ブログ・エッセイ


愛媛大学鈴鹿文庫訪問と小島正壽『菱花残片』のこと、中川与之助のこと

今年(2016年)3月の末に松山に出かけた。
目的は愛媛大学の鈴鹿文庫に所蔵の、小島正壽の遺稿集『菱花残片』を閲覧することであった。目的の閲覧をすませてその足で松山市内の正岡子規の史蹟も少し廻り、子規記念館の展示も丹念にみたりもした。
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この愛媛大学の鈴鹿文庫というのはもともと神道家卜部家の蔵書群で、江戸時代後期香川景樹門下の鈴鹿連胤(つらたね)がさらに多くの資料を収集し、さらに連胤曾孫の鈴鹿三七がいっそう豊かにしたものだ。
この文庫がどういう経緯で愛媛大学に収まったのかと疑問に思っていたのだったが、それは鈴鹿三七夫人が愛媛大学教授で図書館長だった井手淳二郎の令妹であることから、三七が昭和42(1967)年に亡くなった後に愛媛大学に収められることとなったのだった(小泉道「「鈴鹿文庫」の設置について 故鈴鹿三七氏蔵書が図書館へ」『(愛媛大学附属図書館)図書館だより』4号 昭和53年3月)。
文庫の経緯は分かったのだが、今度は、鈴鹿三七の蔵書になぜ小島正壽の遺稿集が含まれているのか、そんな疑問がわいてきた。
小島正壽は若い頃は小説も書き以後ずっと歌を詠み、また書にも秀でたひとだ。
高知大学の小島文庫に夫君小島祐馬の遺稿集配付先メモがあったことを思いだしっもう一度高知まで調べに行ってみたのだが、そこには三七の名前はなかった。
当てが外れて残念な気持ちで、鈴鹿家墓所の吉田神葬墓地附近の鈴鹿氏のこと、北白川界隈のことなどあれこれと思いをめぐらせてみたりした。
鈴鹿一族はこの吉田のあたりに多く住まわっている。そしてふと、川田順と恋に落ちた鈴鹿俊子のことなどを考えてみたりもした。
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川田順は、昭和16年末ごろに京都に転居し、昭和18年末ごろから俊子の夫で京都帝国大学経済学部教授の中川与之助の家に出入りをし始めている。
俊子が川田と初めて出会ったのが昭和19年5月頃、それは銀閣寺近くの京都帝国大学附属図書館初代館長の島文次郎宅であった(廣庭基介「資料 島文次郎京都帝国大学附属図書館初代館長年譜について」『花園大学文学部研究紀要』32号 2000年、中川与之助「業苦の記録」『苦悩する魂の記』山口書店 昭和24年3月、「老いらくの時代」『葵の女 川田順自叙伝』講談社 昭和34年8月)。
そんなことから正壽もこの歌人仲間の周辺にいたこともあるかと思い、俊子の書いたものを読んでみたりした。興味深い「寄り道」だったのだが、鈴鹿俊子は鈴鹿三七の鈴鹿家とは関係なく、俊子の生家は真如堂の東陽院で、父親真順は僧侶、祖父が福井藩の下級武士であった(鈴鹿俊子 「一つの回想」「洛東東陽院」『夢候よ』博文館新社 1992年)。
こうして小島正壽の遺稿集が鈴鹿文庫に入っている経緯は、いまだにわからぬままなのだが、この「寄り道」でさらにいろんなことを考えてみた。例えば鈴鹿俊子の前夫中川伊之助と小島祐馬との接点などについてである。
小島は京都帝国大学経済学部が法科大学から独立した大正8(1919)年の9月に河上肇の紹介で経済学部の 嘱託講師となっている。そして大正11年8月には京都帝国大学文学部の助教授に就任、昭和6年3月には教授に昇任している。専門は東洋の思想史である。
一方の中川与之助はといえば大正13年京都帝大経済学部を卒業し大学院に進んで昭和3年経済学部講師、昭和5年助教授、昭和8年には教授となっている。専攻はナチスの社会政策であった。中川が小島の授業を受けた可能性もなくはないが専攻が大きく異なり、また河上と親しかった小島は時として経済学部教官の研究会と文学部教官との橋渡しの役割も担ったりもしたのだが、どうもこの時代に小島と中川の親交があったとも考えにくい。
戦後になり、中川は戦前期のナチス社会政策研究により昭和21(1946)年に公職追放となり京大教授を辞職している。中川は、昭和21年3月に連合国総司令部CIE(民間情報教育局)ニューゼント局長が京都帝国大学教授ら9名の適格性の調査を依頼したうちの一人であったのだ。
この9名とは、中川与之助のほか石川興二・松岡孝児・蜷川虎三・柴田恭・谷口吉助(以上経済学部)・高山岩男・高坂正顕・鈴木成高である(山本礼子『占領下における教職追放』明星大学出版部 平成6年)。
このうちの鈴木成高は小島の娘素子の婿である。鈴木は戦前の『中央公論』の対談などを理由に教職不適格者とされて京大助教授を辞職したのであった。
教職不適格者という判断は、侵略主義や好戦的国家主義の鼓吹など戦争に理念的な基礎を与えた者という抽象的なものであったのだが、「不適格者」ということで、中川も鈴木も教職を追われることとなる。
この教職適格審査は東大教授の兼務で学校教育局長に就いていた田中耕太郎が情熱を傾けて取り組んだ仕事であったが、実は田中耕太郎と小島祐馬とは、昭和13年の帝国大学総長任命権問題で激しくやりあった仲であった(このことは拙著『小島祐馬の生涯』で詳述した)。なにか因縁を感じさせる出来事である。
とはいえ、こうした事実を書き連ねても、しょせん寄り道であり、小島正壽の遺稿集がどのようにして鈴鹿三七の手に渡ったのかという経緯は明らかにならず、不明のままではある。だがこの経緯がわかれば面白いのではないかと思い、もうすこし気にかけてみたいと考えているところだ。
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ちなみに川田順の墓所は、法然院の旧墓地区域にあり、内藤湖南や濱田青陵、九鬼周造らと並んで建っている。ここは幾度もお参りした。一方、鈴鹿俊子と別れることとなった中川与之助の墓所は豊岡にある。病を得た中川は城崎の温泉で療養し、三度目に結婚することとなった益田冬子が中川を献身的に看護し中川はまた豊岡の人たちともよく交流した。
中川は昭和43(1968)年7月31日の夜に豊岡市気比の自宅で亡くなったのだが、地元の人たちの中川への人望も篤く、自宅近くの観正寺に墓も提供されたという(早瀬圭一『過ぎし愛のとき』)。こちらのほうにも一度お参りに行きたいと考えている。

