ブログ・エッセイ


筑摩書房と『展望』、古田晃と臼井吉見、拙著『小島祐馬の生涯』

2016年8月14日

もう数十年前になるが、学生時代、左京区浄土寺に下宿していた。当時の下宿は、おおむね四畳半、トイレと洗面所は共同、風呂なしで4500円、というのが定番だった。

浄土寺の電停(市電の停留所)から西に入って突き当たったところに鈴木書店という小さな本屋があり、わたしはここで筑摩書房の『展望』と河出書房の『文芸』を定期購読していた。仕送りとバイトではなかなか暮らし向きは厳しく、ときに酒など飲んだりするとたちどころに二誌の支払いがおぼつかなくなる。今日あたり入荷だなと思っても支払い代金がなく、うつむいて通り過ぎようとすると、「雑誌来てるよ」と声をかけてくれる。いま持ち合わせが…と言うと、支払いはまたでいいよといってくれたりして、ますます顔をあげられなくなる。そんなわけで、『展望』は、昭和42年に入学した当時から愛読していた。

昨年秋にようやく臼井吉見『安曇野』5巻を読み終えて、その第5巻で、臼井の戦中戦後や筑摩書房、『展望』のことなど、おおむね知ることができたが、もうすこしこの臼井吉見と筑摩書房のことを知りたいと思い、柏原成光『友 臼井吉見と古田晃と』(紅書房 2013年)を読んでみた。この臼井と古田は、二人三脚というか、小説の題材・題名となってもよいような友情というのか、言葉に言い表せないようなつながりで筑摩書房を起こし出版をおこなってきたことがよくわかる。

戦後の昭和21年、古田や臼井は唐木順三と中村光夫を交えて編輯会議をおこない『展望』を刊行する。創刊号の執筆陣は、務台理作・西谷啓治・三木清・柳田國男・吉川幸次郎・永井荷風ら、錚々たるメンバーだ。
しかしながらこの陣容に対しては、筋が通っていない、と論評されたりしたようだ。臼井らはそんな評判など気にしなかったというが、ともあれ臼井の感性で、「よし!」と思う人に書いてもらう、というのが編輯方針の柱でもあった。よいと思う人、というのは、臼井にとっては「断固としてよい!」と思う、ということだったろう。それにしても臼井の人を見る目の確かさと、その交友の広さには驚くはかりだ。出版社や編集者っていうのは、本来はこういう人たちのことを言うのだろうな、とあらためて確認した。

先般奈良大学の雑誌庫で天理図書館の『ビブリオ』を探していて、「び」の誌名の五十音順の配列が幾通りにもなっていてすぐには見つからず、念のため「天理」の方も探していたときに、たまたま『展望』創刊号が書架にあるのが目に付いた。手にとって編輯後記をみてみると、そこには「敗戦の悲惨は、何といったところで、日本文化の低さと弱さにねざしてゐる」とはじめられ、過去の究明・現実の凝視・将来への透視、これらが有機的統一的に世界史的展望の規模でおこなわれるべきと、なかなか気負った文章が目に付いた。意気込みが伝わってくる文章である。

その『展望』もいったん休刊となり1964年に再刊されるが、わたしが購読した時期のものはこの第二期のものということになる。その時期でも『展望』は、『世界』のように時論的なものではなく、何というか教養主義というか、筋が通っていないようにみえても遠い地点、深い底流においてはつながっているというような論考をわたしは好んで読んだ気がする。そうした緩いつながり、というようなものが自分の性にあっていたのだろう、学生時代にこの『展望』の記事を持続して読んだというのが、いまの自身の姿のどこかとつながっているような気がしてならない。

一昨年に『小島祐馬の生涯』という本を京都の臨川書店から出してもらったが、このとき、竹之内静雄が書いた小島祐馬の回想「南海の隠逸」は、ずいぶん参考にさせてもらった。竹之内は昭和41年古田晃が社長を退任したのちに筑摩書房の社長に就いたひとだが、小島の晩年の弟子で身近に小島と接してきただけあって、竹之内のこの回想はなかなか超えられない。竹之内は昭和57年に退任しているから、わたしはこの竹之内社長時代の『展望』を愛読したということになる。

さきの臼井と古田の交友についてだが、柏原成光『友 臼井吉見と古田晃と』も面白く読めた。柏原が執筆するのに参照した臼井吉見の随想や古田晃の回想など、巻末に掲げてあるものを少しずつ読んでみようかなと思ったりしている。『安曇野』が面白かったこと、「安曇野」という場所のことをもう一度考えてみたいと思ったこと、そしてやはり当時の臼井吉見をめぐる文人たちとの交友を知りたいと思ったこと、これがいまのわたしの気分である。 (2016年8月14日記)