ブログ・エッセイ


武田泰淳『蝮のすゑ』、木山捷平『大陸の細道』、菊池租、西村捨也、船津辰一郎、弥吉光長

一、
木山捷平の『大陸の細道』を講談社文芸文庫版で読んだ。その解説を吉本隆明が書いている。ここで吉本は、木山のこのような主題の体験と描き方をしているのは、武田泰淳『蝮のすゑ』のほかにない、と述べていた。わたしは武田の小説をあまり読んだことがなく、なじみもないのだが、さっそくこの小説を読んでみることにした。
武田のこの小説のことを書く前に、拙著『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』のなかで武田泰淳が登場する場面についてすこし述べておく。武田がこの辞典に名前が出るのは、菊池租・西村捨也・船津辰一郎の項目である。ここでは、「終戦時上海で堀田善衛らが刊行した同人誌のこと、菊池租のこと」とすこし重複するが、菊池と船津の項目に出る武田のことを書いてみる。
菊池租は昭和12(1937)年1月、北京近代科学図書館司書となり総務主任を務めた。その後の昭和16(1941)年12月に退職、昭和18年には国際文化振興会満支課長となり、翌昭和19年上海資料室主任になっている。昭和20年3月には、堀田善衛が大陸に渡って国際文化振興会の上海資料室に勤務したことから、菊池は職務上で堀田の上司ということになる。
菊池はこうして上海で終戦を迎えるのだが、かれは、戦後に石上玄一郎やこの堀田らと同人誌を刊行したと回想している(菊池租「HOMO SUI GEBNERIS 自焚記」『図書館雑誌』昭和41年7月)。この菊池が回想する同人誌については不明なのではあるが、紅野謙介編『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』の昭和20年12月13日の条に中央宣伝部対日文化工作委員会の日文雑誌『新生』というのが出ていることから、これかもしれないと思ったりする。ただ紅野謙介の「解題」にこの『新生』の「原稿受入簿」一覧表が載っているが、堀田・内山完造・武田泰淳らの名前は見当たるものの菊池の名前はない。同人誌がこの『新生』である確証はないのだが、武田泰淳が、終戦すぐにこの上海の同人誌に寄稿していたことは確認できる。
堀田によれば、武田は菊池の家に泊ったりしたこともあるといい、また終戦直前の昭和20年6月に堀田が、上海西郊万国公墓の「小さななんということもない」魯迅の墓を見に行ったときの同道者を、武田だったか菊池だったか、と回想していることからみても、菊池は武田泰淳や堀田善衛らと、この終戦前後の短い間、上海で交流があったことは確実であろう(堀田善衛『上海にて』)。
もうひとり、上海日本近代科学図書館の名誉館長を兼務した外交官船津辰一郎との関係についても触れておく。船津は、昭和15年3月に再び中国に渡り、9月には上海特別市政府顧問に就いた。かれも終戦を上海で迎えることとなり、上海共同租界豊陽館に移って日僑自治会員として上海に残った日本人の引き揚げ活動などに尽力する。
この時期上海にいた堀田善衛は、終戦にあたって、在上海の吉田東拓・小竹文夫・武田泰淳・内山完造ら幾人かに、弁解や戦争の正当化ではなく「正確な一言」の執筆依頼をして「告中国文化人書」(中国文化人ニ告グルノ書)をパンフレットとして刊行しようと計画した。このおりに、この船津も執筆予定者(依頼者)に入っていたのであった(『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』、堀田善衛『上海にて』)。
こうした関係をみてみると、おそらく武田泰淳は、終戦前後のこの時期に、上海の地に残された堀田善衛ら文学者、菊池租や西村捨也ら旧図書館関係者、また船津辰一郎らの実業家らと交友関係を持ち、先に述べたような文学活動を行いながら、一方で『蝮のすゑ』に書かれるような、日々の暮らしをしていたということになる。