鈴鹿三七・小島祐馬・小島正壽・川田順・鈴鹿俊子略年譜
明治14(1881)年12月3日小島祐馬が高知県吾川郡弘岡上で生まれる
明治15(1882)年1月15日東京市浅草区三味線堀で川田順生まれる
明治15(1882) 年8月26日 高知県吾川郡弘岡上の深瀬家に正壽生まれる
明治27(1882)年7月30日富山県上新川郡で中川与之助生まれる
明治41(1908)年 小島、深瀬正壽と結婚
明治42(1909)年9月18日鈴鹿俊子生まれる
大正3(1914)年 鈴鹿三七2月5日から8月31日 京都帝国大学附属図書館
大正7(1928)年 鈴鹿三七1月28日から京都帝国大学附属図書館(昭和25年4月5日まで)
大正10(1921)年10月末日現在、三七は京都神楽岡西麓尚東舎、吉田中大路町10(「会員名簿」『図書館雑誌』47号)
大正13(1924)年 中川、17歳の鈴鹿俊子と結婚
昭和18年(1933)末ぐらいから川田は中川家に出入り
昭和19(1944)年5月ごろ川田は島文次郎邸で鈴鹿俊子と会う
昭和21(1946)年初めごろから川田の中川家への出入り頻繁になる
昭和22(1947)年2月1日正壽死去
昭和22(1947)年5月初旬 法然院茶室で川田と俊子と関係し同墓地で川田和子夫人の墓前で報告。
昭和23(1948)年1月正壽子遺稿集『菱花残片』刊行(1月は「書後」による)
昭和23(1948)年8月13日中川は離婚届(中川与之助『苦悩する魂の記』)
昭和23(1948)年11月 産経新聞に司馬遼太郎の記事で報道、「老いらくの恋」
昭和23(1948)年11月30日川田自殺未遂
昭和27(1952)年4月 ノートルダム清心女子大学に国文科を創設することで三七招聘
昭和41(1966)年1月22日 川田順死去
昭和41(1966)年11月18日高知で小島死去
昭和42(1967)年 三七79歳で死去。のち旧蔵書は愛媛大学附属図書館に収蔵
昭和43(1968)年7月31日 中川、豊岡市気比の自宅で死去
平成20(2008)年2月20日 川田俊子死去