ブログ・エッセイ


角館常光院の戊辰戦争 官軍側 殉難墓地、また阿部合成のこと

京都の話から。黒谷の金戒光明寺の墓所を北に向かうと、真如堂墓地のほど近くに会津藩殉難者墓地がある。
この黒谷から真如堂に抜ける道は学生時代からよく散策した。それに黒谷に眠る学者・文人の墓所へは、墓所の本を手にして幾度も掃苔に訪れた。
黒谷金戒光明寺は会津藩主松平容保が京都守護職に任じられて本陣をおいた場所として名高い。そんなことから、会津方面から修学旅行で京都にやって来た高校生らも、金戒光明寺に参拝し、この殉難者墓所にもお参りにくる。殉難者の各墓所にはきれいな花があがっていたり、また置かれているノートにも墓参の感想が書き記されていたりしている。そんなことから、戊辰戦争の殉難者墓地というと、まず初めにこの黒谷の墓所を思い浮かべる。
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この5月9日(2016年)、仙台の息子のところに出かけて孫の顔を見てから角館まで足を延ばしてみた。
桜の季節は終わっていたことから角館の武家屋敷の道筋はたいそう静かで、またお天気にも恵まれたことからのんびりとした歩くことができ楽しい一日になった。
武家屋敷を歩いて突き当りの平福百穂記念美術館の展示を拝見して、戻りは一本西側の道を歩いた。当日は気温も高く疲れてきたこともありお茶にしたかったのだが、観光地のカフェ風にはあまり入る気になれず、JRの新幹線こまちから降車した角館駅のほど近い場所に好ましい喫茶店があるのを確認していたのでそこまでお茶は我慢して休まず西側の帰り道を歩くことにした。
その途中、しばらく歩いたところに常光院というお寺があったので入ってみた。するとそこには、戊辰戦争の援軍として九州などから東北までやってきて官軍側として角館戦線で戦った平戸藩士らの墓所があり、15歳をもって亡くなった大村藩の太鼓手の少年 浜田謹吾の顕、彰碑が建っていた。
戊辰戦争の殉難者墓地というと先の京都黒谷の会津藩殉難者墓地の印象が強かったことから、この官軍側の、しかも東北列藩同盟を討つために九州大村藩や平戸藩などから出かけてきた人たちの墓所が角館にあることに驚いた。
大村藩士7名の戦没者はのちに郷里にて改葬されたようでこの常光院には援軍の平戸藩7名と長州藩・薩摩藩各1名が祀られている。考えてみれば、在職時代の京都の勤務先大学からさほど遠くない寺町頭にある上善寺にも、元治元(1864)年の禁門の変で亡くなった長州藩士入江九一ら8名が祀られてあったわけだし驚くほどのことでもなかったのだろう。
何年か前に、内藤湖南の生誕地である鹿角毛馬内を訪れたことがあるのだが、南部藩側の内藤家も戊辰戦争で東北列藩同盟側につき、官軍側の佐竹と激しい戦闘のすえ敗れて「賊軍」となってしまい、南部藩の毛馬内も、のちには秋田県に属することとなった。内藤家は士分を失って湖南の父十湾ともども苦労したことは少し前に学んでいた。
一方の、今回訪れた角館は佐竹北家の領地であり、佐竹は戊辰戦争では新政府軍側で戦っている。この角館の常光院の墓所および顕彰碑は、その角館戦に九州大村藩・平戸藩から佐竹に味方して参戦して亡くなった藩士が祀られ、15歳で死した大村藩太鼓手浜田謹吾の顕彰碑があるというわけだ。
このように史蹟を廻っていて、とりわけ歴史を纏っている墓所に出会うと、気が引き締まる想いがする。東北の戊辰戦争では秋田の佐竹氏が政府軍側について、孤立のなかで東北列藩同盟軍と戦い、激しい戦闘の末にようやく角館を防衛したのだという。毛馬内ならずとも地域によっては血を分けた親族が敵味方に分かれて戦ったこともあるであろう。
また遠国の各藩から加勢にやってきて不運にもその血で戦死した場合もある。そうした戦死者らがそれぞれに、いろんな場所に祀られてあるということにいまさらながら想いを深くした。
帰路、角館の駅に向かう途上で、駅を降りたときから帰りにお茶をしようと思い定めていた喫茶店で一休みし、店内に流れるボサノバの調べに癒されながらお茶を飲んだ。若い頃さかんに山登りしたであろう風情のマスターから、角館では和風建築の横に洋風の建物を建てたりするという角館建物事情なども聞かせてもらい、またうっかりと通り過ごした建物の話など伺って、短い時間だったがここでもよい勉強をさせてもらった。
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それからもう一つ。武家屋敷の道筋をあるいていてお昼にしようと、陶器を売っている店の二階で稲庭うどんを食べた時のこと。店には少し古い時期の写真も貼られていて、わたしたちが座った店の奥には幾枚かの絵も掛けられてあった。なかには三人の男が語り合っている絵などあって実によい。
うどんを食したあとお勘定のときに店の主人にこれらの絵のことを尋ねると、これは太宰治と旧制青森中学で同窓だった阿部合成のものですと言われた。よい絵ですね、と言うと店の主人は、この絵のことをおっしゃったのは店を開いて以来あなたで二人目です、と。
京都に帰ったあとで少し調べてみると、阿部合成と言う人は、明治43(1910)年青青森市の生まれ、太宰と青森中学の同窓で京都絵画専門学校に進学し入江波光の教えを受けた画家、昭和18年には招集されて満洲に出征、戦後シベリアでの抑留体験もある、と知った。
知らないことが本当にたくさんある。ことに歳をとってからそう実感する。
角館も当初思っていたイメージと違う展開となりたいそう楽しかった。