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北方圏学会の役員たち 5 尾高亀蔵

北方圏学会の役員たち 5 尾高亀蔵

北方圏学会の総合学術誌『北方圏』の解題を書いている。その創刊号に学会役員の名前が掲載されていて、いまそのメンバーの事績を調べて順次メモを作っている。その中の一人に、相談役として名前があがる建国大学副総長尾高亀蔵がいる。尾高に関して『尾高亀蔵の遺稿と追憶』(太田庄次編 尾高信夫刊 1982年)という伝記遺稿集があることがわかり、さっそくそれを読んでみた。この伝記の建国大学副総長の時代はもちろん『建国大学年表』なども使って書かれてあるのだが、わたしもこの『建国大学年表』を今一度見返しながら、建国大学副総長時代を中心に尾高のメモを作ってみた。

履歴
尾高(すえたか)亀蔵は明治17年、佐賀県東松浦郡佐志村(のちに唐津市)に大谷助平治・スエの次男として生まれた。母スエは佐賀藩士だった尾高平造の長女で、これがのちに改姓する尾高家である。佐賀県立中学校唐津分校、佐賀県立唐津中学に進んだ。両親は進学にあまり賛成でなかったようで、一度実家に戻されたが「青雲の志」を抱いていた尾高は江田島の海軍兵学校に向けて出奔する。そして江田島で諭されていったん実家に戻り、両親も納得して中学の編入試験を受け、3年生に編入学することができた。良い成績で中学を卒業、明治35年12月陸軍士官学校に入学、士官候補生として歩兵十三連隊に配属。明治37年11月に卒業し、陸軍歩兵少尉などを歴任し明治41年10月には陸軍外山学校に入学し翌年3月卒業。明治42年韓国駐箚、下士官集合教育などに従事した。明治44年吉岡須恵子と結婚。陸軍歩兵大尉などを歴任、大正2年12月陸軍大学校に入学し大正5年11月卒業している。陸軍歩兵学校教官、大正9年8月教育総監部課員兼参謀、大正12年8月陸軍歩兵中佐。昭和2年8月に歩兵大佐、陸軍士官学校本科生徒隊長となった。昭和5年軍事研究で英国駐在。昭和6年8月和歌山歩兵第六十一連隊長、昭和7年8月陸軍少将に昇進。昭和8年東京警備参謀長、天津駐屯軍戦車隊長。昭和10年4月母方の尾高を継ぎ尾高亀蔵と改姓する。昭和10年8月には第二独立守備隊司令官として吉林・間島両省の治安維持に当たった。「討匪」「安民工作」が主な任務である。ここで吉林あたりの地理地形をよく見知ることとなり終戦時のゲリラ作戦につながったようである。「実績」をあげて、関東軍司令部部隊功績審議の会で軍隷下兵団の第一位に選ばれている。昭和11年4月陸軍中将、昭和12年3月第十九師団長となり吉林を去って朝鮮羅南へ。昭和13年7月張鼓峰事件に参加、11月北支済南の第十二軍司令官。昭和14年9月第三軍司令官として牡丹江へ。これはノモンハン事件後の布陣とされ梅津美治郎司令官の指揮のもとにあった。昭和14年10月満洲国皇帝溥儀より叙勲二位景雲章。昭和16年3月軍事参議官として帰朝し6月予備役となり退官。昭和17年4月叙功二級金鵄勲章を受章。

建国大学副総長に就任
退官した尾高であったが、昭和17(康徳9、1942)年6月、「日満両国の当事者からの要望」で建国大学副総長に就任する。尾高の手記によれば梅津司令官から手紙で要請があり、また陸軍省人事局からの推薦もあったという。尾高は単身で新京へ赴任、のち須恵子夫人も渡満した。建国大学の総長は国務総理が務めたがこれは充て職で、大学の実質的な運営は副総長が担った。初代の副総長は建国大学の創設にもかかわった作田荘一である。作田は、思想的には相いれないものの河上肇と親交のあった経済学者であった。作田は建国大学の中国人学生が検挙されるという事件がおこり、その責任を取って辞任する。そして作田の後任として6月16日、尾高が着任するにいたったのである。同日に尾高は満洲国皇帝より叙勲一位景雲章を受章している。
