ブログ・エッセイ


斎藤宗一、斎藤京一、大連図書館、『びぶろす』、『羊群 創刊号』

大連図書館に勤務した斎藤宗一氏の事績については、藤島隆氏のご教示でずいぶんあきらかになった。大正3年の生まれで、本籍は秋田県仙北郡角館町、南満州煙台尋常小学校および呉市興文中学の卒業で、日本大学高等師範部国漢科に進んでいる。満鉄時代の履歴はわたしの人名辞書にも書いた。昭和9年4月満鉄に入社し撫順炭鉱図書室、昭和13年4月大連図書館に転勤し満鉄図書館研究会では管理部に所属した。応召ののち昭和16年1月末に満洲医科大学附属図書館に転任した。
終戦後は奉天で留用となり国民政府東北行轅経済委員会に勤務。昭和23年4月留用解除となり引き揚げ、9月には総理庁事務官として人事委員会管理部図書課員となる。昭和24年資格審査を済ませて8月人事院事務総局管理局図書課勤務、課長補佐。昭和27年2月7日事務総局管理局図書課勤務を免じられて人事院札幌地方事務所に転ずるが、2月15日付で依願退職し、同年3月10日付で北海道大学医学部掛長となった。昭和28年8月北海道学芸大学札幌分校において北海道で最初の司書・司書補講習会を実施したが、このときの「司書講習会反省懇談会の記録集」が『羊群-東北・北海道 図書館人の機関誌 創刊号』(北方図書館人連盟 1953年10月)に載る。
斎藤はこの連盟の委員として筆頭に名前が出ており編集発行人でもあった。昭和31年4月1日北海道大学医学部図書掛長に配置換え。昭和36年6月16日北海道大学附属図書館和書掛長に異動。昭和37年7月16日から北海学園大学で開催の司書・司書補夏期講習においては司書補講習の「複写技術」を担当した(『北海道図書館研究会会報 第12号』北海道図書館研究会 昭和37年6月)。昭和38年4月2日現職で死去。
これらの履歴・事績の多くは、藤島隆「雑誌『羊群』と北方図書館人連盟―北海道大学附属図書館の今昔(12)」(『北の文庫 第25号』)に負うている。そして、『羊群 創刊号』『北海道図書館研究会会報 第12号』は藤島隆氏のご教示およびご提供によるものである。
このように、わたしの編集した『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』の足らぬ点などをご教示いただけるということは、編集者として、この上ない幸せである。
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ところで、この拙著『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』のこと、ときどきインターネットで見たりもするのだが、そのなかに次の記事を目にした。
1950年5月『びぶろす』の記事に、「日本図書館協会理事長 中井正一先生御推薦 人事院図書課長補佐 齋藤京一著 『図書館執務事典』一二三書房」「著者が元満鉄図書館勤務以来10数年研究の結果、図書館勤務に必要な事項を網羅したもの。特に米国の図書館運営に関する資料は類書に比を見ず(略)」という記事で、齋藤京一著のこの『図書館執務事典』が見つからないこと、斎藤京一という人物は『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』にも掲載がない、というものだ。
『びぶろす』にどのように出ているのかと思い、関西館で複写をとってみてみた。たしかに、この投稿者が書いているとおりの記事がでていた。そしてこの『図書館執務事典』については、わたしも見たことがない。
ただ、この記事の「斎藤京一」というのは、「斎藤宗一」の誤植ではないかと思ったりする。文字通りの「誤植」だ。『びぶろす』編集者が書いた原稿をみて、活字工が活字を拾う際に、その原稿の「宗」を「京」と読み違え、それが校正で見落とされたのではないかと。ひょっとしてその後の号に訂正文が出てはいまいかと、念のためにのちの号をざっと見たが、その訂正文はなかったようだった。
未だ活版印刷であった時代には、原稿は手書きであり、編集者の指示の入った原稿をみながら活字工が活字を拾う。そして版が組まれて印刷、その刷り出されたゲラをみて著者は朱を入れる。その朱の入った原稿を編集者が確認し、一部の活字を組み直し、再校・三校等々とあいなる。こうしたプロセスを経験している昔人間のカンにすぎないのだが、そんな誤植もあり得るだろうと思ったりする。
人事院図書課長補佐という職名も一致するし、満鉄図書館勤務以来10数年という点も、撫順炭鉱以降にせよ大連図書館異動以降にせよ、まず10数年という範囲に入るだろう。
推測の域を出ないが、おそらくそうではないかと思っているのだが、いかがであろうか。 2018年2月26日 記