ブログ・エッセイ


一庭啓二、對龍山荘、小川治兵衛、小川保太郎(白楊)、市田弥一郎

わたしの奥方の曽祖父は、明治維新期、大聖寺藩士石川嶂とともに琵琶湖にはじめて蒸気船を浮かべた人物で、一庭啓二という。明治2年2月に、その名の通りの「一番丸船長」に就任している。
その一庭は、明治6年あたりまで、琵琶湖の汽船会社を堀江八郎兵衛と共同で経営していたが、その後は経営から身を引いて、生涯一船長として生きた。どちらかというと趣味の人で、俳句も読み、またハイカラ好みで写真もずいぶん撮ったようだ。消長激しい当時の汽船会社の競争よりも、生来好きだった蒸気船の機関や、汽船の操舵をいっそう好んだのだろう。そんなことから生涯一船長を貫いたのだと思う。
この一庭啓二の資料の一部を我が家では継承してきており、その伝記を書こうと目下力を注いでいる。そしてあわせてそれらの資料を整理したいとも考えているところだ。
資料を見るのは嫌いではないし、ましてやそれは他所にはない原資料である。楽しくないはずはない。ただ、なかなか伝来の文書も読めず、読めない個所など、友人に教示を乞うて、すこしずつ解読し整理している。ここではこれら資料をみていていくつかわかったことを順次記していきたいと思う。
一庭は、明治44年4月17日に亡くなっているのだが、その少し前の一時期、京都南禅寺の對龍山荘に逗留というか住み込みで働いていたことがある。当時の對龍山荘は、彦根出身の呉服商市田弥一郎の所有で、七代小川治兵衛(植治)が作庭した。南禅寺・岡崎界隈のいわゆる別荘群のひとつである。
一庭がこの對龍山荘に住んでいたことは、さきの資料の中に、「洛東南禅寺畔對龍山荘内 一庭啓二」の名刺が残されてあることからそのことがわかる。
そしてまたこのころ、小川白楊から一庭あてに写真が贈られていて、その包みの表書きには、「呈 聴松院猪繪はがき廿枚 市庭様 小川白楊」と記されてある。ただ中の写真は、狛猪の写真ではなく「瑞龍山南禅寺塔頭南陽院(仏殿)」など記念絵葉書四枚、写真三葉であった。
先に少し述べたように、一庭は若いころからいわゆるハイカラで、写真などを趣味にしていたことから、庭師で写真も極めていた小川白楊とも交友ができたのであろう。この白楊は七代小川治兵衛(植治)の長男小川保太郎で八代にあたる人物だ。そんなことから對龍山荘にも出入りがあり、知り合ったと思われる。
植治は白楊のことを、病身だったことから写真などもやらせたが、その写真を撮る際の位置の決め方などが作庭に大きく役立った、と述べており、植治は白楊に大きな期待と信頼を寄せていた。そして植治の代理として方々へ派遣したりもして、作庭の地域を広げていた。そんな白楊だったが、昭和元年12月28日、植治に先立つこと7年、45歳をもって亡くなってしまった。
白楊の作庭はウイスティン都ホテル京都などに残される。また名園の写真集『京華林泉帖』(京都府庁編刊 明治42年)では内貴清兵衛らと写真撮影を担当し、さらに『古瓦譜』(大正11年)、『家蔵瓦譜』(大正13年)といった著作もある。
ところで、一庭啓二と小川白楊との関連はもう一件あった。太湖汽船の設立時、取締に就任した人物に浅見又蔵である。浅見は明治20年の明治天皇皇后の京都への行幸に帰路、大津港から長浜へ渡ることになったのだが、その折に、長浜港での行在所として慶雲館を建造している。
天皇皇后が大津から長浜へと船で渡ったあと、長浜から鉄道に乗り換えるにあたっての適当な休憩所がなかったというのが理由で、急ぎ長浜に行在所(慶雲觀)を建てたというものだ。
一庭が亡くなった翌年のことだが、明治45年にこの慶雲館の庭園を植治が手がけている。その模様を白楊が『行幸二十五年 慶雲館建碑式 記念寫眞帖』に残しているのだった。
一庭啓二は、大聖寺藩が琶湖汽船会社から撤退したのち、しばらく船には乗らなかったのだが、満を持して、明治10(1877)年2月1日 三汀社の大津丸船長になったのだが、明治15年に藤田伝三郎頭取、浅見又蔵取締の太湖汽船の時代にも蒸気船の船長として、明治35年7月に解傭辞令をもらうまで一船長として勤めていた。
對龍山荘の小川治兵衛・小川白楊、そしてまた太湖汽船取締で慶雲館の浅見又蔵らと、こんなところにも一庭啓二は繋がっていたのであった。
(2017年10月30日 記)