ブログ・エッセイ


弥勒四面石仏、美浜、瑞林寺、橋川時雄、大谷湖峰

この4月23日は、中国文学者橋川時雄が寄贈した北魏時代の四面石仏の法要と御開帳ということで、美浜の瑞林寺に出かけた。
橋川時雄は、福井師範学校を卒業後福井で小学校訓導を勤め、大連に渡りその後北京で共同通信社記者、順天時報編輯長、満鉄図書館の嘱託を兼ねた時期もある。昭和3年瀬川浅之進の勧めで東方文化事業総委員会に移り、済南事件後に中国側委員が総引揚げしたあと、昭和8年には総委員会署理を務め、北京人文科学研究所の経営にあたって『続修四庫全書提要』の編纂作業を継続させた。
これらの次第は、拙著『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の橋川の項目に詳述した。橋川の事績については、娘婿の今村与志雄が書いた「橋川時雄年譜」(『橋川時雄の詩文と追憶』2006年 汲古出版)が実に詳しいのだが、拙著辞書には、外交史料館の『北京図書館関係雑件』(ママ)なども参照して書いているので、あまり知られていない事実も盛り込まれていると思う。
 北京で終戦を迎えた橋川は、国民政府側の沈兼士接収委員に研究所および図書館の資料等を引き渡し、四庫全書提要も引き継いだ。昭和21年5月に引き揚げ、東方文化事業終焉についての報告書を作成して外務省に提出している。昭和22年4月郷里の福井県吉田郡松岡町へ転居するも、娘が京都の女専に入学することから京都に住み、京都女子専門学校の教授、のち大阪市立大学教授を勤めた。
弥勒四面石仏というのは、戦前期に北京の琉璃廠の骨董店で購入したもので、終戦前に日本へと持ち帰っていた。北魏の時代の石仏で、昭和37年11月福井県三方郡早瀬の瑞林寺に寄進、弥勒殿も建てられた。
弥勒四面石仏について知っている知識はここまでだった。その後、毎年春秋に法要があり4月は23日がその日に当たっていて、法要のある午前中に御開帳とあいなるということを知って、今回出かけてみたというわけである。
瑞林寺とうまく連絡がつかず、ともかく出かけてみて、午前中にはお寺に到着しようと考えて、朝早くに家を出た。そして美浜の駅に着いて観光協会で自転車を借りて寺へと出かけようと駅なかの観光協会にいってその旨を伝えてみた。すると職員の男性が、たまたま瑞林寺の檀家さんで、法要は9時半ごろから始まってもう終えているはずだと聞かされた。それをきいて大いに落胆したのだが、ともかく行ってみようと思い直し、行き順を教えてもらって自転車で出かけた。
11時半過ぎに寺に到着し、庫裏をお訪ねするとご住職がちょうど帰ってこられたところだった。当方の事情を申し上げると、石仏が祀られてある弥勒殿にはまだお手伝いの人がいるだろうから連れていってあげようと、ご親切なお申し出。弥勒殿の嶽山まで車に乗せてもらった。
情けない話だが、わたしの事前調査も不行き届きで、この弥勒殿は瑞林寺境内の山側にあると思っていた。ところが嶽山は標高150メートルほどもあろうかと思う山で、その頂きに弥勒殿は建っているのだった。
もちろん法要も終わって御開扉も終えていて、わたしは隣のみろく殿に飾られてある橋川時雄先生と四面石仏の写真などを見ながら、ご住職の説明を聞いた。そのご説明によると、この石仏は、橋川が当時永平寺の監事をしていた大谷湖峰老師のお人柄にほれ込んで委託し、湖峰師がのちに瑞林寺の20世住職になったことから昭和37年11月23日に瑞林寺にご到着という次第だという。その後弥勒本殿が建てられてここでお祀りされ、春秋と年二回の法要のおりに、ご開扉となるわけだ。
これらの次第はいただいたパンフレット「若狭湾国定公園三方五湖[嶽山] 放光山弥勒殿」にも出ている。そしてこのことは、湖峰師の自伝『弥勒との縁』に書かれてあるとのご教示であった(瑞林寺 昭和59年)。そしてありがたくも、この自伝を頂戴したのだった。ここには、橋川時雄と大谷湖峰師との深いつながりなども詳細に書かれてある。これはよい勉強になるとうれしく思い、さっそく橋川時雄の項目に書き込んで、事典改訂版の刊行に備えたいと決意をあらたにしたのであった。
(2018年4月25日 記)