ブログ・エッセイ


『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』、山崎末治郎、壇一雄

版元の武久出版から、『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』刊行後6か月経過しての、実売り数の報告をもらった。
予想していたことだが、なかなか苦戦である。図書館で現物を見てもらいさえすれば図書館で購入もしてもらえるだろうと強く信じてはいるのだが、委託配本や見計らい搬入が可能な刷り部数ではないから仕方がない。
刊行時に版元からDMをおこなってもらい、その後も思いついては、このおおすみ書屋の名前でDMを出したりしている。そして『図書新聞』『日本の古本屋 デジタル版』に続いて、『出版ニュース』や『東方』でも紹介をしてもらったので、そうした効果もあるのか、12月にはいっても、少しずつだが、捌けていってもいる。ささやかながら光明ともいえようか。だが、まだまだ先行きは厳しい。

本書の「はじめに」でも書いたことだし、また『図書新聞』などでも書いたことだが、外地の図書館や資料室などに身を置いた人物全員を採録するという本書の編輯方針は、まことに正しかったと、今更ながら思っている。採録するにあたって人物を選び出すということ、とりわけ人物事典の類では、そんな選択は至難の業だ。明確な基準もいるだろうし、その基準を明示する、ということはなかなか困難なことである。

そして、これも『図書新聞』などでも書いたことだが、可能な限り全員を採録し、さらにその各人については、編者が資料で見た範囲のことを、頁数に制限を決めず書いていくというという点もよかったと思っている。それはまさに、自主製作自費出版の利点でもあり、わたし自身の精神衛生上にあっても実によいことでもあった。
さらにその図書館職員の交友などにも、範囲を広げて書き込んでもよかったかもしれない、むしろそうすべきだったかと、いまここで反省もしているところだ。

たとえば新京特別市立図書館長時代の山崎末治郎、かれは、招集解除後に満洲に居残った壇一雄とも交友があった人物だ。壇は逸見猶吉の紹介で満洲生活必需品会社弘報科に入り『物資と配給』に文章も書いていたのだが、壇の『青春放浪』(筑摩書房 昭和51年)によれば、新京北部の寛城子に住んでいた壇が、ヤブロニーのロシア人が売りに出した蜜蜂の巣箱70箱ともども家屋を購入しようかと、その可否を聞きまわったうちの一人に「山崎図書館長」もいた。そして山崎は「賛成」と言ったとある。
ちなみに訪ねて歩いてまわった人物として名前の挙がるのは、「藤山博物館長賛成、山崎図書館長賛成、杉村満日文化協会理事賛成、武藤弘報処長賛成、坪井與賛成、内田辰次らで」、内田は「「オレも連れていってくれよ」と情けない哀願の声をあげた」と出ている。
ここにでる藤山は藤山一雄で、館長ではなく満洲国国立中央博物館の副館長、杉村は杉村勇造で満日文化協会常務主事、武藤は戦後『私と満州国』(文藝春秋)を書いた武藤富男、逸見猶吉は本名大野四郎で『満洲浪漫』に参加した詩人、坪井與は壇の高校時代からの友人で満洲日日新聞のちに満洲映画協会、内田辰次は昭和17年4月に柿沼介や黒田源次らと満洲心理学会を立ち上げた人物で、満日文化協会内にあった満洲民族学会事務局のち奉天博物館に勤務、また壇一雄の妹久美の夫君であった。

書き込んだらよかったと考えることがらは、いわばこうしたことなのだ、このようにたとえば内地から満洲にやってきた作家らとの交遊も、わかるかぎりのことも書いていけば、なにかの役に立ったかもしれないと少し反省している。

そうしたことから、実は今年あたりから少しは「読書家」になりたいと思って、吉村昭『長英逃亡』などを読んだりしてきたのだったが、結局また、『戦争と文学 満洲の光と影』などを図書館から借り出して、仕事に強く傾斜した読書に舞い戻ってしまった。 (2018年1月11日 記)

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