ブログ・エッセイ


一庭啓二、小杉雅三(雅之進)、細谷十太夫(直英)、小杉辰三、龍雲院

琵琶湖一番丸船長 一庭啓二の事績をまとめる作業を進行させていて、伝記部分はおおむね書き上げ、いまは、「一庭関係資料・翻刻目録」の整理をしている。
一庭は写真術にも関心を持った人物で、ガラス乾板を含め、数多くの写真を残した。そしてその半数ぐらいには、丁寧に裏書きがなされている。
そのなかに、小杉雅三の写真が二枚あり、そのそれぞれに裏書きがあって、「小杉雅三先生 四十一年ノ肖影 明治十六稔春四月下澣 写於三井麓佃舎」(一庭―写真―129)、「明治十五稔三月写 東京下谷竹町廿番地 小杉雅三 四十年ノ肖影」(一庭―写真―130)とある。この記号は、今整理しつつある資料番号だ。
この小杉雅三については、橋本進の論考で、細谷十太夫(直英)のことを書いた「歴史探訪 旧幕府艦隊の蝦夷地渡航を援けた仙台藩士細谷十太夫」という論文をみつけた。小杉のこともここにかなり頁をさいて書かれてある(『旅客船』246 日本旅客船協会 平成2年11月)。わたし自身の備忘のためにこの記事から少しメモをしておきたい。

小杉は天保14(1843)年の生まれ、長崎伝習所の三期生として学ぶ。江戸にもどり海軍操練所の教授方手伝いとなった。万延元 (1860) 年1月の幕府遣米使節団の船に同行した咸臨丸に、蒸気方手伝として乗船、慶応3(1867)年には開陽丸乗船を命じられている。ここですでに乗船していた榎本武揚と識ることとなった。翌慶応4年8月には、この開陽丸を旗艦とする旧幕府艦隊が仙台沖に到達、榎本は藩主伊達慶邦に謁見する。そのとき立った使者が細谷十太夫であった。
すでにこの時期には、維新側と東北列藩との戦局は峠を越していて、細谷は榎本に、城下から離れるようにとの君命を伝えるため仙台国分町の榎本の滞在先に向かったが、榎本はすでに退去した後であった。こうして仙台の町は、官軍との戦いを避けることができ、戦火にまみえることもなかった。
その後榎本武揚は北海道に向かい、函館五稜郭にたてこもって函館戦争を戦うが、明治2年に降伏、獄へと下った。明治5(1872)年になり1月に出獄、3月には赦免となる。この3月、榎本は早や明治新政府に仕官して北海道開拓使四等任官となっている。先に訪問記に書いたことがあるが、このとき、但馬の池田草庵門下養父郡出身の北垣国道とともに北海道へ向かっている。
一方の小杉はといえば、新政府から士族の身分をはく奪され、弘前の最勝院に幽閉、その後も各地に居を転じていたが、榎本が赦免となった明治5年3月、小杉に対しても減刑措置が取られる。しかしながら小杉はそれを拒み、新政府への仕官も拒絶した。すでに仕官を果たし、北海道開拓使となった榎本とは、いわば旧同志の間柄であったわけだが、出仕を拒んでいる小杉に対して榎本は心苦しく思っていたのであろうか、熱心に仕官を勧めたという。
そしてついに小杉も明治7年8月、新政府に仕えることを決意、内務省駅逓寮に出仕した。榎本はこの年1月には海軍中将に昇格してのであるが、小杉はこの榎本の海軍への出仕ではなく、内務省駅逓寮に出ることを決心したのである。このことを橋本進は、「海軍ではなく運輸を担当する駅逓寮を選んだのは雅三の新政府に対する精一杯の抵抗であった」と、情感を込めて記述している。榎本はその後明治18(1885)年には逓信大臣に就任する。一方の小杉はといえば、明治24(1891)年8月管船局船舶課長、明治26年9月には大阪船舶司検所長になり、航海や造船関連の法令策定など、船舶関係の実務方面での基礎固めに尽くしたのであった。

その小杉が亡くなったのは明治42(1909)年8月21日、兵庫県の魚崎覺浄寺に葬られたが、のちに小杉家菩提寺の谷中長昌山大雄寺に移されて祀られている。
なお小杉家の跡を継いだのは、小杉辰三である。辰三は細谷十太夫の三男で、小杉雅三の養子として入籍した。辰三の実父十太夫は、晩年出家して鴉仙と号し僧となって仙台の龍雲院に住まわっていた。龍雲院は林子平の菩提所でもあり、十太夫はその復興に力を尽くしたのである。しかしながら十太夫はその望みも果たせず、亡くなってしまっていた。そうした十太夫の遺志を辰三が継ぐかたちで、龍雲院に匿名により2万円もの寄付をしている。

細谷十太夫の墓所はこの龍雲院にあり、小杉辰三は小杉家の墓所大雄寺に葬られている。
一庭啓二が、この小杉雅三の写真を持っていたというのも、小杉が、航海や造船関係の法案制定に尽くした人物であり、『商船機関手試験問答』などの訳者でもあったことなど、一庭の船長としての仕事に関わりがある人物であったという理由もあろう。そしてさらに、一庭には、この小杉雅三の生き方に、どこかなにか、共感するところがあったのではないか、とそのようにも思われるのである。(2020年5月13日記)