ブログ・エッセイ


終戦時上海で堀田善衛らが刊行した同人誌のこと、菊池租のこと

『戦前期外地図書館員人名辞典』(仮題)に採録しようとしている菊池租(みつぎ)のこと、終戦時上海で堀田善衛が創刊した同人誌のことを書いておく。

福岡県立図書館で司書をしていた菊池租は、九州帝国大学大学院で同窓だった山室三良に請われて昭和12(1937)年1月18日北京近代科学図書館に転任し総務主任となった(『北京近代科学図書館一週年報告』)。同年には盧溝橋事件が起こり一時休館した。菊池はこの広大な敷地の一角の事務室で宿直をした。
図書館では、山室三良・銭稲孫らとともに『中国現代文読本』の編集刊行にも関わり、日語学校の講師も務めている(「本館最近概況」『館刊 第5号』)。しかしながら菊池は、夫人を結核で亡くしたこともあって、失意のもと、昭和16(1941)年12月には同館を退職した。その後は、昭和18年に国際文化振興会満支課長、翌年には上海資料室主任となっている。
こうして菊池は終戦を上海で迎えるのだが、菊池が戦後からの回想記のなかで、終戦後すぐの時期に、「上海在留の文化人たちが同人雑誌みたいなものを出しておりました」と書いているのをみて興味をひかれた。そしてまたその回想には、同人誌に石上玄一郎の短編が載り、石上が「自分の主体性がそそり立つ」といったことを書いていることについて堀田に問うたと記している(菊池租「HOMO SUI GEBNERIS 自焚記」『図書館雑誌』昭和41年7月)。
そんなことから、この同人誌がどんなものだったのか、菊池も編輯に関わっていたのか、また菊池と堀田との関係はどんなものだったのか気になって、少しだけだが調べてみた。この堀田善衛は終戦前の昭和20年3月に再び国際文化振興会に戻って上海資料室勤めをし、また石上玄一郎は昭和19年に上海に渡り中日文化協会に勤務していた。
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終戦直前のことだが、堀田善衛は昭和20年6月、上海西郊万国公墓にある、当時は「小さななんということもない」魯迅の墓を見に行ったことがあったと回想しており、それに同道したのが武田泰淳だったか菊池租だったかと書いている(『上海にて』筑摩書房 1969年)。
菊池は職場では、職制から言えば上司に当たっていたわけだが、上海の資料室で「なにひとつ仕事らしいことは出来ず」にいた堀田にとっては、上司とか同輩とかそんな認識もあまりなかったことであろう。ちなみに戦後の上海時代のことを記した『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』には、8月6日の条に、堀田が菊池・金谷少佐ら六人と食事をしたとき、菊池が忠告におよんだこと、10月16日には会田綱雄宅で堀田・武田らと「会」に出かけたあと、武田泰淳が菊池宅に泊まったことなど、各所に菊池の名前が出てくる。
さて、同人誌のことだが、『堀田善衛集』(河出書房 新文学全集)の「年譜」などには、昭和21年5月「反省と希望」を『改造評論』(上海)に発表とあり、また先の『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』昭和20年12月13日の条には中央宣伝部対日文化工作委員会の日文雑誌『新生』というのが出てくる。菊池が言及している同人雑誌とはこの『新生』であろうか。先の回想では石上玄一郎の短編、とあるのだが、実は本書の紅野謙介「解題」の『新生』「原稿受入簿」一覧表には、堀田・内山完造・武田泰淳ら執筆者の名前が載っているのだが石上の名前はない。ちなみに菊池の名前も見当たらない(『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』集英社 2008年)。どうも石上の原稿がこの中にないとすると、菊池の回想とすこしすれ違うことになり、せっかくのこの推測も正確さが薄れてしまう。
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また同人誌ではないのだが、終戦の年の8月12日に早や日本の敗戦を知った堀田は、上海在住の幾人かに弁解や戦争の正当化ではなく「正確な一言」の文章を書いてもらって「告中国文化人書」(中国文化人ニ告グルノ書)をパンフレットにして刊行することを計画し中国語訳し印刷所に回す作業を進めていた。ところが15日に玉音放送をこの印刷所で聞いたことからパンフレット刊行計画は中止になってしまった。
そのときの「告中国文化人書」執筆予定者(依頼者)を堀田は上げているのだが、そこには、吉田東祐・広瀬庫太郎・小竹文夫・武田泰淳・末包敏夫・内山完造・山岸嘉子・星野芳樹・船津辰一郎・仮屋久太郎・高橋良三・林俊夫など上げているのだが、菊池の名前はここにもない。菊池の名前は見当たらなかったが、上海日本近代科学図書館の名誉館長だった船津辰一郎の名前があがっていることがわかり、これは収穫だった(『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』集英社 2008年)。
菊池租の「HOMO SUI GEBNERIS 自焚記」は昭和41年7月ごろに書かれた終戦時の回想であり、その後盛名なった堀田善衛のエピソードにも触れてみたというものであろうか。とはいえ、当時上海に留まっていた堀田や菊池のことも知りえて興味深いものだった。
満洲の国策企業には、例えば社内報などに寄稿するという立場で日本の文筆家が「食客」として渡満していたが、「食客」というわけではないにせよ、堀田がそれに近いかたちで国際文化振興会上海資料室にいたとも推測できる。そして菊池租はその「主任」という立場で仕事をしていたわけであろう。こんな二人の関係も垣間見られて、興味深かった。 2016年6月8日記

附記:
この『新生』という雑誌が、中国国家図書館とアメリカ議会図書館に所蔵されていることが判明したという報道が2019年2月にあった。あわせて解題を付して雑誌に発表されている。その創刊号には、堀田善衛「文学の立場」、武田泰淳「中国文学と世界」、第五号に伏木海之(堀田善衛)「中国のポスター」、武田泰淳「敷衍について」が掲載されているという(「堀田善衛さん 幻の原稿発見 終戦翌年、中国で発表」『日本経済新聞』2019年2月2日、秦剛「解説 上海で出発した戦後派作家―雑誌『新生』の堀田善衛と武田泰淳」『すばる』2019年3月)。菊池が回想文で書いている「上海在留の文化人たちが同人雑誌みたいなものを出して」いたという同人誌はやはり『新生』であったわけである。
また少し前の時期だが、武田が戦争末期に上海で執筆した「神鷲」を収載した同書名の本が上海図書館に所蔵されていることを奈良大学の木田隆文が発見したという報道もあったことも附記しておきたい(「武田泰淳の「神鷲」 日中戦末期の執筆、発見」『京都新聞』2017年9月22日)。
2021年10月13日 記