ブログ・エッセイ


『江戸の蔵書家たち』、図書館の変転、埋め込まれたもの、忘れ去られようとしているもの

昨秋、拙著の『江戸の蔵書家たち』を読み直す必要があり、再読してみた。
この本はわたしが大阪府立中之島図書館の司書を辞めて大学に移る数年前に書き始め、平成八(一九九六)年三月、講談社の選書メチエ版として刊行したものだ。そして昨年(平成20年)3月に吉川弘文館の「読みなおす日本史」の一冊として復刊された。
これを書いた当時、自分が何を言いたいと思っていたのか、また当時並行して勉強していた満洲の図書館のこと、満洲に遺された蔵書のことなどに共通する問題意識はどんなものだったか、ということを再読してあらためて考えた。そしていくつか思い付いたり、再認識したことがあるのだが、そのうちの一つは、時代の変転により、埋め込まれてしまった営為や事象を掘り起こして再確認してみたいということだった。
『江戸の蔵書家たち』の本文でも書いたことだが、明治以降に、西洋から移入されてきた図書館での分類や目録・解題、また資料の集大成や百科事典編纂などの書誌的営為は、江戸時代の蔵書家たちの読書行為のなかにすでに胚胎していたということだった。つまり、江戸時代のこうした書誌的営為は、なにか図書館の近代というものに、いわば「接ぎ穂」されるような準備的なものではなく、蔵書家たちのあいだで、それ自体が生成し、形成されてきたものであったということだった。
このわたしの主意はいまも変わらず保持しているのではあるが、今回『江戸の蔵書家たち』を読み直して考えてみたことは、明治維新という、例えば図書館近代化の変転のなかで、言ってみれば、時代のなかに埋め込まれてしまったものをもういちど掘り起こして再確認しておきたいということ、このことを書こうとしていたということだった。つまり江戸時代の蔵書家たちの書誌的営為は、「図書館の近代」のなかで消失して然るべきものではなく、その底流にあったもの、根源にあるものは忘れられてはならないということだ。もし現象的にそれが「乗り越えられている」ように見えたとしても、それは現象面だけであって、根源的な部分は忘れられてはならないということだった。
図書館の世界で大きな変転、画期というものはこれまでいくつか存在したと思う。この明治維新もそうだが、わたしが勉強を持続させてきたことでいえば、終戦で潰えた満洲や台湾・朝鮮など外地での図書館活動もそうであった。満洲など外地の図書館での活動は終戦でまったき無きものとなったのだが、外地での図書館は歴史的な事実として存在したし、図書館員はそこで活動を展開したことは事実だ。それがたとえ日本の文化侵略によるものであったとしても、図書館の蔵書は今に存在し遺されてあるし、図書館員たちの営為も積み重ねられ、それらは蔵書の構築であったり図書館の展示であったり、目録編纂であったり論述であったりする。
そしてそれらは戦後になり、「図書館の民主化」の過程で埋め込まれてしまった。そうした戦前期外地の図書館活動を掘り起こして取り上げようとするとき、そんなものは文化侵略の所産ではないかといわれ、またときには、なぜそんな戦前期の活動の責任を問うようなことを調べるのかと非難されたりもする。わたしの視点に時として揺れを生じてしまったかもしれず、そんなことから、こうした相反する両面からの批判をもらったりしたのかもしれない。ただわたしとしては、なにか「爲にする」論述ではなく、ともあれ事実を明らかにし、それを「全員」「全体」をもって検討してみたいと思っているだけであったのだ。
またこのもうひとつ、図書館にとっての大きな画期は、コンピュータ化、インターネットを前提としたデジタル化という大波であろう。図書館のデジタル化を1980年代以降とおおざっぱな時期としてみた場合、それ以降インターネットやオンラインが自明となった時期から、図書館の活動とりわけ目録・分類、レファレンスなどまったく様変わりをしてしまっている。目録や分類の作業は、図書館によっては外部への委託となり、また時に図書館自体が、外部の指定管理者に任されたりする。レファレンス業務は、それまでアナログな参考図書によるものであったものが、デジタル化された資料をまずは参照するようになり、さらに利用者にとっては、個人のパソコンやスマホなどによる検索エンジンで、ともあれ概要がわかるような時代になってきている。
こうした事態を嘆いたり否定しようとおもったりしているのではない。ただ、このコンピュータ化やインターネットを前提とする図書館へと変転していく過程で、図らずも埋め込まれてしまったそれまでの図書館の営為、これももういちど再発掘して評価しなおしてみる必要があるのではないかと思うのだ。もちろんインターネットとコンピュータ化の状況下にあっても、それまでの図書館のアナログの営為は継承されてはいる。だがそれは徐々に、または既にというべきか、忘れ去られてしまっているのではないかと思ったりする。
『江戸の蔵書家たち』を読み直してみて、時代の画期のなかで、継承されたものを明らかにするということの重要性と同時に、その時代のなかに埋め込まれてしまったもの、忘れ去られようとしているもの、それをもう一度発掘して再確認し、評価しなおすということがぜひとも必要なことではないか、と考えたのであった。(2018年1月15日 記)