ブログ・エッセイ


弥吉光長、木山捷平、「遺される」、北村謙次郎、文化財処理委員会

先にわたしは、弥吉光長と武田泰淳との〈終戦〉についての体勢の異なりについて、いささか強引な運びで書いてみた。だがそれもあながち的を大きく外してはいないと思っている。
これまでわたしは、〈遺された蔵書〉という言い方で、もとのままの、いわば生(き)の資料(群)と、時代の中で整理され保存され利用に供されてきた資料(群)との、本質的な性質の違いについて考えてきた。自分の書いたものを読み直してみたところ、そのことを『日満文化協会の歴史』の「むすび」の部分で述べていたので次に引いてみる。自分の書いたものを引用して掲出するのも気が引けるが、この本を書いた時の気分が感じられるとも思うので、そのまま掲げてみる。

これら「遺された」物の内面には、歴史のある時代を生きた〈現在〉というものがある。今に遺された資料・文物や遺跡を見ることは、その時代の〈現在〉を見ることでもあり、その行為は避けることができないものである。それらは内容としてのテキストにとっては雑音にすぎないかもしれないが、それも物そのものに纏いついた不可避の構造である。この論考で取り上げてきた文物や資料には、その物自体の持つ価値的なものとは別に、その場所と時間という地域性・固有性・時代性といったものもまた引き裂かれて共存している。保存という性格を色濃く持った物、歴史性を帯びたそれらの物はこうした裂け目をそのうちに隠し持って生き延びている。保存・保全とか継承とかと耳に心地よい語感を持つこの言葉も、ひとたび歴史のなかで「遺されたもの」という補助線を入れてみることでその内に隠されてきた由来や来歴が表出し、改めて名付け返されることになる。日満文化協会・満日文化協会の基層となった文化事業、そこで成し遂げられた文化的な営為にはこうした裂け目が内に存在し、そこで具現化された物はそうした裂け目を内に秘めつつ遺されているといってよいのではないかと思う。(『日満文化協会の歴史』)