着任式の当日尾高は正門前で迎えられ、養正堂において着任式が開催された。ここで尾高は訓示をおこなっている。その内容は、1.建国大学生としての強烈な自覚を持つこと、2.慈愛親切であれ、3.規律を尊び勇気と実行の力を養え、というものであった。
尾高の副総長人事に対しては、建国大学の教員の間に批判があった。軍からの天下りであり、陸軍が中将を押し込んできたといった批判である。同僚の真覚正慶助教授は尾高の就任の訓示を聞いて、「やっぱりと一同顔を見合わせた」と書いている。着任式ではこのあと、尾高の訓示に対する答辞を登張竹風が読んでいるのだが、登張は「われわれは言わば四十七士である。志操と団結は固く、如何なる風雪辛酸をも意としない。ただ私かに憂う、大石内蔵之助はしっかりしているのかと」と言い放ってじっとにらみつけたと真覚は続けている。そのとき将軍は、「カッと赤くなり、胸の勲章が小きざみにふるえて音をたてた。勝負はあった」と記している。登張はといえば、副総長を前にして、学の尊厳と大学の使命を、それも話術巧みにまた副総長の顔をつぶさぬように説き、ケロリともとの席に戻った、と書いている(真覚正慶「ツァラツストラ歓喜嶺にありしとき」『登張竹風遺稿追想集』郁文堂出版 1965)。これは戦後からの回想であり、登張の遺稿集での記事でもある。そして、建国大学にとっての「志操と団結」というのは、とりもなおさず「五族協和」「王道楽土」にほかならなかった。とはいえそうしたことを念頭においても、登張をはじめいわゆる研究者のなかの一定部分には、こうした感想・印象をもった人たちがいたというのは間違いのないところであったろう。登張は、研究者の中でも、学問の基礎学たる「文史哲」のドイツ文学者であった。

尾高副総長の風評
また登張のことを、「名物教授という点で、第一に思い出されるのは、何といってもドイツ語の教授だった竹風・・登張信一郎先生である」と書いた森信三も、尾高亀蔵のこととなると、ひどく悪い印象を持って回想している。
森は作田荘一副総長の後任として赴任した尾高のことを、「陸軍部内でも「赤鬼」という異名で通っていて、非常に癇癖がつよくて、何を仕出かすかしれないというので、この人が膝元の東京にいることを、最も忌み憚った東条英機が、満洲の地へ追っ払おうとしたところが作田先生の御引退、例の学生の思想事件のために、ご予定よりも半年早められた真因のようである」と述べる。実際のところはわからないが、おそらくこうした観測が当時の建国大学教職員のあいだでささやかれていたということは事実なのであろう。
森はこの尾高のことを歌にも詠んでいる。「閣下」と題された一連の歌で、「われ嘗て閣下と呼ばるるを好めりし人の許にありしことあり 今となりては過ぎ去りし夢の一齣なり」と書いたうえで5首が掲げられてある。そのうちの2首。
閣下といふ言葉を吐くを死ぬほどに思(も)ひてしことも夢となりしか
軍人官僚ら閣下となるを唯一のねがひとせしをかへりみおもふ
これは『国あらたまる : 歌集 (叢書国革まる)』(開顕社 昭和24年)に収められた歌である。尾高が自身のことを「副総長閣下」と呼ばせていたか、また「閣下」と呼ばれて喜んでいたか知れぬところではある。ただ軍隊の階級の「中将」にこだわり、受勲および勲章に関してことのほか誇りを感じていた尾高のことを思い合わせてみると、こうしたそぶりがあったということは事実なのであろう。それにしても酷評ではある。
またほかに、「閣下と呼ぶこと堪へ難くしてわが椅子を擲たんとせし幾そたびなりし」と歌を残している森にしてみれば、「軍人副総長」の尾高を心から忌み嫌っていたということなのであろう。
