ブログ・エッセイ


村岡墓参、山陰線、播但線、青谿書院、池田草庵

一庭啓二伝の作業で気がせいていて、しばらくホームページの作業をご無沙汰していたのだが、その間にホームページ会社への年会費が未納入になり、一時休止となってしまっていた。会費も無事払い復旧したので少し時期をさかのぼって、再開させていただくこととした。

2019年11月18日、但馬村岡の墓参に出かけた。歳を取り、だんだん車の運転に自信がなくなってきたことから、前回に引き続いて今回も列車利用である。もともと列車が好きだから、それはそれで楽しい。
村岡は、山陰線の八鹿駅から全但バスで9号線を西に一時間ほど入ったところにある。村岡にはおじが住んでいたから、子どもの頃よく遊びに行った。今は9号線のバイパスを走るが、その当時は集落をぬいながら細い旧道をバスが走っていた。二時間ほどはかかっていたかと思う。雪の多い地方で、積雪のおりなどチェーン装着とはいえ、あんな細い道をよく走っていたものだと感心する。
村岡に行くにはバスに乗り換える必要があり、いずれ八鹿で降りることになるので、今回は八鹿駅の北、宿南集落にある青谿書院に行ってみることにした。青谿書院は、但馬聖人といわれた池田草庵が開いた漢学塾である。
町村合併で八鹿町が養父市となったことから養父市役所に確認してみたところ、今は地域の自治協議会が管理しているということで会長さんを紹介していただいた。青谿書院のある宿南へは全但バスで行けるから時刻表も調べていたのだが、会長さんが駅まで迎えに来てくださり、あわせて書院の案内も、と申し出ていただき、お言葉に甘えることとした。
池田草庵は文化10(1813)年生まれの漢学者、幼くして両親を失い、真言宗満福寺に預けられている。ここで勉学に励み精進して住職不虚上人にも愛されたのだが、讃岐の儒者相馬九方の来訪の折にその講義を聞いて感動、仏道を捨てて儒学の道に進むことを決意した。
その後、四条室町の立誠堂で相馬九方のもとで学び、さらに九方からも離れ、京都梅津の梅宮神社の神官宅、松尾大社の神官山田氏宅で就学に勤めた。豊岡藩京極氏に招聘されて講義もしたが、仕官を請われるも固辞、そののち一条烏丸に池田塾を開く。そして天保14(1843)年になり、郷里八鹿に戻ったのである。立誠舎を開き、弘化4年6月には宿南に青谿書院を開いた。ここで子弟の教育に生涯を尽くした。
この青谿書院に行ってみたいと思ったのは、草庵の弟子に北垣国道がいると知ったからだった。北垣は京都府知事の時代に、田辺朔郎の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を知り、これを採用して琵琶湖疎水を開いた人物だ。蹴上のインクラインや、銅像の建つ夷川発電所など、よく学生と歩いたことがあり、そんなことから、北垣国道の師である池田草庵が開いた青谿書院に行ってみたいと考えたのであった。
青谿書院は地域の人たちの手で整備され、よく保存されていた。近くには草庵の資料館もあり、草庵がいかに地域に根ざし、人びとに慕われていたかを肌で感じさせてくれる。書院や資料館には多くの資料が展示され、なかでも草庵が仏道を捨てて満福寺を去った折の「僧服出山の図」、「山陰は総て是れ山 吾が里は其の間に在り…」で始まる漢詩、また多くの墨蹟など、飽きることがない。墓参の途上だったが、じつに心地よい、すがすがしい訪問となった(続く)。 2020年2月5日記