ブログ・エッセイ


井上ひさし、円生と志ん生、連鎖街のひとびと、貧乏物語

先般会った大学時代の友人から、井上ひさしの戯曲に大連を舞台としたものがあると教えられて京田辺市の図書館などで借りて読んでみた。
一作は『円生と志ん生』(集英社)。敗戦の年の昭和20年に慰問のため満洲に渡り、各地を巡回したのち終戦で大連に足止めとなった6代目三遊亭圓生(山﨑松尾)と 5代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の話である。大連での600日間の話だが、性格の異なる二人の掛け合いが面白いし、カトリック系教会での修道女とのやり取りも楽しませてくれる。
もう一つは「連鎖街のひとびと」、これは京都府立図書館から取り寄せてもっらって『井上ひさし全芝居 その6』で読んだ。これも終戦直後の大連での二人の劇作家の話である。南下してきたソ連軍の命令で戯曲を書かねばならなくなったという設定である。ここには、元役者で満洲国文化官僚だった市川新太郎や女優のハルビン・ジェニーらも登場して、嘘かまことの劇中劇と相成る。これもまた面白い戯曲だった。
この二作とも大連が舞台ということで読んだのだが、田辺市立図書館に『井上ひさしの大連』(小学館)も所蔵されてあったのでこれもみてみた。そこに、井上ひさしは戯曲を書く時には必ず二つの作業をする、一つは登場人物が生まれて死ぬまでの年譜を作ること、もう一つは舞台となる町の地図を書くことだとあった。なるほどと納得する。それは文章を書く場合にも通じる手法だろう。
トポスというか磁場というか視界というか、ともあれ場所の持つ力というものだろうと思うが、それはまことに大切なことだとわたしも思う。満洲のこと、大連や奉天(瀋陽)、新京(長春)のことなどをさまざまに勉強して書いたりしてきたが、その背景にはいつも地図を置いて書いてきたように思う。実際に満洲国時代の地図を持って現地を歩いたりもしたから、町の雰囲気や気配というものも、少しはわかって書いてきたつもりだった。だから少々は説得力も増しているのではないかとひそかに思ったりする。
それにしても、この井上ひさしの大連ものの戯曲を読んでみると、何というか、明るさというか歯切れの良さというか、何とも言えない透明感を感じさせてくれる。その過半は井上の筆致に依るものなのだけれども、大連という町の持っている空気感とか気分とかいうものにも少しは規定されているのではないかと思ったりする。新京(長春)が舞台だったらそうはいかないだろう。また奉天(瀋陽)が舞台でもそうは書かないだろう。満洲国の国都新京と、清朝の故地で陪都の奉天とでは、大連とはまた異なる空気が漂っているからだ。国都新京のある雰囲気は、「連鎖街のひとびと」に登場する元満洲国文化官僚市川新太郎が体現している。ただかれは元役者であるということから、劇中劇のプロセスで、新京の色合いがすこしずつ落ちていくような設定になっているように思う。
この新京と奉天という都市の空気感の異なりについては、「古都と新都-満洲国 奉天と新京」で少し書いた。このホームページの「収蔵庫」に収められてあるから見ていただけるうれしく思う。
「連鎖街のひとびと」は『井上ひさし全芝居 その6』で読んだのだが、この6巻には「貧乏物語」も収録されていて、これも読んでみた。市ヶ谷刑務所に収監中の河上の留守宅を訪ねてくる昔のお手伝いさんや訪問客らとのやり取り、顛末も楽しめる。また河上夫人のひで(秀)や次女ヨシ(芳子)も、脚色ながら実像が思い浮かぶ思いもして興味深い。
芳子はのちに結婚して大連に移り住むことになる。出獄した河上は昭和19年6月に、西田幾多郎と会うのだが、その時の模様を大連の芳子に手紙で書いて送っている。このことは『小島祐馬の生涯』を書くにあたって調べたりもしたから、この井上ひさし「貧乏物語」も面白く読むことができた。
考えてみたら、この「貧乏物語」も、大連と関係がないわけでもなかったというわけだった。 (2018年4月29日 記)