ブログ・エッセイ


木山捷平、『大陸の細道』、『長春五馬路』、『新京市街地図』

京田辺市の図書館に講談社文芸文庫版の木山捷平『大陸の細道』の所蔵があったので借りて読んだ。同じ作者の『長春五馬路』はずいぶん前に読んでいた。
普段はあまり小説など読まぬのだが、『長春五馬路』は、終戦後に新京に取り残された木山捷平がボロを売ってなんとか生計を立て、帰国した様子が小説仕立てで書かれていて、興味をひかれた。
長春(新京)は、戦前期満洲に遺された蔵書などのことを調べるために何度か訪れたことがあり、図書館で資料を調べて閉館時間になった後、康徳(1939)6年版の『最新地番入 新京市街地図』で地名や場所を確認しながら街を歩いたことがある。戦前期の建物がまだまだ多く残されてあるこの街の、その場所やたたずまいなども少しは知っていることから、いっそう興味深く読むことができた。
木山捷平は明治37(1904)年生まれ、昭和19(1944)年12月渡満して新京の満洲農地開発公社弘報科嘱託社員となっている。『大陸の細道』には、この時代と、その数年前に北京から熱河の避暑山荘、そして新京に入りさらに哈爾浜など北方を「見学」したときのことが綴られてある。
満洲農地開発公社とは、満洲の農地造成と土地改を目的に、満洲土地開発株式会社を改組して昭和19年3月に設立された特殊法人である(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』)。内地からも多くの技術者が渡満した。木山はここの弘報科嘱託社員となったのである。
木山の小説については、文庫の「作品解説」を書いている勝又浩がいうように、「あれはいいね」「うん」と言い「そうだね」と言い合うのが確かに一番よい読み方かもしれない。この小説のどの部分をとってもいいのだが、例えば牡丹江行の列車に乗り換えるために8時間を哈爾浜の駅で過ごすこととなった時のことを書き抜いてみる。
「伊藤博文公遭難之地」をゆったりと見学していたとき、木山は怪しまれて日本の憲兵から「何をしとるか」と尋問を受ける。そしてこの駅構内の物資類を横目で見ながら計算をしていたのではないかと問われる。このとき木山は、登場人物の木川正介に次のように答えさせている。

御冗談でしょう。私は小学校の時から数学には弱くて、計算といえばきいただけでも頭が痛くなります。ほんとのことを言えば、もっと数学に力を入れて勉強しておいた方が、日常生活に於ても対人関係に於ても、確実性が出来てヘマをやらないですむであろうと、今は後悔しておりますけれど。

これに対して憲兵は、「つまらんことを喋らんで、さっさと行け。ぼやぼやしていると、スパイに間違えられるぞ」と答える。
まことに「つまらんこと」ではある。「ほんとのことを言えば」以下の、数学をもっと勉強していたら対人関係もヘマなどしなかったろうに、といったセリフは、まず「つまらんこと」にみえる。そしてこの小説は、このように「つまらんこと」が正介の口から、あれこれと語られ続けていく。
この尋問のあと正介はにわかに腹痛となり、便所で下痢のためしゃがんでいると、念を入れてというか、この憲兵がまた登場して、「おい、こら、何をしとるか」と再び詰問する。正介はむかむかと腹を立てて、「巡査をよんで来て告訴してやりたいほどであったが、巡査が正介の味方になってくれるかどうか甚だ疑問だ」と思い、「下痢の飛沫(しぶき)を紙にしませ、にゅッと憲兵の鼻先に突き出してやる」。そうすると憲兵は「ふふーん。…じゃあ、大事にせい」と負け惜しみのいような見舞を言って、どこかに去っていくのである。
まことに、「つまらんこと」にみえるし事実「つまらんこと」なのである。でもここでわたしたちは気づく。この居丈高に怒鳴りつける憲兵も、実のところ、こうして内地から満洲に渡り、こうして北方哈爾浜の駅構内で任務に就いているのだということに。この憲兵にも妻子がいるやもしれず、内地に残してきた木山とちがって哈爾浜でともに住んでいるかもしれない。いつの間にか知らぬ間に、そうしたことを思わせてしまうのだった。
ことほど左様に、どの場面を切り取ってもそこには木山の奏でる通奏低音が聞こえてくるように思う。とりたてて起伏のない叙述が続くのだが、こうしたところが、「作家案内」に勝又が書いているように、「人も文学も、結局あそこにつきるね」「そうだね」ということなのだろうと思ったりする。
実は、この『大陸の細道』に二か所ほどでてくる会社の図書収集や整理のことが気になり、そのことを書き抜こうと考えてこの文章を書き出したのだったが、そこまで到達しないままに、本日はここまでにしておくことにした。(2018年1月18日 記)。