ブログ・エッセイ


『江戸の蔵書家たち』、絶対化と相対化、埋め込まれたもの

必要があって、拙著『江戸の蔵書家たち』を読み直している。
そしてそこで再確認したことがあるのだが、それは、江戸時代の文人たちの営為を、「近代化」とか「現代」など、のちの時代の物差しをもって裁断しないという、しごく当たり前のことであった。

江戸時代の蔵書家たちは、自らの蔵書を蓄蔵していくことで新たな視界を獲得し、読書という行為を見晴らすことができたとわたしは思っているのだが、そうしたかれらの営為を、近代化とか現代という尺度をもって裁断しないということ、つまり現代からの後知恵をもって判断しないということだ。言い換えれば、江戸時代蔵書家たちの営為を、近代化や現代の読書の手だてへと到達するための単なる手段としてみないということである。
おなじことだがそれは、江戸の蔵書家たちの営為を、その時代の仕事として真っすぐに眺めること、その時代環境の中で考案された手だてとして真っ当に検討することでもある。そうすることではじめて、蔵書家たちが見晴らすことのできたかれらの視界を、わたしたちも追体験できるであろう。そしてまた、そうした読書の手だても、何というか、根源的というか原初的というか、そのような形で取り出すことができると思うからだ。
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この本を、講談社の選書メチエとして刊行したのは平成8(1996)年のことだったが、それ以降、コンピュータおよびインターネットの急速な発展により、読書の環境も大きくかわり、また図書館の仕事も急激に変転を遂げた。その結果、江戸時代の蔵書家たちが見晴らして考案した読書の手だても、このようなインターネットのなかに解消されたかのように見える。
しかしながら、とわたしは考えるのだが、江戸時代の蔵書家たちの仕事を、現代という尺度で切っていってしまえば、確かにそのようにも見えよう。だがそうではなく、その江戸時代という環境の中での営為として眺めることができれば、そこで初めて、たとえば明治の近代化だったり現今のインターネットだったりの変転のなかで、置き忘れられた大切なもの大事な営為というものが、みえてくるのではないかと思ったりするのだ。
それは決して、近代化や現今のインターネット状況を恨んだりすることではない。さらにまた江戸時代を絶対化するというものでもない。それはつまり、近代化や現代の尺度を相対化することにより初めて、この時代の画期や変転のなかで、埋め込まれてきたもの、大切なものが見えてくるのではないかと思う。
そうすることではじめて、大きな変転のなかで置き忘れられたもの、埋め込まれたものをもう一度見つめなおしてみたいと考えているのだ。

しつこいようだがもう一度言えば、例えば、江戸の蔵書家たちの営為を、現在の尺度ではなく、その時代状況の中で検討することにより、見い出し得るものではないかと思う。それは決して先祖帰りではなく、また過去への懐旧でもなく、江戸時代の賛美でもない。ただそれらを掘り込んで行き、埋め込まれたものの中から、取り出す価値のある事がらを取りだしておきたいのだ。わたしには、まだまだそうした貴重なものが、この江戸時代の蔵書家たちの営為には、たくさんに存在していると思われるのである。
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ついでに言っておけばそれは、NHKの大河ドラマなどで、例えば、「戦さのない世の実現、そうした夢を家康殿に託したい」、といったようなセリフを耳にすると鼻白む思いがするのと同じ構造ではないかと思う。それは、家康による徳川幕府と泰平の二百数十年とが、いわば後知恵により想定されており、その想定が絶対的なものとして脚本のなかに織り込まれて在ることによる。それが観る者を白けさせるのではないか。つまり、その時代まで降り込んで、右往左往する群像を描くのではなく、結局はそれらを見えなくしているのではないかと考えたりする。
言うは易く、行いは難しいことであると思う。いずれにしても、こうしたことは、わが身のこととして、教訓化しておかねばならないと切に思う。 (2017年11月27日)