二、
さて武田泰淳『蝮のすゑ』についてである。終戦直後の上海、武田と思われる杉は、中国語が出来ることから、在留日本人の申請書類や請願書を中国語で作成する、いわゆる代書屋をしながら糊口をしのいでいた。そんな杉の日常生活の感想は、「生きて行くことは案外むずかしくないのかも知れない」「戦争で敗けようが。国がなくなろうが、生きていけることはたしかだな」というものだった。もちろんこのように単純化されて表出する独白は、幾重もの感情が複雑に折り重なった末のものなのだが、それを口に出して言うとしたら、「生きていけることはたしか」ということだった。それはつまりこういうことでもある。
「私」は無表情のときも苦笑することもあった。どんな時でも、死なないで生きていられると、そればかり感じた。最初は恥を忍んで生きている気でいた。だがフト気づくと、恥も何もないのであった。「私」の無表情や「私」の苦笑は、恥も何もなく、ただ生きているだけの一枚看板であった。
そして杉はまた、この幾重にも積み重なった感情の一端をのぞかせることもある。引き揚げが日程に上がってきたころ、「君は一体どうするんだ?」と聞かれて杉は、まだわからないんだ、と言い、この上海で「まだ何か、為すべきことが残っているような気がしてね」と自分を戒めるように、注意深く言葉を選んで答える。その杉が考えていたことはつぎのようなことだった。
このまま何事もなく帰っては、貴重な機会を失する、そんな気がした。重苦しい、涙や血で汚れた真実の塊りを、ギュッとつかんだ時の、戦慄が予感された。帰国前に、この上海で、そのグニャグニャした豚の内臓のように気味悪い塊りを握らなかったら、永久にそれは私の前から姿を消すであろう、と思われた。もう一歩だけ進まねばならなかった。もう一歩踏み切ることは、既に定まっているのかもしれなかった。
この「既に定まったこと」を「人びと」は知らないのだが、杉も、病人も、その夫人も、そのことがわかっていた。それは、上海の権力者であり夫人を力づくで自分のものにした辛島という男にとってもそのことはわかっていた。この、小さいながらも四角関係にあり、利害関係や権力敵対関係にありながらも、辛島も含めてその皆が、どうしても「こちら側に在る」という実感だ。それは「グニャグニャした豚の内臓のように気味悪い塊り」にも触れてしまいそうな認識でもあったろう。
そして杉はある夜、辛島を殺しに出る。ここで杉が考えたことは、もし自分が辛島のところに出かけなかったとしたら、すべてが何事もなく済むことだろう、だが自分はそのように「ゼロになる」ことは出来ない、ということだ。それは、夫人がその夜に辛島の暴力によって租界へと連れ去られるという事態を阻止するためというような、いわば「正義」から発する行動ではなく、ただただ、「ゼロになる」ことはできない、何事もなく済むわけにはいかない、という気持ちからだった。
自分はただ生きているだけだと考えていたが、ただ生きているだけでも、「その形式と内容はかならずある」のであり、「自分がゼロになるのを拒否する人間」だということにあらためて気づいたということだった。
ここには、上海での現実と経験が、また日常の毎日が、杉(武田)の持つ思想やら理念といった事どもを、ずるずるずるずると引きずりながら、朝な夕な、暮れていっている杉の姿が浮かび上がってみえる。自分はそれをゼロにすることがどうしてもできない人間だ、という感情だけを握りしめて、である。こうした武田泰淳の『蝮のすゑ』の描き方が、木山捷平の『大陸の細道』とどこかなにか共通するものがあると吉本は言っているのであろう。

三、
ここでわたしが思い起こすのは、満洲の地で終戦を迎えた満洲国立奉天図書館館長の弥吉光長のことである。弥吉は国立中央図書館籌備処属官兼司書などを経て国立奉天図書館の館長となり奉天(長春)で終戦となった。
弥吉は8月15日を迎え、奉天図書館の職員一同と重大放送を聞く。その放送の内容が中国語に翻訳される間に弥吉は、自らの動揺を抑え冷静さを取り戻すよう努めて善後策を考えたのだという。そして次のように語り始めた(弥吉光長「国破れて図書館存す―国立瀋陽図書館前史」)。
日本は敗れた。私は今から館長ではない。その図書館は諸君が自分たちの力で護らねばならない。日本人が清朝の文化財を護り続けたように、諸君はこの文化の至宝を、次の館長が来るまで完全に守らねばならない。
そして弥吉は、中国人館員と相談して、建物や書庫、故宮文溯閣一帯を封鎖した。図書館用品などは封印し、開封する場合は三名の職員で協議して行うことなどを取り決め、満洲中央銀行に出向いて給料などの資金を調達したのである。
この弥吉の、図書館に対する、そして資料に対する、見事なほどの見解、わたしはこの正しさに、激しい違和を感じながらも、それをずっとうまく表現できずにきた。もう3、40年にもなろうか、この違和感をずっと抱え持ってきた。
もちろんこの違和の実態を、戦前期日本の文化侵略であったという理由から弥吉を批判することもできよう。だがそのように、何もかもいっしょくたに網をかけて批判するという作風、また図書館や資料という本体とは異なる位相からそれを政治的に批判するというやり方、そのような視点からいくら批判をしたとしたら、この外地図書館の活動や図書館員の営為から何もくみ取ることができなくなる。かといって、外地図書館の活動を、この弥吉の訓話のように、そのまま丸ごとに受け入れることはどうしてもできない。さすればどのように考えたらいいであろうか。いまの自分なら、少し語れるかもしれない、そんな気もする。

