ブログ・エッセイ


木山捷平、木川正介、『苦いお茶』、図書館、ナー公、引揚者精神

木山捷平の『苦いお茶』という短編小説に、戦後の上野の図書館がでてくる。この小説で木山捷平は、木川正介という人物として描かれる。
正介は終戦直後、満洲の国都だった新京(いまの長春)に残され、南郊のホテルに滞留していた。この時期ひとりで外出するとソ連兵につかまってシベリヤ送りになるという恐れがあったことから、この事態を避けるために、同じホテルに滞留していた坂田直江という女性の娘を借り背中におんぶして出かけていた。子どもをおんぶしていると、シベリヤ送りから免れるからである。なにがしかの借り賃を母親に払って娘を借りるのだ。正介が借り出し、背中におんぶして外出して歩いたのが、那子、当時の呼び名でナー公である。
戦後になり、彼女はある学者先生に頼まれて、上野の図書館の古い本を書き写すアルバイトをしていた。そしてその後もさびしくなったら、たまに図書館にやってくるというというわけで、この図書館で正介に会ったのである。
正介はといえば、戦後ある新聞の文芸欄に「谷岡というハンコ」という短い文章を書いたのだが、その切り抜きを失くしてしまった。満洲に渡ってから終戦まで、自分の書いたものの切り抜きは全部満洲から持ち帰れなかったという事情から、戦後は神経質すぎるほど書いたものの保存には気を付けていたつもりだが、うっかりと失くしたのである。
新聞社に出かけて写してこようかとも思ったが、「お情けで買ってやったあんな拙い文章に、お前はまだ未練があるのか、と笑われそうな気がして」、上野の図書館に行って写そうと考えた。だが図書館に行ってみると、新聞は一か月ごとに綴じられて保存してあり、その量は膨大であった。今のように、新聞の記事索引もなく複写の機械もない時代である。
帰宅して正介は、おそるおそる新聞社に照会の手紙を書いた。「ほんとに文字通りお手隙の時で結構だから、月日をしらべておいてほしいと書いた」のである。すると新聞社からは、恐ろしいほどのスピードで翌日には速達便の返事があった。
速達便を受け取った正介だが、かれは図書館に飛んでいくでもなく、事故で骨に入れた金属を引き抜くために入院をしたのち、そのリハビリのために、「足の試運転をかねて、図書館に行ってみることにした」のである。
図書館で綴じ込みの新聞を出してもらって、自分の文章を写し始めた。自分の文章を写すという作業は、妙に照れ臭いものではあったが、奇妙なことに、一所懸命になって写したのであった。ところが、閲覧室で煙草を吸ったのを、青い上っぱりを着ていた女子職員に注意されて、なんとなく情けない気分になり、写す速度も落ちて、時間もかかってしまい、ようやく写し終えるのである。そこで正介の心によぎった思いは、「これで随筆集の出版の約束でもあるのなら話もわかるが、自分という男は、一生こんなつまらぬことばかりしているように思われた」というようなものであった。
煙草を吸うために、廊下の喫煙コーナーに行ったのだが、ここでナー公と再会したのである。ナー公は短大生で、卒業後は幼稚園の先生になるつもりだと言った。父親はシベリヤから遂に帰らず、母親も三年目に亡くなったのだと、歌でもうたうように話した。そしてナー公に誘われて食堂でコーヒーを飲むことになるのだが、そのコーヒーはとっても不味いものだ。でもナー公は、さびしい時には、このまずいコーヒーがしきりに飲みたくなるのだと言う。
夕刻になり二人は図書館を出て新宿の飲み屋に向かう。ナー公は、自分は酒を飲まないけれども、小父さんが酒を飲んでいる顔はすきだから、そばで見ていたいと、彼女から酒場に行くことを希望した。正介は新宿の行きつけの店には行かず、見知らぬ酒場で飲むことにした。
そしてナー公は酔い、正介も酔って、ナー公が、「ねえ、小父さん、十何年ぶりで逢えた記念に、あたしを負んぶしてくれない」と言う。尻込みする正介は、ヤー公は、40キロしかないから体重はまだ子供、と言われておんぶし酒場の中を歩く。十何年前には、城内の行き帰りに、死ぬるような思いで、ナー公を負んぶしていた時の苦労にくらべたら、月とスッポンの違いであった。
「もういいわ、小父さん」とナー公は言ったが、正介は面白くなって酒場の中をもう少し歩いた。その時向こうで飲んでいた、紋付き羽織姿の学生、どこかの柔道部か剣道部の学生らしき学生から、すけべえ爺、いいかげんにしないか、ここのこの大衆酒場を何だと心得ているのだ、との叱責の声がとぶ。正介は、しまったと思ったが、ナー公は正介の背中から飛び降りて敢然とこう叫ぶのである。

誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言うてみ。人間にはそれぞれ個人の事情があるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな

そう言ってナー公はきりっとした顔を学生の方にむけて睨みつけ微動だにしなかった。学生のうちの二人がナー公のもとに歩み寄って、かんべんしてくれ、と泥酔した学生に代わって、深くわびを言ったのであった。
二人がわびたことで、事は円満におさまったが、正介はその時、「もしこの世の中に引揚者精神というものがあるとすれば、それをいまこの目で見たような思いだった」と書いている。
紋付羽織姿の学生というのは、すこし修辞が過ぎる気もするが、時代ごとの、「制度」というか、「設えられたもの」というものであろう。それに対する、ささやかながら確実にナー公の一矢であった。この部分は、なんど読み返しても、あらためて感動を覚える。
この『苦いお茶』の、このナー公の「引揚者精神」については、吉本隆明の『大陸の細道』の解説でも、また岩阪恵子『正介さん、捷平さん』でも触れられており、わたしがここで長々と書くことでもないかもしれない。ただ、わたしが言いたと思ったことは、ここに登場する、図書館という存在だ。
新聞社の恐ろしいほどの素早い対応と比べての図書館、またその掲載の日付が判明してからも、すぐには図書館にはいかず、足に埋め込んだ金属を取り出す手術のための入院をした後、足の試運転をかねて出かけたという図書館。正介の小説の中でこのような形で登場する図書館というものに、図書館に長く務めたわたしは、共感を覚えるし、そのような形で登場する図書館がこのうえなく好きだ。
そして、木山の図書館に対するほのかな愛情も感じ取ってしまうのだ。図書館が無用の長物と言っているのではない、急かず慌てず、という正介の構え、生き方の象徴のような気がして、どこか、うれしくなるのだ。
有用で素早い対応、という図書館も、もちろんあるべき姿であるのだろうが、いったん立ち止まって考えてもみたい。その姿を一度相対化してみる、ってことだって、あながち捨てたことではないと思うのだがどうだろうか。逆説的な言い方だが、そのように、自信を持ってもよいのではないか、とそう思う。
まあこれも、退職老人の世迷い言かもしれない。 2018年2月28日 記