ブログ・エッセイ


岡田虎二郎の静坐法、大連静坐会と橋本五作

もうずいぶん前のことだが、一燈園を開いた西田天香(明治5年-昭和43年2月29日)や静坐法の岡田虎二郎(明治5年-大正9年10月17日)のことを勉強してみようと思った時期があって、本も何冊か買って持っていた。
それらは大学退職時に他の本といっしょに古本屋に持って行ってもらった。退職時の一時の気分で古本屋に渡してしまったのだけど、今思えばもったいないことをしたなと後悔している。

というのも、昨秋に読んだ臼井吉見『安曇野』全5巻に、木下尚江や相馬黒光らをめぐって岡田虎二郎と静坐法のことが一節を割いて書き記されていたこと、目下編纂刊行しようとしている外地図書館員の事績を調べるのに、満鉄社員会『協和』をざっと目を通していて、満鉄図書館員の事績は期待外れだったものの、その中に大連の静坐会のことに触れている記事を見つけて嬉しかった、そんなことがあったからである。

『協和』の大連静坐会の記事は次のとおり。

それは丸屋新三郎というひとの「静坐によって喘息を治すまで十数年来の難病が半年の修行で快復」(『協和』4巻11号 昭和5年6月1日)というものだった。
丸屋は長い間ぜんそくで悩み、かれの記述では、大正元年に110日、翌2年には170日寝込み、一時快方に向かったものの大正15年になっても治まらず60日、昭和2年の春だけで40日間床に伏したという。
それが昭和2年5月に大連静坐会に入会して「橋本先生」の指導で静坐を試みたところ、

あれだけ頑固な喘息もその年後半には出ることなくその後もなりを潜めて、体重も14貫目前後から16貫と7キロ半も増えたのだという。

満鉄本社のあった大連に静坐会があったということは、栗田英彦「国際日本文化研究センター所蔵静坐社資料」(『日本研究』第47集 2013年3月)で教えられていた。もう一度この文章を読んでみると、静坐社刊行の昭和6年『静坐』に各地で開かれていた静坐会の案内が載っているといい、東京7か所、京都2か所、大阪と神戸が各3か所、その他の地方21か所、それに大連2か所、京城府1か所、台北市1か所、長春1か所であった。
そしてこの大連では旅順工科大学の橋本五作、と出ていた。先の丸屋の文中にある「橋本先生」とはこの橋本五作先生であろう。
『満洲紳士録』で見てみると橋本の略歴は次のとおり。

橋本は明治9年3月山形県米沢の生まれ。
明治37年東京高等師範を卒業後大正3年に専攻科英語科を修了。
埼玉師範、奈良師範、福井高等女学校校長などを経て大正9年7月旅順工科学堂教授となり改称後の旅順工科大学教授。静坐や謡曲を趣味にしている。

住所は旅順市明治町15である(『満蒙日本人紳士録 昭和4年』)。
旅順は大連と隣接する都市であり、静坐会は満鉄社員も多く住む大連で開催したのであろう。

なお橋本には 静坐法の著作『岡田式静坐の力』正続 松邑三松堂(東京)大正6年、大正11年があるが、筆者未見。日文研の静坐会資料に所蔵があるようだ。

追記:川田順と鈴鹿俊子の、いわゆる「おいらくの恋」の一方の当事者中川伊之助も、この岡田虎二郎の静坐法を実践しており、京都の静坐会の機関紙にも執筆していることを栗田英彦の資料紹介で知った。中川については、辻井喬の小説『虹の岬』でずいぶんひどく描かれているが、早瀬圭一『過ぎし愛のとき』は取材に基づいて書かれたもので、晩年の中川の人柄もよく描かれて感銘を受ける。いずれ中川の墓所も詣でて、そのこともここで報告したいと思っている。