四、
先の武田泰淳は、「自分がゼロになるのを拒否する人間」であると気づき、自分はそれをゼロにすることがどうしてもできない部類の人間だと確認している。弥吉の場合はどうか。先の訓話からほの見えるのは、弥吉は、清朝の文化財、それを資料といってもいいと思うのだが、それらを、凹凸のない寸胴の円筒形のようなものと考えていること、そして日本が戦争に負けたとたんに、それを伝って裏側に回り込んでいるように見えるのだ。
もちろん弥吉は、意識して回り込み、現実から逃れようとしているのでは決してない。わたしが言いたいのは、弥吉が満洲の文化財や資料を、凹凸のない円筒形のようなもの、違う言葉でいえば、のっぺらぼうの、まったくのニュートラルな存在であると認識しているということである。
もちろん武田泰淳や木山捷平ら文学者による文学に対する認識と、弥吉ら図書館司書による資料や文化財に対する考えは、その対象が異なることから、同一の位相では論じられないかもしれない。だがわたしは、それら二つが、ある文化的営為であるということ、つまり文学や資料に対する根源の考え方には、一部ながら共通のものが存在しているのではないかと考えているのである。
武田は、握りしめて離すまいとした「グニャグニャした豚の内臓のように気味悪い塊り」、それを握ろうと「もう一歩踏み切ろう」と考えたのに対して、弥吉は、護るべき文化の至宝や資料を、何かつるっとした引っ掛かりのない、普遍的にみえる言葉に置き換えて、堪え留まることなく、その裏側に滑り込んだようにわたしには見える。弥吉を悪く言おうとしているのではない。こうした資料や文化財に対する弥吉の考え方、弥吉だけでなく図書館員に共通のこの考え方を疑い、検討してみたいと思っているのだ。
弥吉が館長を務めた満洲国立奉天図書館は、満洲事変時に保全して整理した盛京故宮の殿版、萃升書院などの図書や文書、文溯閣の四庫全書、そしてその後に収集整理した満洲国以前の旧文書=旧記などを所蔵していた。弥吉が、「清朝の文化財を護り続けた」と述べた資料はこれらを指して言っている。この弥吉の発言を、資料や文化財、清朝の至宝という面から考えた場合、もはや踏み込む余地はないようにもみえる。はたしてそうか。
弥吉はここで「護り続けた」と述べるが、もうすこし正確に言うとしたら、資料の所在などを調査し接収し収集し整理し利用に供し保存してきた、ということだろう。資料は、生(き)のままに存在するときのものと、収集して整理するという過程を経たものでは、性格も位相も異なると思う。
資料や文化財は、多かれ少なかれ、情況や時代の気分を反映している。それを収集して整理するということは、情況や時代の気分を二重に反映させるということでもある。この資料や文化財を収集し整理する行為は、のっぺら棒の引っ掛かりのない円筒形のニュートラルな存在から、少しは変形を遂げているように思われてならない。それがどのような変形かということを一言でうまく言い当てられないが、武田のいう、ぐにゃっとした内臓とまでは言わないまでも、少しはトゲばった凹凸のあるものに変形はしているのではないかと思う。つまり資料や文化財は、図書館などの機関により収集され整理され展観され目録化され利用に供されることにより、ニュートラルで引っ掛かりのない存在から脱していると考える。弥吉の先の訓話は、その認識を欠いたものであるということなのである。

五、
そしてこのように、資料を調査し接収し収集し整理し目録化し展観し利用に供し保存するという行為は、その図書館員全員でなされる営為でもある。もちろん館長や主任らが主導するのは当然であり、当時の図書館は今と比べても、館長や主任は、身分的にも待遇面でもはるかに抜けた存在ではあった。
だが、とわたしは思うのだ。図書館内外での研究会で発表する、館報などに記事を書く、あるテーマのもとに資料を集めて展示をする、その土地の風土や歴史に合わせて文献目録を編纂し刊行する、そしてこつこつと資料を収集し目録を作成するという、こうした作業を具体的にこなしていったのは、館長や主任だけでなく、一般の館員らでもあったのだ。言い換えるとすれば、収集や整理、様々な図書館活動を通じて、資料や文化財を、少しはトゲばった凹凸のあるものに変形させてきたのは、これら一般の図書館員らであったはずなのだ。そのことをわたしは、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』を編輯していて身にしみて感じた。このように考えてくると、先の『人名辞書』編纂にあたって、わかる限り図書館職員の全員を採録するという方針は、正しかったと再確認できる。
歴史の中で埋め込まれた人物やその営為を、なんとかして掘り起こさねばならない。そしてそれを、選別して漏らしてしまう、ということではなく、全員を、記録にして残さねばならない。それは、その職員をプラス面マイナス面で評価しようということではなく、さらにまた、ただただ批判をしたり称賛したりする、ということでもなく、彼ら全員が、資料や文化資源といわれるものを、何か引っ掛かりのある存在に変えてきているという事実、それらを総体として検討してみないことには、図書館の全貌も本質も決して明らかにはならない、ということでもある。
『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』を刊行したいま、このようにあらためて決意をしなおして、今後とも励みたいと考えている。
(2018年2月14日 記)