ブログ・エッセイ


志智嘉九郎、興亜院華北連絡部調査官、北京日本大使館文化局、報道班

『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』に、志智嘉九郎といった人物を採録するかどうか、迷うところだ。
基本方針としては、戦前期外地に赴いた人物であってもそれが企業や官庁に勤務した場合は、たとえ戦後に図書館で働いた人物であっても採録しないつもりである。そして、この図書館員というのを、職種を問わず図書館で働いた人物ということとし、また資料室員まで拡大して再録しようとは考えている。
ただこの資料室というのも、調査員と兼務であったりまたその機関の規模にも関係したりする。例えば満洲国の新京資料室聯合会に組織化された各省庁の資料室の職員などは図書館員に近い存在だと思うのだが、一方満鉄調査部の資料課職員などのように、調査員に近い存在で研究者もたくさんいるだろう。このあたりはどうしてグレイゾーンになる。
そしてこの志智嘉九郎である。
かれは昭和14年に興亜院華北連絡部調査官として北京に赴いたのだが、この機関はのち北京日本大使館に改組となって調査官として文化局さらに最後の1年を報道班に勤務したのであった。
この北京時代の事情については、志智の私家版『中国旅游記』や『弐人の漢奸』に書かれていることもあり興味深く、戦後の実情もよく知れることから、いちおう人名辞典には再録しようかと考えている。
志智は当時、江濤という中国名を使っていた。語学もできることから、時に中国人として仕事をしたりもしている(志智嘉「北京暮色」『三叉路の赤いポスト』みるめ書房 1963年)。ちなみにこの「嘉」は「よみす」と読ませる。
そんな志智であるが、戦後からの回想で、当時懇意にしていた北京の呉夫人から、一方で戦争をしながら一方で文化提携の仕事をしている日本人の志智に対し「毎日、無駄なことで忙しそうにしているのね」と皮肉を言われたことなどを記している。中国人との親密な付き合いもあったこと、また大使館で文化活動に従事していて、それなりに信頼をされていたことなども窺い知れる。
こうして志智は終戦を北京で迎える。北京では、9月下旬の天津出張のすきに居宅の家具などを中国軍人を装った賊に持ち去られたりもした。
11月になると、天津の塘沽から華北在住日本人の引き揚げ事務を手伝うために天津総領事館に出向している。中国側の機関からの留用であり辞令も出ていたのだが報酬があるわけでもなく基本的には大使館の管轄下にあった(「弗を買う」『弐人の漢奸』)。そんななか、昭和21年1月には天津から北京大使館に出向き、危険極まるなか再び天津まで大金の札束を届けたこともあったという(「見知らぬ乗客」『三叉路の赤いポスト』)。こうして志智は、戦前戦後を通じて7年間中国で過ごし昭和21年5月に引き揚げ、昭和23年神戸市立図書館館長となって昭和39年まで勤務した。
平成7(1995)年1月17日のは阪神淡路大震災が起こるが、志智は京都に避難、しかしながら惜しくも同年4月28日死去している。
志智を回想したものには、先にあげたもののほか、「Liberの頃」『文部大臣賞を受賞して 回想・私と図書館』日本図書館協会 1981年、また追悼文などは、伊藤昭治「志智嘉九郎さんの人柄を偲んで」、石塚栄二「志智さんのご冥福を祈る」『図書館界』1995年11月、伊藤昭治「志智嘉九郎の業績に就いて」『図書館人物伝』日外アソシエーツ 2007年)などがある。
補記ながら、昭和17年には北京で『漢民族と北方民族の接觸における諸樣相 特に漢民族の民族意識について』を北京思想對策評議會から刊行している。これも一度閲覧してみたいと思っている。                         2016年6月3日記