この歌集の巻頭には、「昭和21年6月7日引揚者の一人として舞鶴港に着す」として
妻や子の生きし死にさへも分(わ)かずして吾が身ひとりが歸り来にけり
と詠ってもいるが、いずれにしても、引き揚げ時の感情あふれる歌から、1,2年も過ぎたのであろうか、建国大学時代を思い起こし、いささか客観化したうえで、また忸怩たる思いで回想した時期に詠んだ歌なのであろう。

建国大学の尾高副総長
その尾高であるが、尾高とて和歌を詠み漢詩もたしなみ、「望楠」という雅号も持ってはいた。しかしながら、根っからの軍人気質の陸軍中将尾高亀蔵と、ニイチェの研究家でもある文学者竹風登張信一郎や他の学者肌のと教員たちとでは、所詮相いれるところがなかったのであろう。ちなみに先の回想を書いた真覚生慶は、登張と親しかった建国大学教員のひとりであり、登張が親しくしていた教員はほかに、大間知篤三・植村敏夫・平田春雄・斎藤英一らがいたという(大山聡「竹風先生の思い出」『登張竹風遺稿追想集』郁文堂出版 1965年)。
森が建国大学時代の「名物教授」としてあげているのは、朝鮮史の君山稲葉岩吉や「満洲教育の父」とされる岩間徳也、また森の推挙で建国大学に赴任した教員に、美学の金原省吾、精神史の鈴木重雄、仏教思想家の伊藤証信らをあげている。いずれにせよ、尾高亀蔵副総長は、登張竹風や真覚正慶・森信三ら教員とはそりが合わなかったのは確かであった。
康徳9(昭和17、1942)年10月、尾高副総長は空席だった満洲法理研究会会長に就任。同年12月の修業式には「現実を直視すべし」との訓示。康徳10(昭和18、1943)年1月に発令された研究題目では、尾高は「六、総力戦研究班(綜合)」で、その班長として「満洲国総力戦体制の確立に関する研究」を行なうこととなった。3月27日には尾高の「奉天会戦についての戦史」の講話が行なわれている。その時の学生の感想に、統率者たるもの、どこかで決断を下すための勇気・達観・胆力が必要だと感じた、とある。4月29日の天長節式典では、昭和13年8月の張鼓峰事件について述べ、天皇の満足を拝したと感涙にむせんだ(『建国大学年表』)。11月26日全学生に訓示「門出に与う」、その内容は『建国大学年表』により書き出せば、
・命令は如何なる犠牲を払っても必ず遂行しなければならない
・順序を経ない意見具申は軍律の破壊である
・幹部としての醜態は部下に迎合することである
・「死生」というものは他人から聞いた話では分からない、自らその場に臨んでこそ初めて了得するものである
・弾丸が来た、これで顔色が変わる人はどんなに頭がよくても問題にならない
・たいていのつまらないことは勇気でカバーすることができる。その勇気は任務に対して生死を超越することに由って養われる
こうした尾高の訓示をみると、やはり軍隊生活で培われた武断派の精神主義、決意主義であることが見えてくる。文武両道で精神の持ち方を重要視する建国大学とはいえども、「これでは」と思う教員も少なからずいたのではないかと思わせる内容ではある。
康徳10(昭和18、1943)10月12日学内巡視補佐官の任命が行なわれ、前期1学年担当補佐官に森信三・佐藤匡玄ら、前期2学年に宮川善造・山本守ら、前期3学年には安倍三郎・大間知篤三ら、後期2年には江頭恒治・大森志朗ら、後期2年には向井章・高橋匡四郎らが任命され、16日に尾高副総長による学内巡視が行なわれ、1 図書点検、2 校舎および塾舎外の整備整頓、3 ガラス窓その他の保管整備状況、の3点が点検された。このうち主眼は、学生の趣味思想などをその蔵書により調査する「図書点検」でこれには先に任命された巡視補佐官の教員があたっている。
康徳11(昭和19、1944)年2月11日紀元節では、教育勅語奉読などののち尾高の訓示は「神武天皇御聖徳」であった。