戦争を生きたわけでもない今の私が、後の時代から言うことなのだが、清朝の至宝や諸資料を収集し整理保存した弥吉には、その行為の中に、こうした「地域性・固有性・時代性」、また「由来や来歴」の裂け目が存在しているという認識がなかったのだと思う。在職中はともかくとしても、終戦となり満洲国立の奉天図書館が解体し、ここを去る「立場」となった瞬間においても、である。だからこそ、至宝や資料に対して、その絶対的な善の認識を持ちつつ接収して整理・保全してきた「清朝の至宝」や利用に供してきた資料群を、いわば円筒の引っ掛かりのないものと見なし、それを伝って裏側に身を滑り込ませることができたのだろう。
ならばどう考えればよいのか。それに対する確たる回答はまだない。だが、そうかもしれぬというおぼろげなものはある。それは、この至宝や資料を、残すべきもの・護るべきものとして絶対化するのではなく、いったん相対化してみることではないか。日本から海を渡って満洲に行き、清朝の至宝である文物資料を保全し収集して整理したのである。そして終戦という一大画期を迎えたのである。うまくは言えないが、またこういうと誤解・曲解されそうでもあるのだが、あえて言えば、「残さなくてもいい」「護らなくてもいい」という認識を、一方の端で保持すること、そのように一度立ち止まって考えてみるということではないだろうか。
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木山捷平の『大陸の細道』に田村という名前で登場する北村謙次郎は、昭和20年8月9日に、新京の八島小学校で展観予定となっていた第8回満洲国美術展覧会の会場を訪れた。広い会場は、飾り付けはすべて完了していたのだが、ソ連の参戦で展覧会どころではなくなっていた。会場には、満日文化協会事務局の三枝朝四郎だけが、ただぽつんと立って絵を見上げていた。北村には、その孤独な姿がいつまでも目に残ったという。
そしてその後これらの絵画は全部外されて八島小学校の倉庫のなかにしまわれたのであるが、その後何かの用で小学校を訪れたとき北村は、せっかくの絵が、狭い倉庫のなかで斜めになったり逆さに倒れたりしていて、なんとも哀れで正視に耐えなかった、と回想する。
だが北村は続けて、「あのときの絵は、遂に陽の目を見ずに終わったわけだが、新京最後の日に、黙々として展覧会が開かれたことは満洲芸文の最後を飾るにふさわしい散華と云えるのである」と述べる。北村は、展覧会は開かれたものの陽の目を見ずに終わったことを、満洲芸文の最後としてふさわしかったと回想しているのである(『北辺慕情記』)。それも、満洲の文化といったいわば普遍的な通りのよい言葉ではなく、満洲国固有の満洲芸文という、1941(康徳8)年3月発表の「芸文指導要綱」で発表された言葉を使っている。
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その北村はもうひとつ、終戦後新京(長春)の地で、引き揚げを前にした日本人が所持する資料や文物を集めて保全し展観した「文化財処理委員会」の活動についての回想もある。この「文化財処理委員会」というのは、満日文化協会の常務主事であった杉村勇造が、協会嘱託の三枝朝四郎や博物館副館長藤山一雄・中央図書館籌備処長瀧川政次郎・建国大学助教授高橋匡四郎さらに新京に残った江上波夫が委員となり、日本人の引き揚げに伴って行き場のなくなった美術品や図書類などの文物資料を集め、展観して目録を作成し、無傷のまま中国側に引き渡そうという企てであった。
ところが杉村や藤山らが順次引き揚げてしまい、結局残ったのは美術担当江上波夫・三枝朝四郎、図書担当高橋匡四郎・瀧川政次郎らであった。かれらの奮闘によりこれら文物資料は牡丹公園にあった振武殿および南湖南方の建国大学に集められた。北村の回想によれば、「引き揚げのドサクサまぎれに、横山大観だろうが梅原竜三郎だろうが、そこは素人の厚かましさも手伝い、こっちの懐に都合のいい適正価格で片っぱしからお譲り願った」という次第であった。
図書は24万冊、考古美術品2000点、レコード1500枚にのぼった。この作業の途上の1946年7月高橋匡四郎はコレラにかかり亡くなっている。これら集められた文物資料は、振武殿を会場に、長春在住日本人のお別れパーティーを兼ねて展観された。会場には大きな高句麗好太王碑文の拓本が高い天井からつりさげられ、その前に日満文化協会刊行の『通溝』が置かれたという。
これらの図書や文物については、考古・美術資料の目録を百部、図書資料の目録を五部作成して、南京から派遣された国民政府責任者に現物とあわせて手渡され、かれらもたいそう感謝したのだという(江上波夫「序に代えて-三枝さんと私-」『アジアの人間と遺跡‐三枝朝四郎五〇年の写真記録』)。
この「文化財処理委員会」の活動は、非正規で私的な活動ではあったものの、満洲国の資料収集・展観・保存という営為の、ある象徴的な結末としての営為であった。この後始末としての文化財処理委員会のことを北村謙次郎は次のように述べた。

残された本や絵は、その後どうなったか。それらは大部の目録と共に、無事国民政府たる中国側に引渡された筈で、中共の世になっても、どこかに保存されているのではないかと想像する。或いは国展出品の作品と同じく、逆さになったり、裏返しになったりのまま、空しい塵を浴びているかもしれないが、それは筆者の深く留意するところではない。満洲芸文は独り絵画図書などにとどまらず、国家壊滅と同時に平家没落の如く土崩瓦解した。それでよかったのである(北村謙次郎『北辺慕情記』)。

横山大観や梅原龍三郎の絵画や、貴重な古典籍なども含まれていたであろう諸資料は、灰燼と帰したとしてもよいものなのであろうか。日本の傀儡国家満洲国での後始末である。それでよいのであろう。いや、やはりそれらは保存され継承されるべきものではある。貴重な文物、いわば至宝でもあろう。
しかしながら、戦前期に満洲へと渡り、終戦時に新京の地に在った絵画や資料である。それらは広義にいう「満洲芸文」であり、国家壊滅と同時に土崩瓦解し、確かにそれでよかったのであった、そのように北村は言っている。
まことに相矛盾する言いまわしではあるものの、こうした矛盾を抱え、二面性を保持しつつ、文物資料は、壊されまた現に遺された、ということなのであろう。北村の、「それでよかったのである」という表現は、こうした二重性を含み持った、矛盾を抱え込んだ苦渋の表明でもあったのである。
(このことは、『資料展示図録 終戦時新京 蔵書の行方』平成23年3月 に書いた)。 2018年2月19日 記