ブログ・エッセイ


家庭菜園近況、はじまりの樟葉時代家庭菜園

投稿日 2016年6月30日
娘のところに第二子が生まれて、しばらくわが家に滞在したことから、なかなか畑にいく時間がとれず、いささかストレスだった。菜園は上手ではないのだが、近年少しは収穫もあり、それらの野菜を洗ったり、下処理をしたり、調理をしたりしているが、平常時にはリズムもとれていてまずまずだったのだが、娘らの滞在で少し「変拍子」になり、「休符記号」もだんだん長いものになってしまって、辛かった。娘と孫は先週自宅にもどったので、平常生活にもどりつつある。
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家庭菜園は、キャリアだけは長く40年ぐらいにはなるだろうか。だがキャリアという言葉はふさわしくなく、畑を借りているだけ、という期間もあっていまなお、相も変わらず上達しない。この体たらくでは、40年やっているなど、けっして口に上らせることはできない。
この家庭菜園歴をすこし振り返ってみることにする。大学生時代の後半、もう40数年前のことだが、当時の風潮もあり、また司法試験を目指す学生がいた法学部では留年することも珍しくなかった。わたしも、このまま就職するのはいやだなと思い思い、ついに大学生活6年目の終盤にさしかかってきた。そろそろ仕事を、と思っていたところ、ちょうど大阪府立図書館の採用試験があって首尾よく司書の職を得た。ところがその採用試験が2月末だったか3月だったか、そして採用通知が3月終わりというタイトなものであった。いまさら住むところを探すにも間に合わず、仕方なく、同じく6年大学にいて大阪府に勤めることとなった友人が樟葉の文化住宅に借りるというので、しばらく同居させてもらった。この樟葉の文化住宅というのは、その隣の棟に、大学4年で卒業してすぐに結婚し大阪の金融機関に勤めていた友人夫婦が住んでいて、その紹介の住宅だった。
樟葉に住み始めてすぐに、もう一人友人がいっしょに住むことになって、共同生活は三人になった。ある日、枚方市の広報で家庭菜園の募集があるという記事を見つけて、それに申し込んだ。これがそもそもわたしたちの家庭菜園の始まりである。あたらしい農地だったので連作障害もなかったのか、枝豆などじつによくできた。
わたしは次の年の1月に結婚しその文化住宅を出て、橋本に住み、その後男山へと転居した。この4,5年ほどの間は家庭菜園とは無縁だった。その後、当時の田辺町に京都府の公社の家を買って、先住だった男山時代の友人たちともども、またぞろ畑を借りて家庭菜園を始めたのだった。
わたしたちはまだ若くて家庭菜園は仕事の合間だった。またわたしは、仕事以外にもなにか調べたり書いたりもしていたから、菜園は実におろそかになり、借りていた畑から、追い出しを食ったこともある。日曜菜園の名にも値しないような菜園仕事だった。仲間の友人たちもみな畑作業は素人だし、仕事もあるから、なかなか手が回らず、みなそれぞれに草をはやす始末だったから、地主から追い出しを食ったのは、わたしだけの怠慢のせいではない。
そして借りていた畑から何度か追い出されながらも、わたしたちはめげることなく家庭菜園を持続させ、それぞれに定年を迎える歳となった。時間の余裕も少しはできて、畑に掛ける時間も増えた。収穫も少ないながらもあがるようになった。
定年後の今の畑は、先の大阪府勤務の友人と、そよ風幼稚園・プレイスクール時代の友人2人の合計4人で始めたものだ。ところが数年前にこの大阪府勤務だった友人が急逝し、いまは3人となった。100坪ほどを4人で借りてやっていたのだが、それを3人でやることとなり、農地も増え、歳も重ねてしんどいのだが、畑に行くとこれら友人と会えるし、畑仕事を終えて夕刻一緒にあれこれと話をしながら帰宅するのは、なかなか得難い楽しみ、喜びでもある。定年後はこうして過ごそうと考えて、細々と持続させてきた家庭菜園だった。
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ところで、この急逝した友人の葬儀の時のことだが、なにか思い出を語れといわれて、樟葉時代の家庭菜園のことから始めて、田辺町の今の畑を一緒にやっていたことをしゃべったのだったが、葬儀のあと大学時代の友人と食事方がた酒を飲んだとき、「あの樟葉の家庭菜園用地の申し込みはおれが市役所に出向いて並んだんだぞ」と、言われた。そういえば、あの樟葉時代、大阪府勤務の友人と、図書館勤務のわたしは、昼間は仕事があるから、市役所に行って申し込むことはできない。そうか、この市役所に出向いて申し込んでくれたのは、この三人目の同居人だったのか、とあらためて知った。
葛葉のこの住宅には三人で住んでいて、隣の棟には友人の夫婦も住んでいたから、来客も多く宴会も盛んにあって、実に楽しい毎日を送っていたのであった。ところがこの市役所に出向いて申し込んでくれた三人目の同居人の友人は、遅ればせながら司法試験を受けようかと考えていて、「こんなに宴会続き、楽しい毎日であれば、勉強もできないじゃないか」と、さっさ同居を諦めて、以前の棲家である京都北白川のぷくとん荘に引き揚げてしまったのだった。
ともあれこの三人目のおかげでわたしは、いまなお家庭菜園を楽しむことができているということになる。あらためて感謝。
2016年6月30日記