日本の敗戦の色が濃くなり、建国大学の学生に対してもあいついで召集令状が来る。そんななかで、主席教授であった千葉胤成とともに還暦の祝賀が開催された。両夫人も参加。ここで各民族の舞踊が演じられた。日々の尾高はといえば、合気道を始めている。牡丹公園の神武殿で建国大学富木謙治教授らの指導でけいこに励んだ。『建国大学年表』を見てみても、この昭和19年という時期、教員の研究活動は、もちろん大きな歯止めはあったにせよ、予想するよりはるかに活発で、出張や現地調査などにより研究活動を展開していることがうかがわれる。「五族協和」という看板を背負っていれば、言い換えれば、看板を背負っていることにすれば、建国大学にあっては、比較的自由に活動ができる、そんな余地が用意されていたということなのであろう。

昭和20年1月には学術総合誌『北方圏』が北方圏学会から刊行されるが、尾高は学会の相談役に就いている。北方圏学会は会長に沈瑞麟、相談役12名、22名の世話役、4名の幹事により構成されていた。尾高はこの学会を支えたとともいえる建国大学の副総長として選出されたのであろう。そして尾高は第3号の巻頭に「奉天会戦戦勝の真因」を書いている。康徳12(昭和20)年4月1日尾高は新京師道大学学長を兼務。同日、中司和宗は同日新京師道大学助教授兼舎監、建国大学属官。

終戦時の建国大学と尾高亀蔵
昭和20年8月9日、ついにソ連軍が参戦し南下し始めた。建国大学では11日に日系教職員だけで「秘密緊急教授会」を開催する。尾高副総長は、ソ連軍の対日宣戦布告と戦況、関東軍司令部の通化への移転、家族は通化または朝鮮へ退避、ソ連軍は13日には建大に到達する見込みである、と現況を告げ、教授らそれぞれに意向を書くように促した。その後尾高は別室でその所見を読む。そして会議室に戻り次のように決断し命令を下した。
1. 建大教職員は尾高副総長の統率のもとに建国大学戦闘隊を結成しソ連軍の進撃を阻止する、ただ不同意の教職員の行動は自由とする、
2. 午後3時に最終の教職員会議を開く、
3. 日系以外の学生は公主嶺の軍需工場に勤奉隊として参加する、
4. 日系学生は大学でソ連軍迎撃の態勢に入る、
午後4時に「満系学生」らは軍需工場にむかうことになり壮行式が開催された。尾高副総長・千葉教授らも参加、これで五族協和の建国大学としてはいわば実質的な解散となった。
こうして建国大学では、尾高副総長を先頭に建国大学戦闘隊が結成された。統率は尾高副総長、大隊長兼第一中隊長に安倍三郎教授、第二中隊長西元宗助助教授、第三中隊長寺田剛助教授である。ただ日系の建大学生の多くは12日の「根こそぎ動員」「臨時防衛召集」により不在で、残留学生は20歳に満たない年少の学生70余名となってしまっていた。尾高はといえば、「功〇級勲〇等陸軍中将元軍事参議官」と墨書で大書した白布を胸に縫い付け、日本刀を帯びて馬に乗って駆け回っていた。胸に縫い付けたという墨書というのは、ここまで尾高が受章した「功二級金鵄勲章」「勲一位景雲章」である。これが尾高の誇りであり自分の身分証明であったわけである。12日夜には全員が本部に集められ、ソ連軍が南下を続けていること、若い学生諸君には志成らずしてこの地に果てさせることは忍びないが建大生として恥じぬよう、戦ってほしいと訓示を述べた。街には「憂国の士は南嶺に集合せよ!張鼓峰の勇将尾高将軍の下に対ソ遊撃戦を敢行せん」といったビラも貼られたという。
しかしながら15日を迎える。終戦の詔があり、建国大学は解散、教職員も解職となった。先に結成された建国大学戦闘隊は解散となり、大学からは各自の進路を進むようにとの指示があった。18日には建国大学教職員会議および尾高副総長訣別式が開催される。ここではいろいろな意見が出たが安倍三郎教授は、終戦勅語は出た以上はこれ以上がんばっても無意味である、父兄から預かった学生を無事に日本に帰すことこそが責任であると述べ、副総長はおおむねこの線に沿って次のような支持を出した。
