪身上の事議に上る。福羽子古貨幣を處分する件に關して激怒し、多く不穏の語を出す。[欄外]午後二時於龜井伯第相談会
4月23日(木)妻と茉莉と龜井伯の苑遊會に往く。[欄外]午後二時於向嶋龜井伯園遊会
4月26日(日)龜井伯の第に往き、龜井茲迪の母と弟貫一郎に告諭せらるる席に立會ふ。茲迪は隠居して別に一家を立し、長男凱夫相続し、貫一郎が丁年に達するを待ちて、凱夫を廃せんとするなり。貫一郎は實は長男にして、凱夫は實は二男なり。
明治42年12月23日(木) 陰。朝電車にて龜井貫一郎に逢ふ。
明治43年3月28日(月) 雨。夜龜井貫一郎来話す。中學を卒へて、此より第一高等學校に入る準備をなすと云ふ。
8月11日(木)龜井貫一郎、生田弘治来訪す。
8月14日(日)佐々布充重を訪ふに在らず。
8月15日(月)佐々布充重を訪ひて亀井貫一郎一家の事を言ふ。
8月16日(火)龜井貫一郎に書を遣る。
8月29日(月)佐((マ)佐(マ)布())充重来て、龜井貫一郎一家の事、龜井家乗の事を話す。
9月1日(金)福羽子逸人の家族に関する寺内大臣の問に答ふべき資料を求めに佐佐布(ママ)充重を問ふ。
9月5日(月)福羽親戚の事を言ふ。佐佐布(ママ)充重の書を石本新六に交附す。
9月11日(日)龜井綾子来話す。

森鷗外の子の茉莉は、亀井伯家がたまたま鷗外の家の隣に家を構えたと述べているが(『森茉莉全集 第七巻 ドッキリチャンネルⅡ』)、亀井伯家は、東京各所に屋敷を構えており、正確なところはわからない。
鷗外の森家は、津和野藩主亀井家の御典医の家柄だったから亀井家とのつながりも深く、家も近いことから、亀井家の相談にのっていたということなのであろう。
この日記に出る「埋蔵金處分等の件」「古貨幣を處分する件」というのは、亀井分家の茲迪が、華族銀行(第十五国立銀行)の運転資金として、亀井本家に無断で、亀井家の埋蔵古貨幣を使い込んだという一件である。鷗外や福羽真城ら4人は、この一件の家政相談人として協議し、茲迪の母綾と茲迪の長男貫一郎とを亀井本家に呼んだうえで、茲迪は「隠居して別に一家を立」てること、つまり亀井家と絶縁させ、亀井の姓も取り上げとする厳しい言い渡しとなった。茲迪はのちに大豊邦治と名乗っている。
もうひとつの「家政相続人補闕」というのは、亀井分家の養子に入った茲迪が、八重との婚約時期であった陸軍士官学校在学中に、こども貫一郎をもうけた件である。陸軍士官学校は、任官前の結婚を許しておらず、また結婚前に子どももうけたことから、当時としては正式に茲迪の子どもとして届けるわけにもいかず、実家の細川家に養子に出されていた。それが、今回の茲迪の絶縁の一件で、亀井分家の家督相続については、いったん次男の凱夫に継がせ、貫一郎が丁年になったら、正式に貫一郎に継がせるという内容のものであった。相続人の補欠である。
こうした一連の、亀井本家・分家の「家政」に関わる事実関係を確認するために鷗外は、亀井家家乗編纂にあたっていた充重に照会したという次第であった。そしてまたこうした充重とのつながりから、鷗外は、福羽逸人や福羽の親戚の事などについても光重に照会し文書にまとめてもらったりした。
武田頼政『零戦の子 伝説の猛将・亀井凱夫』は、この茲迪や貫一郎についても詳しく述べられている。それによれば、貫一郎の父は亀井茲迪、母は八重で、茲迪の父は常陸谷田部藩第9代藩主細川興貫、ここから茲迪は亀井(分家)に養子に出され、綾の長女八重と結婚して亀井分家を継いだ。また『回想の亀井貫一郎』には、亀井家12代茲監は、茲迪の叔父にあたるとも出ており、第12代の弟筋の分家ということであろうか。
明治41年月2月22日の「家政相続人補闕」協議に参加した「福羽子」は、龜井家13代当主茲常の姉孝子が嫁した福羽真城で、真城の父親が佐々布家から福羽に養子として入った逸人、祖父が美静である(『零戦の子』)。この家政相談人にあがるもうひとりの西紳六郎は津和野藩西周(あまね)の養子である。
鷗外が福羽親戚の事を充重に照会して石本新六に報告した、とある石本は、日露戦争時期に陸軍省総務長官として寺内正毅陸軍大臣に仕え、のちに陸軍大臣に就いた人物である。さらに明治43年8月11日亀井貫一郎とともに来訪したという生田弘治は、評論家で小説家の生田長江(ちょうこう)であった。 (2020年6月4日 記)