ブログ・エッセイ


吉村昭、『冬の鷹』、前野良沢、慶安寺、墓所、

少し前から読み始めていた吉村昭の『冬の鷹』をようやく読み終えた。
大部の本ではないのだが、一日の始まりを、まずは一庭啓二の文書整理と原稿作りにと費やしていることから、このお楽しみの読書まで到達しない日が多い。
『冬の鷹』であるが、作者の吉村は、前野良沢と杉田玄白をならべて叙述していきながら、一方の良沢の生き方に強く共感している。『解体新書』の訳業は、主として良沢によるものであるにもかかわらず、訳者として名前を出すことを拒み、世に名声を求めることなく、ただただ蘭書の翻訳にその一生を捧げた良沢に吉村は深く共鳴している。そしてそうした確固とした立場から記述していく吉村に、わたしも強く共感するのである。
わたしはこの作品を新潮文庫で読んだ。もちろんこの小説をわたしは面白く読むことができたのだが、巻末に付された「あとがき」にもずいぶんと興味をひかれた。簡略ながらも資料集めの様子が書いてあり、各所の図書館や資料館で調べ、ご子孫にあって資料を見せてもらったりする過程が記されてある。この短い「あとがき」から、資料調査の全貌もうかがわれておもしろかった。
たとえば、中津市立小幡記念図書館の久保一正から紹介されて、良沢と交友のあった簗次正のご子孫の家を訪問するのだが、この簗の家で吉村は書翰などを見せてもらい、そのなかに、「次正が和歌をよくし、一節截(ひとよぎり)の宗勲流を前野良沢より習い名手となる」という一節を見出し、「私は、中津に来た甲斐があったと思った」と書く。さりげない文章ながらもそのときの吉村の喜びが思い浮かべられて、読み手のわたしなども心を動かされる。
また吉村は、高山彦九郎のことを調べるため、郷土史家で前橋市立図書館長を務めた萩原進のもとを訪れて彦九郎の話を聞いた次第も書かれている。その萩原の話が、吉村が作品を構成していくにあたって、役に立った、参考にされた、というこうした文章を読むと、図書館員出身のわたしなどは、なんとなくうれしくなるのだった。
吉村は、執筆を終えた翌日にはや、良沢の墓所がある慶安寺を訪れている。そこで、良沢の祖父から数えて十一代目前野正久の夫人と会って、前野家の墓参をおこなっている。墓碑の左面は良沢に先だって亡くなった子息の達、右面が良沢の戒名、そして中央にはこれも良沢より先に逝った妻の珉子の戒名が彫られ、墓石の側面には翻訳のさなかに若くして病死した長女富士子の戒名が彫られてあるという。
最晩年は、自らの意思から、まさに孤高の人として独居した良沢だったが、吉村の言うように、他家に嫁した次女峰子を除く家族の全員が、この墓石の下に眠っているということは、良沢にとってまことに安らぐことであろうと思うのである。 2018年8月24日記