1. 本日をもって正式に建国大学を解散する、各自家庭に戻り、運あれば日本に無事帰還するように、
2. 日系学生については教職員が2,3名ずつ預かって帰還まで行動を共にすること、
3. 教職員には政府の指示により半年分の給料を支給する、それ以降は自助努力、
4. 応召者には給料は別途家族に届けること、
5. 学生には1人5百円と食料1か月分を支給、
そして尾高はといえば、自分は陛下の知遇により陸軍中将軍事参議官の職に就いた、今このことを考えるとこのまま空しくソ連軍の手に落ちるのは忍びない、そこで某方面に赴いて戦うこととした、諸氏は自愛されよ、と語り訣別の辞とした。
その後尾高はその訣別の言の通り吉林付近に向かい、吉林に待機しているとされる関東軍若手将校とともにゲリラ隊を組織して抗戦を図ろうとした。しかしながら作戦は不首尾に終わり、断念して19日には新京に引き返してきた。先の教職員会議および尾高副総長訣別式において、職員や学生に訣別の辞を述べたことから、「おめおめ何等なす所なく面をあわすに忍びず」、満洲鉱発の家成侑典宅にかくまわれ、一週間ほどして満洲国司法部大臣張韓相を頼って、結局神武殿近くの東洋パルプ社長音申吉の二階に家族5人で潜んで暮らした。ここも危なくなり中司の世話で中司の隣組の至聖大路第五集合官舎二階に転居している。
尾高の作戦に同道した中司和宗が事の次第を回想している。それによれば以下の通りであった。中司が「尾高公館」に行ってみると、関東軍軍司令部から下士官と兵士6名が派遣されており、自動貨車2台、それに食糧・弾薬・寝具が積み込まれてあった。さらに建国大学の学生3名(松平康昭・服部峰雪・西口為之)も同道で吉林に向かうとのこと。中司も同行することとなり、第一車に「国に殉じる覚悟」の尾高須恵子夫人と3人の娘(春野・璋子・弥生)、助手席に尾高、運転は中司であった。第二車には下士官・兵士と学生であった。しばらく吉林方面に進んだが吉林に向かう道路の橋は破壊されていた。偵察を出して様子をうかがったが、どうも吉林へ入る橋はみな落とされ、唯一入れる南関の入り口は武装兵が集結しているということであった。中司が、「やりますか」と尋ねると、尾高は、「張鼓峰のときと同じだ、長君も同じことを言った」とニコニコしながら答え、結局吉林行きは中止となり新京に戻ることになった。駅にもソ連軍が数多く立っていて、尾高の作戦は中止、下士官は司令部に復帰させ、学生と中司らは建国大学の宿舎に戻ることになった。そして尾高らは満洲鉱発の家成侑典宅に向かったのだという。
一方建国大学にあっては、8月20日武装解除、23日には建国大学で卒業証書・在学証明書を授与し、千葉胤成副総長代理が訓示を述べて閉学宣言をおこなった。ここに名実ともに建国大学は閉学となったのである。参会者は教員数十名と日系学生約百名であった。小糸夏次郎助教授・江頭恒治教授・森信三教授の起草になる「建国大学閉学宣言文」が『建国大学年表』の8月20日の条に掲出されている。

引き揚げ
通人知人のおかげで尾高家族は国民軍やソ連軍の手にかかることはなかった。新京ではいく度か住まいを替え、昭和20年12月16日には一家で奉天(瀋陽)紅梅町の永谷アパートに移ることとなった。奉天では尾高の顔もさほど知られてはおらず、少しは街に出たのだという。「ゲリラ戦」に同行した建国大学生の服部峰雪・西口為之は、ここまで身近で尾高らの身を守ってきたが、一足先に引き揚げることとなった。
