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北方圏学会の役員たち 8 松木侠(たもつ)

北方圏学会の役員たち 8 松木侠(たもつ)
明治38(1898)年山形県西田川郡大宝寺村(現在の鶴岡市大宝寺)で松木清直の3男として生まれた。大正5(1916)年荘内中学校を卒業し旧制二高から東京帝国大学法学部に進み大正11年法学部ドイツ法律科を卒業した。同年5月に渡満して満鉄に入社。昭和6年(1931)8月上海事務所に転任のち関東軍法律顧問となる。大同元(昭和7、1932)年3月満洲国の建国とともに法制局長。3月9日に教令第2号「人権保障法」が公布されたが、この満洲国の基本法のひとつとされるこの人権保障法の起草者とされる(樋口秀美「満洲国における「国家」と「自由」-「人権保障法」の制定をめぐって」『国学院雑誌』第123巻3号 2022年)。6月法制局参事官、欧米に留学し法制度を学ぶ。大同4(1937)年6月総務庁法制処長、翌(1938)年3月参議府秘書局長となるがこの松木の後任は神尾弌春であった。康徳7(1940)年5月総務庁次長。次長在任中に「満洲開拓政策第二期五ケ年計画要綱」を稲垣征夫興農部長・武部六蔵総務長官らと審議し決定している(小都晶子『「満洲国」の日本人移民政策』汲古書院 2019年)。 康徳10(1943)年6月審計局長官、康徳11(1944)年10月2日付けで大同学院長。
終戦後は東京で弁護士。昭和29(1954)年2月鶴岡市長。昭和37年7月10日死去、墓所は鶴岡の(『新編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会 1986年)。

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先の樋口秀美「満洲国における「国家」と「自由」-「人権保障法」の制定をめぐって」に導かれてこの人権保障法の制定前後、つまり満洲事変から満洲国成立までの間の松木侠のことについてメモを作っておきたい。
関東軍法律顧問に就いた松木は満洲事変後の昭和6年10月、関東軍高級参謀板垣征四郎を訪ねた。ここで松木は板垣から新国家の「青写真」を描いてほしいと依頼される。松木は、建国宣言や政府組織、法律制度などに思いを巡らし、政府組織法や人権保障法を策定した。これが昭和6年10月21日付の松木起草になる「満蒙共和国統治大綱案」である。
この大綱案は昭和7年1月関東軍司令部での参謀長三宅光治、板垣征四郎・石原莞爾・片倉衷・土肥原賢二らによる会議で討議され大綱として定められ、これを基にして「建国順序の要綱」(満蒙新国家建設順序)が策定された。これをもとに、1月末奉天の張景恵の館で張景恵を委員長とし臧式毅・煕洽・馬占山ら奉天・吉林・黒龍江各省の首席(省長)および趙欣伯・于沖漢・丁鑑修らの間で第一次建国会議がもたれた(これは駒井徳三『大陸への悲願』大日本雄弁会講談社 昭和27年 でもふれられる)。 日本側の準備は奉天の土肥原公館にて、和知参謀・松木顧問・笠木良明ら自治指導部職員らにより進められた(片倉衷「大同学院の思い出」『渺茫として果てもなし 満洲国大同学院創設五十年』 大同学院同窓 1981年)。こうして新国家建設のために必要な国号・国旗・中央地方官制および国家組織法・人権保障条例など検討されることとなったのである。
これらはいずれも、当時満洲地方にはびこっていた軍閥政治を排除することが喫緊の課題であるとの認識に立ち、そのうえで中央集権に基づく新国家を樹立することが至上命題であるとされた。そのため、これら地方軍閥政治の残滓を払拭するための手段としてことさらに「地方自治」が叫ばれたという側面もあった。
ただこの地方の人民による自治・統治という文言には、ある「正しさ」もふくまれており、そうした新天地満洲での地方自治に「夢」を託して渡満する青年も数多く存在した。わたしがここに書いている「北方圏学会」の役員のひとり竹村茂昭もそうした人物であった。竹村は明治42年の生まれで、明治38年生まれの松木の4歳年下にあたる。竹村の渡満は、笠木良明の地方組織論つまり自治指導員(のちに参事官)による地方・村落の自治的な経営を重視する自治指導部体制に強く共感してのものであった。ただこの笠木は、中央集権の態勢が整っていく過程の大同元(1932)年7月に資政局が廃止となるとともに局長職も解かれている。竹村はといえば、その当初の理念を抱えて渡満し、地方参事官としての道を選んで生きていったのである(「北方圏学会役員たち 4 竹村茂昭」)。
さてもとに戻る。こうした新国家の国家組織をどのようなものにするか、とりわけ中央集権と地方自治とをいかに均衡をとるか、という国家の前提となる政治体制については、関東軍第三課を廃止して昭和6年12月に新設された関東軍統治部で検討された。部長は駒井徳三、次長武部治右衛門、行政課長が松木侠、交通課長山口重次、庶務課長是安正利という陣容で、満鉄や関東庁などからもその道の専門家を招いた。この松木課長の行政課では政治学者蝋山正道が参加し新国家の法制について検討した。ここで松木は、新国家では自主的自由すなわち自治の精神に則ってやっていきたいが、満洲地方の各省が対立的な立場にあり、奉天省では自治指導部による各県の自治が実施されている。こうしたなかで統一にむかう具体案はないだろうかと問うと、蝋山は自治指導部と省組織との統一的な形式は、指導部の活動を奉天省以外にも拡大すれば達成できるのではないかとの意見を述べている。続く会議でも松木は、省庁の権限を弱め、中央政府から地方への命令の「取次機関」としたらよいこと、また次の会議では、警察・課税の権限を県に認めればよいのではないかと意見を述べ、蝋山は中央に民政部のような部署ができて地方への命令を統一できれば問題はないと意見陳述をしている。
「国家組織全局の立案者」であった松木侠も自治指導部の考えが「企図する中央集権政治の統治を紊(みだ)すもの」であるとして民政部の下に民政局を置いて統制するという意見を持っていた(前掲片倉衷「大同学院の思い出」)。そして翌昭和7年には中央と県との関係が整理され、県長は民政部総長の推薦による官選とし、県は国の監督のもとに施政を行なうとされた。こうして資政局は廃止となり一部の参事官の退職という結果となったのであった。ここでも松木侠は、満洲国の統治体制を固めていく過程で大きな役割を担ったのであった。
ただ訓練所ではすでに訓練生の募集も終えて80数名が渡満してきており、こうした動きも無視できず、結局、官吏養成を目的とした訓練機関として大同学院を創設するに至ったのである。こんないきさつと因縁のある大同学院の院長に松木侠は康徳11(1944)年10月2日付けで就任したことになるのである。 2025年9月29日