ブログ・エッセイ
北方圏学会の役員たち 6 佐藤匡玄
佐藤匡玄
明治35年愛知県愛知郡千種町の生まれ。南設楽郡東郷西尋常高等小学校から曹洞宗第三中学林(愛知高校、現在の愛知学院高校)に進み、大正11年4月曹洞宗大学に入学する。曹洞宗大学は今の駒澤大学である。しかしながら7月には病気のために退学し転地療養を余儀なくされた。その後大正13年広島高等師範学校に入学し昭和3年3月広島高等師範学校文科第一部を卒業した。4月福岡県東筑中学教諭、昭和5年3月には退職。同年4月京都帝大文学部哲学科に入学し支那哲学史を専攻のち大学院に進んだ。昭和10年4月に三高漢文科講師嘱託、昭和10年7月三高講師を退職して東方文化学院京都研究所経学文学研究室嘱託員となる。研究所では倉石武四郎や吉川幸次郎による経学文学研究室で研鑽に励んだ。昭和13年大学院を退学し外務省文化事業部在支特別研究員として二年間北京に留学、留学の出発は森鹿三と同時であった。昭和15年東方文化学院京都研究所副研究員。
昭和16(康徳8、1941)年5 月1日建国大学講師として赴任、5月16日助教授、漢文を担当した。7月3日「支那文化」の調査のため奉天・承徳・錦県・大連方面に出張。『研究院月報』(昭和16年11月)に「支那學の問題」。9月27日言語班・日語分班研究会に参加。昭和17年1学年の専門科目として経学Ⅰを担当。なお昭和17年3月現在で建国大学教授・助教授は80有余名、学生数は前後期あわせて757名であったという。昭和17年6月日語研究分班は満洲国内での日語普及の調査のため現地に出張、佐藤は安東・寛甸・荘河・鳳城方面に向かった。昭和18年 8月1日漢文学科主任、9月8日図書整備員、12月5日から12月19日まで「支那文化」に関する研究資料収集のため京都に出張。また昭和19年にも12月10日から29日まで京都・東京に経学の資料調査に出張している。
また佐藤は、戦後の昭和32年4月に『論衡の研究』により京都大学から文学博士の学位を得ているのだが、論衡に関心を持ったのは戦前期京都帝大文学部の小島祐馬の特殊講義「論衡研究」がきっかけであったと書いている。本格的にその研究に取り掛かったのは建国大学赴任後のことで、宮内省図書寮所蔵の資料を参照するために建国大学と図書寮との間をいく度も行き来したという。康徳3(昭和20)年に総合学術誌『北方圏』を創刊した北方圏学会の役員(世話役)に就任している。そして創刊号に「黄帝論」を、第4号に「壇と社」を寄稿している。『佐藤匡玄博士頌壽記念東洋學論集』の「主な発表論文・著書等」の、『北方圏』 第4号「黄帝論」とあるがこれは創刊号に所収の論文である。
またこれは蛇足であるが、建国大学で同僚大間知篤三が学生と済南の現地調査に出た時、新民会から「支那料理」の接待を受けた。そのデザートに、白くて輝くばかりの饅頭(まんとう)が出てきて、それをみた学生一同が目を見張っていると、大間知はすかさず「サトウキョウゲン」と言った。学生たちは一瞬わからずきょとんとしていたが、すぐに気づいて一同大爆笑となった。「サトウキョウゲン」はこの漢学教授「佐藤匡玄」のことで、見事に禿げ上がっていた佐藤教授の頭のことを大間知がそのように称したのであろう。たわいのないエピソードでありまた大間知がそのようにユーモアのあった人物かどうかは知れないが、佐藤匡玄と大間知との関係もうかがわれるかと思い記しておいた。
戦後に引き揚げた佐藤は、昭和24年5月愛知学芸大学の教授(現在の愛知教育大学)に就任した。昭和34年には愛知学芸大学の学長に選ばれている。愛知学芸大学を定年退官した後には愛知学院大学の教授に就任し、文学部宗教学科・心理学科の増設に尽力した。そんな佐藤匡玄が亡くなったのは平成5(1993)年10月7日のことである(「佐藤匡玄博士略年譜」『佐藤匡玄博士頌壽記念東洋學論集』朋友書店 19980年、「あとがき」『論衡の研究 (東洋学叢書) 』創文社 1981年、『満洲紳士録』、『建国大学年表』)。 2025年9月5日 記
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