紅梅町から出雲大社の難民収容所に移ったが、須恵子夫人の容態も悪く、当時東北導報社に職を得ていた娘璋子の同僚の元満鉄社員高橋嘉夫が満鉄独身寮泰山塾長であったことから須恵子はここに移動することとなった。璋子と高橋はこの縁により尾高家族の引き揚げが決まった時点で、泰山塾の塾長室において簡単な結婚式を挙げたのだという。この璋子は奉天(瀋陽)に残った。そんなことから、引き揚げに当たって尾高は後生大事にしてきた張鼓峰関係の書類と勲章一式を璋子に預けた。璋子は、書類は持ち帰ったが、勲章類はもしも所持が発覚した時に全員に迷惑がかかると思い、勲一等のみ持ち帰った。持ち帰るにあたっては、缶を二重底にして底に隠し置き、その上に味噌を入れてわからないようにしたのだという。
尾高の家族は昭和21年8月10日西奉天駅構内の収用所を出発した。病気が重かった須恵子は担送患者、弥生は軽症患者として移動した。奉天ではコレラが発症したことにより留め置かれ、9月2日ようやく葫蘆島に到着、病院船の氷川丸に乗船し18日ようやく博多に着岸する。しかしながら日本に引き揚げて1週間ほどあとの9月26日須恵子夫人は国立筑紫病院で死去してしまった。尾高はその3か月ほど前の6月7日には三女の八重子を奉天で亡くしている。しかも一緒に引き揚げてきた七女弥生も昭和22年5月16日唐津で亡くなってしまった。こうした事態は、軍を退官後に建国大学副総長として新京に赴任した尾高にとって痛恨極まりないものであったろう。当初は単身赴任であったが、のちに夫人と子どもたちを呼び寄せている。ソ連軍の南下と終戦、吉林でのゲリラ戦の企てと、それが不首尾に終わった結末、これらに尾高の家族は同伴していたわけであるから。
引き揚げ後、尾高は九州の各地に移り住んだ。そのうちの昭和24年5月、天皇の九州巡行があることを知る。そこで尾高は、時の佐賀県知事沖森源一に、「天莫空勾践 皇民尽范蠡 昭和24年5月 佐賀県佐志町 大谷隆男方 元軍事参議官陸軍中将正三位勲一等功二級 尾高亀蔵」と墨書し書留で送った。天は戦で敗れた勾践(こうせん)を見捨てはしない、また范蠡(はんれい)のような皇国の民が現れることであろう、といった意味であろうか。
ここで尾高が記している肩書は、「元軍事参議官」で「陸軍中将」、「正三位勲一等功二級」というものであった。軍隊での最終の地位を書き、その勲功を書いたということになる。それは満洲国建国大学副総長というものではなかった。あくまで尾高は軍人であったわけである。元軍人として24日に唐津に巡行した天皇を迎えたのであった。
そんな尾高が亡くなったのは昭和28年8月1日、葬儀は高円寺の自宅で執り行われた。建国大学教授で心理学の安倍三郎が追悼の歌を霊前に呈したという。安倍はソ連軍の南下に備えて結成された建国大学戦闘隊では、統率の尾高副総長についで、大隊長兼第一中隊長を務めた人物である。
納骨は大谷家の菩提寺龍譲山光孝寺で執り行われた。昭和30年になり、小平霊園に尾高家先祖代々の墓を新たに建てて、尾高亀蔵・須恵子夫人・弥生の遺骨を納めている。墓地は小平霊園11区19側、尾高亀蔵の戒名は厚徳院殿秀勲誠真大居士である(太田庄次 編『尾高亀蔵の遺稿と追憶』尾高信夫刊 刊 1982年、湯治万蔵編『建国大学年表』建国大学同窓会建大史編纂委員会 1981年)。

むすび
ここまで、昭和17年に作田荘一の後任として建国大学副総長に就いた陸軍中将尾高亀蔵について述べてきた。すでに書いたように、この就任は尾高の第三軍司令官時代の上官梅津美治郎司令官の推薦によるところが大きかった。そんなことから、建国大学に在職の教員の間で、軍からの天下り人事であるとの批判があったようである。とはいえ、建国大学とて五族協和の満洲国の国策に沿って創設された国務院直轄の大学であり、軍事訓練や農事訓練、武道が重視されるいわば文武両道の大学であった。総長は充て職ではあったが国務総理が就いていた。ただもちろん満洲国の最高学府として高度な研究を行なう大学でもあったから、一部の研究者の間で軍出身の尾高の評判は芳しくなかったのである。
尾高はといえば「望楠」という雅号を持ち、書をたしなみ、歌を詠み、漢詩も物する文人という側面も持っていた。しかしながらその経歴からすれば、まぎれもなく軍人であり「武」の人であった。もちろん尾高は建大副総長にあっても学生の面倒をよく見たであろうし大学の運営にも熱心に取り組んだと思われる。昭和20年に創刊された総合学術誌『北方圏』の北方圏学会においても相談役を務めている。この学会の創設には建国大学の役割が大きかったことから副総長の尾高もその責任をよく自覚し、学会役員に名を連ね、実際『北方圏』第3号に10頁にわたる「奉天会戦戦勝の真因」を寄稿もしているのである。
そんな尾高が陸軍中将出身の副総長として「らしさ」を発揮したのは、ソ連軍南下に抗するための建国大学戦闘隊の結成、その時に「功〇級勲〇等陸軍中将元軍事参議官」と大書した白布を胸に縫いつけて騎馬にて走り回っていた姿、終戦の詔が発出された後に大学で訣別式を催し尾高は吉林方面へゲリラ戦に向かうと宣言して出陣したこと、などであろうか。
ところが終戦を迎え、戦闘隊も解散、吉林での抗戦も不首尾に終わり、ゲリラ隊の一行は新京に引き返している。この作戦は、結果的には遂行には至らなかったものの、軍人の道ひと筋を歩んできた尾高にとってはある意味必然不可避の道筋であったであろう。同道した娘の春野(加来春野)の回想には、新京に戻った後、中司和宗の隣組の至聖大路第五集合官舎に移ったとき、尾高は、「勲章(旭一、功二、満洲国の勲一位ほか多くの記章類を黒い袋に入れ、軍刀とともに紐で吊るしました」とある。また戦後になり、佐賀県へ天皇が巡行する際、知事宛に書き送った書面の肩書も 「元軍事参議官陸軍中将正三位勲一等功二級」 であった。それは軍人尾高亀蔵にとっての誇りであり、誉れであり、生きた証であり、文字通りの「勲章」であったのである。
そんな尾高のことを考えるとき、尾高にとってこの建国大学副総長の職に就いたことは如何なものであったかということである。五族協和を掲げる国策遂行のための大学であったとはいえ、軍人としての履歴からは大きく異なる道であった。そんな大学の副総長に就任したのである。康徳9(昭和17)年の副総長就任は梅津司令官による要請であったし、陸軍省人事局の推薦もあった。そうであれば尾高にとって断るという選択肢はなかったであろう。建国大学の総長は満洲国国務総理の充て職であったから、副総長の尾高が実質的な管理運営者であった。尾高はおそらく誠意その仕事に取り組んだであろうし、文に覚えのある尾高は『北方圏』にも論文も執筆した。
それでもやはり、尾高は「武」のひとであり軍人魂のひとであった。戦闘隊の襷に書かれた肩書や、天皇巡行の手紙の肩書をみても、それは終始一貫していた。「我こそは陸軍中将なり」、と言いたかったわけである。決して、「建国大学副総長なり」、とは言わないのである。
尾高にとって、退役後の建国大学副総長就任およびそれに伴う渡満は大きな決断であった。辞退をしがたい就任ではあったが、これがその後の運命を大きく左右することとなった。もちろんこれは後世に生きるわたしたちの後知恵であるのだが、この分岐点はやはり尾高にとって大きなものとなった。
満洲からの引き揚げ直後に夫人を亡くし、はたまた子女をも失った尾高の心情や、如何ばかりであったろうか。その分かれ道が昭和17年の建国大学副総長の就任であったことは間違いないだろう。尾高自身も、副総長の就任により結果的には夫人と子女を亡くす原因となったと述べている。そんなこともあり、尾高にとっての最終職歴というか自己証明の仕事は、建国大学副総長ではなかったのではないか。 2025年9月4日、10月11日追記